探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

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禊教と華族~足立区梅田編~

2016-01-30 19:26:01 | 会員の調査報告
皆さま、遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
これからもお墓と歴史に関する面白い記事を書いていきますので、どうぞよろしくお願いします。

今回は、禊教という神道系宗教と華族の関係性について述べたいと思います。
禊教とは、教派神道の一派で井上正鉄によって開かれました。
開教がなされた時期は不明ですが、天保期に京都の白川伯王家による神拝式許可が下りているため、この時期ではないかと思われます。
その後、天保11年頃に武州足立郡梅田村(現在の東京都足立区梅田)にあった梅田神明宮を再興し、そのまま宮司になりました。
ここで多くの人々に布教を行いますが、天保12年に布教の中に幕政を批判する内容があるという嫌疑がかけられ、井上も『神道唯一問答書』を著し弁護するも、天保14年6月に有罪となり、三宅島へ流されています。
三宅島でも布教をしていたようですが、嘉永2年に亡くなり、当地に埋葬されました。
井上没後、門弟らによって、明治5年に吐菩加美講の中で布教が公認され、その翌年には身禊講社と改称しました。
そして、明治27年に禊教として教派神道の一派に公認されています。

さて、井上は明治2年恩赦によって、罪を赦され、井上が布教を行っていた現在の足立区梅田に改葬されることになります。
その後、谷中霊園に再改葬されますが、それはまたの機会にしたいと思います。
井上正鉄・安西男也夫妻の墓所は、梅田神明宮からほど近い、梅田稲荷神社境内の本殿右奥に独立した墓域があります。
  
               

夫妻の墓所前には、門弟5人の墓碑があり、墓所裏の遍照院墓地にも子孫の祐鉄以降の墓所があります。

続いて、梅田神明宮の門前にこのような大きな石碑があります。

               

これは、井上正鉄の顕彰碑なのですが、この石碑の裏面に多くの門人の名前が列挙されています。
その中に「貴族」という欄があり、5名の華族の名前が列記されています。
「正三位侯爵徳川篤敬」
「従三位子爵平松時厚」
「正四位子爵牧野貞寧」
「正四位子爵小笠原壽長」
「正五位子爵本荘宗義」
これらの華族が禊教を信仰していたのかは不明ですが、少なくとも井上の顕彰碑に協賛したことは間違いないようです。
特に最後の本荘宗義子爵は、確実に信仰していたようで、境内にある別の石碑にも名前が刻まれています。
このように、華族による神道信仰を見ていくのも「明治」という新時代を見ていくうえで、大変重要となります。
コメント
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