会員のカトケンです。
5月30日(日)、護国寺・雑司ヶ谷霊園において当会による第2回巡墓会を敢行、多数の方に参加いただき感謝申し上げます。
そこで予告どおり最後におまけとして紹介した墓は、写真にあるように坂本龍馬を初めて世に出した小説『汗血千里之駒』の作者 坂崎紫瀾のものでした。本名は斌。「さかん」と読みます。

ほかに著作としては『陸奥宗光』『維新土佐勤王史』などがあります。
嘉永6年11月7日(1853.12.7)江戸の土佐藩鍛治橋藩邸生まれ、土佐へ帰って藩校致道館に学びました。
信州で新聞編集をしたあと、土佐へ戻って高知県庁へ勤務、官憲派と思いきや、自由民権運動に転じます。
文章はおろか、演説においても各地を遊説してまわるほど活躍した人物です。息子侃(かん)は哲学者として知られ、一緒に葬られています。
近年、高知市廿代町の生家跡に記念碑が建てられました。今までなかったことが不思議なくらいです。
家紋は丸に割り違い矢と思われます。
(一種2号2側)
5月30日(日)、護国寺・雑司ヶ谷霊園において当会による第2回巡墓会を敢行、多数の方に参加いただき感謝申し上げます。
そこで予告どおり最後におまけとして紹介した墓は、写真にあるように坂本龍馬を初めて世に出した小説『汗血千里之駒』の作者 坂崎紫瀾のものでした。本名は斌。「さかん」と読みます。

ほかに著作としては『陸奥宗光』『維新土佐勤王史』などがあります。
嘉永6年11月7日(1853.12.7)江戸の土佐藩鍛治橋藩邸生まれ、土佐へ帰って藩校致道館に学びました。
信州で新聞編集をしたあと、土佐へ戻って高知県庁へ勤務、官憲派と思いきや、自由民権運動に転じます。
文章はおろか、演説においても各地を遊説してまわるほど活躍した人物です。息子侃(かん)は哲学者として知られ、一緒に葬られています。
近年、高知市廿代町の生家跡に記念碑が建てられました。今までなかったことが不思議なくらいです。
家紋は丸に割り違い矢と思われます。
(一種2号2側)
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