会員のクロサカです。
前回予告した高知編について紹介します。
高知市内の調査には、駅前の観光協会でレンタサイクルを借りました。
このレンタサイクルの利用は無料で、電動自転車も無料で借りられるのが利点なのですが、17時までに返却出来ない場合は、次回以降利用できないというペナルティがありました。
このペナルティがあとで悲劇を生むのですが・・・。
まず、最初に向かった華族墓は板垣退助伯爵の先祖乾家の墓所でした。
しかし、墓所があるとされる薫的神社付近の旧瑞応寺福泉院墓地が見つかりません。
天候もあまり良くなく、今後の調査にも影響が出そうだったので早々に諦めました。
ちなみに薫的神社は、山内忠義の戒名騒動で失脚した僧侶薫的の墓所で他にも高知藩の上級家臣百々家の墓を見つけました。
その後、一路久万山に向かいます。
ここには、子爵を授かった谷干城夫妻とその息子で夭逝した乙猪などの墓所があります。
ちなみに乙猪夫人と子孫の谷子爵家の墓所は谷中霊園です。
谷干城夫妻の墓
この時点で小雨が降っており、谷家とその近くにあった郷土史家平尾道雄の墓だけで撤退しました。
続いて、薊野にある板垣退助伯爵の墓所に移動します。
岡田以蔵などの墓のある真宗寺山にも行くつもりでしたが、雨が強くなってきたため、板垣の墓所へ急ぎました。
途中最初の雨のピークがあり、雨宿りもしつつ、向かいましたが、板垣の墓所は非常にわかりづらい場所にあります。
事前に入念に調べていたので迷うことなく、到着できました。
この墓所は板垣家もとい乾家歴代の墓所で当主や正室の墓碑に小さな立て札があり、非常に助かりました。
ここにある板垣退助伯爵の墓碑は後に建てられた分骨墓で隣には3人目の妻小谷氏と並んでいます。
板垣退助夫妻の墓
ここでも土砂降りでしたが、母と合流するために高知城に向かい、急いで高知城歴史博物館に入り、ちょうど山内家歴代展を開催していて多くの史料を見ることができました。
その後も雨が非常に強く、大手門近くにある初代藩主山内一豊の銅像の写真も上手く撮れませんでした。
大手門から入城するも、雷が鳴り、雨もピークになり、大手門を入ったところのテントで大勢の人が身動きができない状態でした。
そんななか、返却時間が迫ってきており、土砂降りの中移動をしなくては間に合わなくなりそうだったので城内を見ることも出来ずに帰ることになりました。
そして急いでテントを飛び出した瞬間、砂利に足を取られ、転んでしまいました。
それでも身体を引きずり、自転車に乗りますが、自分が方向音痴であったので駅の方向とは反対側に向かっていることに気づき、余裕もなくなってしまい、急いで自転車を飛ばしていたのですが、途中濡れた路面で滑り、3回ほど転んでしまい満身創痍でなんとか10分前に着くことが出来ました。
ホテルに帰り、確認してみると両肘、両膝が大きくアザになり、尾てい骨も強打していました。
しかしそんな身体でもなかなか来られない場所なのだからと、次の日も調査に向かい、返却が間に合っていたので、難なく自転車を借りることができました。
さて、二日目の目的地は高知のメインディッシュでもあった筆山と山内家墓所です。
まず、筆山に向かいます。昨日と打って変わって、太陽が照り付ける暑い日でした。
ここでは、永野修身海軍元帥と地元で有名な医者近森虎治などを見つけました。
実はさらに奥地にある皿ヶ峯に森赳陸軍中将と下村定陸軍大将を探したかったのですが、移動が大変そうだったのと満身創痍が重なっていたので、最優先対象の山内侯爵家と分家の子爵家、家老の男爵家を探しに向かいました。
途中山内家の菩提所要法寺と真如寺に立ち寄り、要法寺では一豊の弟で土佐藩の基礎を固めた山内康豊の墓を見つけました。
山内家墓所は真如寺の目の前にありますが、非公開です。
しかし近年国指定史跡となったため、公開に向けて準備の最中とのことでした。
手前左にある子女墓地は調査可能だったのでこちらは調査してきました。
その後、電動自転車のパワーを使い、筆山の中腹付近にあった山内家の分家墓地に向かいました。
ここには、山内容堂の実子で分家し、男爵⇒子爵となった山内豊尹子爵とその子孫、分家の墓があります。
山内豊尹子爵と山内子爵家の墓
さらに上っていくと、土佐藩の家老を務めた南邸や東邸の墓所がありました。
そのうち、南邸当主山内豊積は男爵を授けられています。
山内豊積男爵の墓
同じ墓域内には次代の山内豊政男爵夫妻の墓碑もありました。
豊政男爵の墓は青山霊園にもあり、そちらは豊政以降累代の墓碑となっています。
南邸・東邸ともに江戸期の墓碑は倒壊していたり、横たわっている墓碑も多く、国史跡に指定されている本家に比べて、少し残念な気もしました。
その後は市内にある史跡を巡ったり、東京ではあまり見かけない牛もつつけ麺を食べ、ホテルへ戻りました。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ申込みフォーム
前回予告した高知編について紹介します。
高知市内の調査には、駅前の観光協会でレンタサイクルを借りました。
このレンタサイクルの利用は無料で、電動自転車も無料で借りられるのが利点なのですが、17時までに返却出来ない場合は、次回以降利用できないというペナルティがありました。
