会員のカネコです。5月4日(月)に高麗川聖天院、飯能能仁寺、智観寺の調査に行きました。
高麗川聖天院には高句麗国からの渡来人高麗王若光の墓があります。文武天皇の御代、高句麗国から亡命した若光はこの高麗川近辺の地を賜り、開拓しました。若光はこの土地の人に崇められ、近くの高麗神社に祀られました。高麗神社は代々若光の子孫である高麗氏が神職を務め現在に至ります。聖天院はこの若光の菩提寺として建てられました。
墓所は雷門の右手にあり、王廟と呼ばれ、覆堂の中に多重石塔が建てられています。高麗氏の菩提寺ということで、高麗神社歴代神職の墓もあるかと思い、寺の左の墓地を見ました。墓地中腹に江戸期の宝篋印塔群を見つけたのですが、どうやら聖天院の歴代住持のもののようです。だだ、高麗家は中世から江戸期にかけて修験者でもあったので、聖天院との関係も含め今後の調査課題とします。
この後は飯能へ移動し、能仁寺、智観寺を調査しました。能仁寺にはまず寺の山門前に大きな五輪等があります。これは増上寺徳川家霊廟にあった甲府宰相徳川綱重の旧石です。増上寺改装の際、多くの石塔と燈籠が西武沿線の寺院に委譲されました。この綱重の石塔もその一つです。山門をくぐると両側には増上寺の石燈籠が並びます。
墓地は本堂の両側と背後に広がる広大な敷地です。
まず左墓地には旗本中山家の墓があります。この中山家は勘解由家と言い、中山家勝・家範の自然石墓を始め、火附盗賊改を務めた丹波守直守などの墓が並んでいます。
この左墓地を登ると、新しく造営された墓地があり、その山頂に久留里藩主黒田家歴代当主の墓があります(写真)。初代直邦は元々中山姓であったが、母方の黒田姓を名乗りました。5代将軍綱吉に重用され大名となった。直邦の墓はこの寺からさらに山間部の多峰主山の山頂にあります。能仁寺には2代直純から9代直和の墓が並んでいます。
ここから右墓地に下ると中腹に黒田家の子女墓が並んでいます。
近辺には中山姓の墓も結構ありました。
これらの大半には丹治真人の文字が刻まれています。
右墓地の下段には源氏物語の口語訳などで知られる国文学者五十嵐力に墓もあります。
智観寺には水戸藩付家老中山家の墓があります。
初代中山信吉は中山家範の次男で、徳川頼房の付家老となり、常陸松岡を居館としました。中山家は江戸期を通じ、水戸徳川家の陪臣でしたが、明治元年に諸侯に列しました。
初代信吉の墓は墓域の奥の円墳上の宝篋印塔です。2代・4代以外の歴代当主・子女の墓が広い墓域に林立しています。
分家で旗本の信吉次男吉勝家の墓もあります。合計で50基程度の墓碑があります。
高麗川聖天院には高句麗国からの渡来人高麗王若光の墓があります。文武天皇の御代、高句麗国から亡命した若光はこの高麗川近辺の地を賜り、開拓しました。若光はこの土地の人に崇められ、近くの高麗神社に祀られました。高麗神社は代々若光の子孫である高麗氏が神職を務め現在に至ります。聖天院はこの若光の菩提寺として建てられました。
墓所は雷門の右手にあり、王廟と呼ばれ、覆堂の中に多重石塔が建てられています。高麗氏の菩提寺ということで、高麗神社歴代神職の墓もあるかと思い、寺の左の墓地を見ました。墓地中腹に江戸期の宝篋印塔群を見つけたのですが、どうやら聖天院の歴代住持のもののようです。だだ、高麗家は中世から江戸期にかけて修験者でもあったので、聖天院との関係も含め今後の調査課題とします。
この後は飯能へ移動し、能仁寺、智観寺を調査しました。能仁寺にはまず寺の山門前に大きな五輪等があります。これは増上寺徳川家霊廟にあった甲府宰相徳川綱重の旧石です。増上寺改装の際、多くの石塔と燈籠が西武沿線の寺院に委譲されました。この綱重の石塔もその一つです。山門をくぐると両側には増上寺の石燈籠が並びます。
墓地は本堂の両側と背後に広がる広大な敷地です。
まず左墓地には旗本中山家の墓があります。この中山家は勘解由家と言い、中山家勝・家範の自然石墓を始め、火附盗賊改を務めた丹波守直守などの墓が並んでいます。
この左墓地を登ると、新しく造営された墓地があり、その山頂に久留里藩主黒田家歴代当主の墓があります(写真)。初代直邦は元々中山姓であったが、母方の黒田姓を名乗りました。5代将軍綱吉に重用され大名となった。直邦の墓はこの寺からさらに山間部の多峰主山の山頂にあります。能仁寺には2代直純から9代直和の墓が並んでいます。
ここから右墓地に下ると中腹に黒田家の子女墓が並んでいます。
近辺には中山姓の墓も結構ありました。
これらの大半には丹治真人の文字が刻まれています。
右墓地の下段には源氏物語の口語訳などで知られる国文学者五十嵐力に墓もあります。
智観寺には水戸藩付家老中山家の墓があります。
初代中山信吉は中山家範の次男で、徳川頼房の付家老となり、常陸松岡を居館としました。中山家は江戸期を通じ、水戸徳川家の陪臣でしたが、明治元年に諸侯に列しました。
初代信吉の墓は墓域の奥の円墳上の宝篋印塔です。2代・4代以外の歴代当主・子女の墓が広い墓域に林立しています。
分家で旗本の信吉次男吉勝家の墓もあります。合計で50基程度の墓碑があります。
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