探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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十河晋斎と二本松藩士佐倉家

2015-10-02 00:00:10 | 会員の調査報告
会員のカネコです。
都内にある二本松関係者の墓所を探すことはライフワークとなっていますが、最近も数カ所で二本松関係者の墓所を見つけることが出来ました。
今回は十河晋斎について書きます。

谷中霊園と谷中の寺院の墓本として著名な『谷中過去帳』という本があり、谷中の墓調査によく使っていたのですが、たまたま十河晋斎という二本松藩士の墓が瑞輪寺にあるという記載を見つけ、十河晋斎について調べてみると、二本松藩士佐倉定右衛門政定の子として生まれ、安積艮斎の門人となり、後に昌平校教授となった人物でした。
伊勢津藩士十河杢左衛門の養子となり、十河姓となり、維新後、京都府御用掛となり、府史編纂に従事し、その他に豊岡神社宮司・久爾宮晃親王侍講・神奈川県師範学校講師などを歴任したとあります。

7月19日(日)に瑞輪寺を訪れ、十河晋斎の墓所へお参りしました。
十河家の墓域には[晋齋十河定保墓][十河家之墓][十河定道墓]の3基がありました。



晋斎は明治37年1月2日に没しています。
晋斎は親友大沼枕山の墓が瑞輪寺にあることから、この地を墓所にしたそうです。
確かに大沼枕山の墓が近くにありました。この大沼枕山は永井荷風の遠縁であり、荷風はこの枕山のことを『下谷叢話』に詳しく書いています。

一方実家の佐倉家についてですが、晋斎の甥佐倉強哉の娘雪が作家榊山潤の夫人となっています。
榊山潤の歴史小説『歴史』の主人公片倉新一郎は義父である佐倉強哉がモデルとなっており、『歴史』の巻末に収められている「佐倉強哉の手記」を基に、創作されました。

佐倉家の墓所は二本松蓮華寺にあり、佐倉強哉はじめ佐倉家歴代の墓所は山の斜面の中腹にあり、少し離れた別域に弟佐倉達山の墓もあります。



これは7月26日(日)に二本松を訪れた際の写真です。
晋斎の父定右衛門政定は戊辰の役の二本松戦で戦死、長男源五右衛門政行は二本松藩が天狗党討伐のために出兵した際、常陸太田での戦いで戦死。当地の法然寺に葬られています。晋斎仕えた伊勢津藩は鳥羽伏見の戦いで早々と新政府軍につきましたが、実家佐倉家が仕える二本松藩は最後まで旧幕府側として戦い、実父政定は戦死しました。家族が敵味方に分かれた悲劇を晋斎はどう思ったのでしょうか。

私が所属している東京二本松会の幹事藤井さんは二本松藩士平島家のご出身で、佐倉家と姻戚関係になっています。平島家・佐倉家をはじめ、姻戚関係の二本松藩士の家の事については色々とご教示を頂いています。二本松藩士については『二本松市史 第5巻』に収められている「世臣伝」や『二本松寺院物語』などによって、その家系等を追う事ができますが、ご子孫の方から情報を頂く事で、より詳細な情報を得る事が出来ました。今後も二本松藩士の情報を丹念に収集して行きたいと思っています。

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