会員のクロサカです。
先日、11月27日(日)に「探墓巡礼顕彰会オフ会-麟祥院と春日局の足跡-」を開催いたしました。
昨年好評だった「オフ会」を本年も開催いたしました。
短めの巡墓会と早めの時間からの忘年会を兼ねた懇親会を行いました。
そして今回から新しい試みとして、周辺にある史跡もめぐりました。
今回は、巡墓人物の一人である春日局に関する史跡(出世稲荷神社・礫川公園の春日局銅像)でした。
麟祥院で行った巡墓会で解説した人物は以下の通りです。
橋本綱維 (クロサカ)
杉浦萱水・杉浦譲 (カトケン)
春日局 (カトケン)
稲葉家 (クロサカ)
斎藤摂津守家 (カトケン)
正親町三條(嵯峨)実愛 (クロサカ)
春日局関係史跡で解説した場所は以下の通りです。
出世稲荷神社 (カトケン)
礫川公園の春日局銅像 (カトケン)
釣洋一先生もお越しになり、巡墓会の開会式にて、暦に関するお話をしていただきました。。
私は、橋本綱維・稲葉家・正親町三條実愛を解説しましたが、橋本と正親町三條については、一番力を入れて調べました。
当日は雨の予報でしたが、巡墓会が終わるまでの間、なんとかもってくれました。
講師含め参加者13名の巡墓会は無事に終了しました。
懇親会にも多くの方に参加して頂き、年内最後の良い締めくくりとなりました。
寒い中、ご参加頂いた皆様に心から御礼申し上げます。
麟祥院様にもこの場を借りて改めて御礼申し上げます。
来年の活動につきましては12月中に話し合った上で、発表いたしますが、引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
先日、11月27日(日)に「探墓巡礼顕彰会オフ会-麟祥院と春日局の足跡-」を開催いたしました。
昨年好評だった「オフ会」を本年も開催いたしました。
短めの巡墓会と早めの時間からの忘年会を兼ねた懇親会を行いました。
そして今回から新しい試みとして、周辺にある史跡もめぐりました。
今回は、巡墓人物の一人である春日局に関する史跡(出世稲荷神社・礫川公園の春日局銅像)でした。
麟祥院で行った巡墓会で解説した人物は以下の通りです。
橋本綱維 (クロサカ)
杉浦萱水・杉浦譲 (カトケン)
春日局 (カトケン)
稲葉家 (クロサカ)
斎藤摂津守家 (カトケン)
正親町三條(嵯峨)実愛 (クロサカ)
春日局関係史跡で解説した場所は以下の通りです。
出世稲荷神社 (カトケン)
礫川公園の春日局銅像 (カトケン)
釣洋一先生もお越しになり、巡墓会の開会式にて、暦に関するお話をしていただきました。。
私は、橋本綱維・稲葉家・正親町三條実愛を解説しましたが、橋本と正親町三條については、一番力を入れて調べました。
当日は雨の予報でしたが、巡墓会が終わるまでの間、なんとかもってくれました。
講師含め参加者13名の巡墓会は無事に終了しました。
懇親会にも多くの方に参加して頂き、年内最後の良い締めくくりとなりました。
寒い中、ご参加頂いた皆様に心から御礼申し上げます。
麟祥院様にもこの場を借りて改めて御礼申し上げます。
来年の活動につきましては12月中に話し合った上で、発表いたしますが、引き続き当会へのご支援・ご指導・ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
橋本家の次男、橋本綱維氏の墓所が文京区湯島だったとは驚きました。
てっきり福井の左内公園だとばかり思っていましたので…。
明治5年に母の梅尾さんと福井から東京に移住されて、きっと、そのまま東京で亡くなられたということでしょうか…。
30代後半で若くして亡くなっているので、妙に死因が気になっています。
亡くなる少し前に、松平春嶽公に、兄・左内に関する回想記を依頼しているあたりから、よもや病だった可能性もあるのかな…と推測している次第です。
折を見て、麟祥院には足を運んでみたいと思います。
ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
橋本綱維の墓は左内公園ではなく、こちらにあります。
死因については把握できていませんが、麟祥院の墓碑は友人たちが建てたようです。
場所は墓地に向かう道を行き、墓地入口を右折し、すぐの左側に木々が生い茂っている場所があるのでその中にあります。お墓は一基のみです。
ちなみに他の橋本綱常ほかの墓は麻布の長谷寺にあります。
もしご不明な点などあれば再度コメントを頂けると幸いです。
つい最近知ったのですが…橋本綱維氏には「綱規(つなのり??)」という子供がいるようです。
どうやら、つまるところ、このご子息の墓所は麟祥院ではなく別な場所にある、ということのようですね…。
一方で、麻布の長谷寺の墓石には「橋本家之墓」とありますので、おそらくは綱常氏のひ孫の橋本長茂さん達が管理なさっている墓所、ということでしょうね。(私はまだ足を運んではいません…)
折りをみて、時間をとって福井と東京をまわりたいと思っています。
ところで、余談ではありますが…橋本綱維氏の死因は病死のようです。
白崎昭一郎氏の書かれた文章のなかに、
「左内と綱常は謹直な性格であったが、綱惟は洒脱な人柄で、芸妓遊びに興ずるようなところもあった。人間的には面白い人物であったろうが、惜しくも若くして世を去った」
…とあり、どことなくアルコールが関係している可能性を感じます。
というのも、兄・左内も幕吏による家宅捜索を受け、謹慎生活に入ってからは仕事と収入を失い、酒を飲みつつの漢詩創作と読書に明け暮れる日々だったようです。
(側に下男を置いていたので、家計の不安は相当に悩みの種だったようです)
そのときの漢詩のなかに、
「(年の瀬が迫る12月12日。この日の夕方に酒をいただいたので)自分もまた、とっくりと酒瓶を兵士に見立てていくつか陣地を張ってみた。さあ、飲み交わしの闘いはどこの家が熱く盛り上がっているか?」
…という内容(意訳)や、
「(12月31日の今日が来るまでに、)かなりの額の酒を掛け買いして負債を抱えてしまったとはいえ、それでも、(これからやってくる春のために)梅の盆栽を何鉢か買う資金はまだ残っている」
…という内容(意訳)があり、どうやら相当の酒好きであることが窺えます。
(藩邸内の小さな狭い官舎に住んでいて、東隣の家の主人と、お互いに招きあって蒸した鶏肉・豚肉を肴に飲んでいたようです)
酒好きの家系……などとはまったく思いもよらず、意外でした。
長文・駄文、大変失礼いたしました。
再度のコメントありがとうございます。
長谷寺の橋本家の墓の裏面には「昭和三十一年三月改修 長正」と刻まれており、その脇にも「平成三年十一月改修」と刻まれています。
墓誌の方にも「平成十五年春彼岸改修 長紀米寿ヲ記念シ建立ス」とある通り、三度の改修が行われているようです。
福井の合祀墓には綱維の子小春と綱常の子徳?の戒名と名前があり、明治三年まで刻まれています。その合祀墓も明治十七年に建てられたものです。
ここからは推論ですが綱規は長谷寺で合祀されているかもしれません。
橋本家だけではなく、多くの福井藩士が江戸にある先祖の墓を整理し、移転し合祀しています。
長谷寺の方にこれからも行く機会がありますのでこちらでも調べてみたいと思います。