このペナルティがあとで悲劇を生むのですが・・・。
まず、最初に向かった華族墓は板垣退助伯爵の先祖乾家の墓所でした。
しかし、墓所があるとされる薫的神社付近の旧瑞応寺福泉院墓地が見つかりません。
天候もあまり良くなく、今後の調査にも影響が出そうだったので早々に諦めました。
ちなみに薫的神社は、山内忠義の戒名騒動で失脚した僧侶薫的の墓所で他にも高知藩の上級家臣百々家の墓を見つけました。
その後、一路久万山に向かいます。
ここには、子爵を授かった谷干城夫妻とその息子で夭逝した乙猪などの墓所があります。
ちなみに乙猪夫人と子孫の谷子爵家の墓所は谷中霊園です。
谷干城夫妻の墓
この時点で小雨が降っており、谷家とその近くにあった郷土史家平尾道雄の墓だけで撤退しました。
続いて、薊野にある板垣退助伯爵の墓所に移動します。
岡田以蔵などの墓のある真宗寺山にも行くつもりでしたが、雨が強くなってきたため、板垣の墓所へ急ぎました。
途中最初の雨のピークがあり、雨宿りもしつつ、向かいましたが、板垣の墓所は非常にわかりづらい場所にあります。
事前に入念に調べていたので迷うことなく、到着できました。
この墓所は板垣家もとい乾家歴代の墓所で当主や正室の墓碑に小さな立て札があり、非常に助かりました。
ここにある板垣退助伯爵の墓碑は後に建てられた分骨墓で隣には3人目の妻小谷氏と並んでいます。
板垣退助夫妻の墓
ここでも土砂降りでしたが、母と合流するために高知城に向かい、急いで高知城歴史博物館に入り、ちょうど山内家歴代展を開催していて多くの史料を見ることができました。
その後も雨が非常に強く、大手門近くにある初代藩主山内一豊の銅像の写真も上手く撮れませんでした。
大手門から入城するも、雷が鳴り、雨もピークになり、大手門を入ったところのテントで大勢の人が身動きができない状態でした。
そんななか、返却時間が迫ってきており、土砂降りの中移動をしなくては間に合わなくなりそうだったので城内を見ることも出来ずに帰ることになりました。
そして急いでテントを飛び出した瞬間、砂利に足を取られ、転んでしまいました。
それでも身体を引きずり、自転車に乗りますが、自分が方向音痴であったので駅の方向とは反対側に向かっていることに気づき、余裕もなくなってしまい、急いで自転車を飛ばしていたのですが、途中濡れた路面で滑り、3回ほど転んでしまい満身創痍でなんとか10分前に着くことが出来ました。
ホテルに帰り、確認してみると両肘、両膝が大きくアザになり、尾てい骨も強打していました。
しかしそんな身体でもなかなか来られない場所なのだからと、次の日も調査に向かい、返却が間に合っていたので、難なく自転車を借りることができました。
さて、二日目の目的地は高知のメインディッシュでもあった筆山と山内家墓所です。
まず、筆山に向かいます。昨日と打って変わって、太陽が照り付ける暑い日でした。
ここでは、永野修身海軍元帥と地元で有名な医者近森虎治などを見つけました。
実はさらに奥地にある皿ヶ峯に森赳陸軍中将と下村定陸軍大将を探したかったのですが、移動が大変そうだったのと満身創痍が重なっていたので、最優先対象の山内侯爵家と分家の子爵家、家老の男爵家を探しに向かいました。
途中山内家の菩提所要法寺と真如寺に立ち寄り、要法寺では一豊の弟で土佐藩の基礎を固めた山内康豊の墓を見つけました。
山内家墓所は真如寺の目の前にありますが、非公開です。
しかし近年国指定史跡となったため、公開に向けて準備の最中とのことでした。
手前左にある子女墓地は調査可能だったのでこちらは調査してきました。
その後、電動自転車のパワーを使い、筆山の中腹付近にあった山内家の分家墓地に向かいました。
ここには、山内容堂の実子で分家し、男爵⇒子爵となった山内豊尹子爵とその子孫、分家の墓があります。
山内豊尹子爵と山内子爵家の墓
さらに上っていくと、土佐藩の家老を務めた南邸や東邸の墓所がありました。
そのうち、南邸当主山内豊積は男爵を授けられています。
山内豊積男爵の墓
同じ墓域内には次代の山内豊政男爵夫妻の墓碑もありました。
豊政男爵の墓は青山霊園にもあり、そちらは豊政以降累代の墓碑となっています。
南邸・東邸ともに江戸期の墓碑は倒壊していたり、横たわっている墓碑も多く、国史跡に指定されている本家に比べて、少し残念な気もしました。
その後は市内にある史跡を巡ったり、東京ではあまり見かけない牛もつつけ麺を食べ、ホテルへ戻りました。
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探墓巡礼顕彰会では11月12日(日)に第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」を開催します。
詳しくは下記開催要項をご覧下さい。
第15回巡墓会「大圓寺・豪徳寺巡墓会 「直虎」から「西郷どん」へ~幕末明治を彩る薩摩・彦根の群像~」開催のお知らせ
参加申込みは下記フォームよりお願いします。
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