会員のカトケンです。
昨年11月末、都内青山霊園において当会初めての試みとなる巡墓会を催し、龍馬ゆかりの人物を案内させていただいきました。
その時紹介した1人に佐藤政養(与之助)がいます。勝海舟の神戸海軍塾で龍馬とともに塾頭を務めた人物です。
その墓碑に明治になって京都において先祖たる佐藤継信・忠信兄弟の墓を建てたという気になる一節が刻まれていました。
そこで今回、その墓が実際にあるのかどうか確かめに行ったところ、十三重の記念塔こそ京都国立博物館の敷地内に収められていましたが(=写真)、かつて記念塔があった馬町にもとうがらし店の前にちゃんと石碑が建っていました。
正面に「佐藤継信忠信之塚(名前部分割り書き) 正六位佐藤静養之碑」、裏面に「昭和二年三月佐藤政治郎建之」と刻まれていました。政治郎は息子でしょうか。
その碑の後ろに細い路地が延びているため冷やかしついでに行ってみると、左手に明治6年(1873)12月に佐藤政養が建てた佐藤兄弟の墓が確かにあったのです(=写真)。
向かいには一段高いところに、政養の父与兵衛を讃える「佐藤文褒翁之碑」があり、明治9年(1876)に与之助により建てられていました。傍らには自然石でできた佐藤政養鎮魂碑もありましたが、残念ながら碑面がみな落ちてしまい、わずかな残骸が残っているだけでした。(=写真)
この三つの碑は民家の合間を縫ってわずかな隙間に、しかし力強く建っていました。「墓」には花が供えられ、地元の方に大切にされていることがうかがえます。
今回のように、墓に刻まれた記述からその真偽を確かめることができたのは、とても嬉しく幸いなことであったと思います。
この目的地にたどり着くには、京都国立博物館のホームページに馬町の路地裏に塔があったという記述がヒントになりました。感謝申し上げます。
そして、幕末の上方に長く滞在した佐藤政養がなぜこの地にその塔墓を建てることになったのか--新たな謎に迫るため興味は尽きません。
(東山区東大路渋谷通東入ル)
昨年11月末、都内青山霊園において当会初めての試みとなる巡墓会を催し、龍馬ゆかりの人物を案内させていただいきました。
その時紹介した1人に佐藤政養(与之助)がいます。勝海舟の神戸海軍塾で龍馬とともに塾頭を務めた人物です。
その墓碑に明治になって京都において先祖たる佐藤継信・忠信兄弟の墓を建てたという気になる一節が刻まれていました。
そこで今回、その墓が実際にあるのかどうか確かめに行ったところ、十三重の記念塔こそ京都国立博物館の敷地内に収められていましたが(=写真)、かつて記念塔があった馬町にもとうがらし店の前にちゃんと石碑が建っていました。
正面に「佐藤継信忠信之塚(名前部分割り書き) 正六位佐藤静養之碑」、裏面に「昭和二年三月佐藤政治郎建之」と刻まれていました。政治郎は息子でしょうか。
その碑の後ろに細い路地が延びているため冷やかしついでに行ってみると、左手に明治6年(1873)12月に佐藤政養が建てた佐藤兄弟の墓が確かにあったのです(=写真)。
向かいには一段高いところに、政養の父与兵衛を讃える「佐藤文褒翁之碑」があり、明治9年(1876)に与之助により建てられていました。傍らには自然石でできた佐藤政養鎮魂碑もありましたが、残念ながら碑面がみな落ちてしまい、わずかな残骸が残っているだけでした。(=写真)
この三つの碑は民家の合間を縫ってわずかな隙間に、しかし力強く建っていました。「墓」には花が供えられ、地元の方に大切にされていることがうかがえます。
今回のように、墓に刻まれた記述からその真偽を確かめることができたのは、とても嬉しく幸いなことであったと思います。
この目的地にたどり着くには、京都国立博物館のホームページに馬町の路地裏に塔があったという記述がヒントになりました。感謝申し上げます。
そして、幕末の上方に長く滞在した佐藤政養がなぜこの地にその塔墓を建てることになったのか--新たな謎に迫るため興味は尽きません。
(東山区東大路渋谷通東入ル)