探墓巡礼顕彰会-墓碑調査・研究プロジェクト-

「探墓巡礼顕彰会」の公式ブログです。巡墓会企画の告知など活動報告をしています。

中村正直宅跡

2019-10-09 23:41:51 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。静岡に帰ったついでにグーグルマップで気になる史跡があったので訪ねてみた。

幕府倒壊により英国留学の切り上げを余儀なくされた中村正直(敬宇)が『西国立志編』を訳した場所である。

富春院というお寺の入口に「尚志」の石碑の存在や山門に掲げられた扁額が中村の書というのは知っていたが、まさか石碑があるとは思わなんだ(=写真)







果たして高校の社会科の先生が教えてくれた石碑はどちらが正しかったのだらうか。
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みやこにてお話し申し上げ候③

2019-10-05 00:42:34 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

京都滞在3日目、前日の講演で触れながらしばらく訪ねていない場所に行こうかと思ったが、ゆっくり睡眠を取ることができたので、寺町通の進々堂で朝食を食べて、神宮丸太町から出町柳に出た。

百万遍知恩寺に高知城築城の奉行百々越前安行の墓があるとの情報を得たからである。

残念ながら墓を見つけることはできず、京大キャンパスの周辺の学生相手に店を出してそうなハンバーグの店で昼食。手作りの味に励まされ、京都の学生気分を少し味わったところで気を取り直して午後も散策を続けることに。おまけに出町柳駅のロッカーに荷物を預けてきたままだから、そのまま徒歩で近くの墓を巡ることに決した。

それは1日目に琵琶湖疏水創設に関連してホテル近くの京都府知事北垣国道像(=写真)へ行った手前、墓に行かなきゃならんとの思いに駆られ、金戒光明寺の墓まで足を運ぶことにした。



金戒光明寺といえば、途中土佐関連で真如堂の墓地に石田英吉の墓にまだ行ってなかったし、京大キャンパスの脇を通ったら尊攘堂が見えた(=写真)ので寄ってみた。



気になっていたのは北垣の裏に新選組命名を武家伝奏として伝えた飛鳥井雅典の墓があるはずで、もう一人の野宮定功の墓はちょうど神宮丸太町と出町柳の間にあるけれど今回は諦め、飛鳥井に絞ることにした(=写真)。



だが、行ってみるとこのフェンスの背景は、以前釣洋一先生が教えてくださった井汲恭平(谷川辰吉。土佐浪士らによる大坂焼討ちの陰謀を阻止)の墓があるなとピンと来たら案の定であった(=写真)。



京大正門から吉田神社の手前をコの字形を描くように山の方へ登っていき、真如堂を入って右手の塔頭寺院を通り、墓地に出ると小さな生け垣に囲まれた、周囲より背の高い石田英吉の墓があった(=写真)。



高知県の東部に位置する安芸郡安田町の出身で坂本龍馬の義兄高松順蔵の弟子、幕末は伊吹周吉を名乗る。

各県知事を歴任し、明治26年高知県知事を務めたとき、土佐藩士たちの維新での活躍を調査させ貴重な資料を残した。

ここには英吉はじめ、妻高島氏、娘と思われる菊枝、関係不明の半田絹、養子八弥夫妻および現代墓の計6基がある。

そこから再び真如堂の山門を出て、金戒光明寺の北門へ。北垣国道の墓が何処にあるか分からないので、墓域をずんずん進んでいくと、一番奥のエリアの中心に囲いがあり、5基の北垣国道関係墓があった。向かって左から国重恒升(関係不明)、北垣国道夫妻、母、現代墓2基が横一列に並んでいる(=写真)。



その後方に飛鳥井家之墓があり、点在する栄摂院墓地の移転に伴い雅典や他の墓地に祀られし人々を新たにまとめたものである(=写真)。北垣の墓を下に降りてきたところ、井汲恭平(谷川辰吉)墓の並びにも同じ解説の飛鳥井家之墓がある。



谷川は言わずと知れた土佐国佐川脱藩の浜田辰弥・那須盛馬らによる大坂焼き討ちの企てを未然に通報し新選組谷万太郎らが石蔵屋に斬り込み、大利鼎吉を討ち取ったときの功労者である。

その場所は「新選組の石蔵屋襲撃事件の跡」の釣洋一撰文、平成24年に設置された銀のプレートが掲げられている(大阪府大阪市中央区瓦屋町1-11松屋町筋)。

目的の墓は一通り巡ることができたので安心していると、旧前川邸から連絡があり、金戒光明寺にいるなら新しくできた容保公石像の一瞥を勧められたのだが、出町柳まで歩く体力を考慮して御遠慮申し上げ引き上げる途中、北門から出て石田英吉墓のある墓域に接する道を登ったら難なく辿り着けた(=写真)。



会津殉難者たちを見守る勇姿がここにあった。

ーおしまいー
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みやこにてお話し申し上げ候②

2019-09-22 22:00:46 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

京都滞在2日目の15日。この日午後から講演会だったため、午前中に長遠寺と妙泉寺を回った。

場所はそれぞれ千本出水と大宮三条。実は今回の講演は、3月の山南忌に来られる方で[山南会]会員限定の催しであった。著書の横顔に毎年山南忌に参加していると書いておきながら、今年腰痛ですっぽかしてしまったことから、なんとか穴埋めしたいとの思いで引き受けることにしたものだ。

講演は壬生の旧前川邸近くで行われるため、壬生に出やすい場所を当日に選んだのだった。

人見の墓へ行ったのは、『探墓巡礼ー谷中編』の項目に[雲井龍雄]があることが大きい。谷中にある雲井の墓の撰文を人見が書いているため、箱館戦争関係として項目立てしたことをお話しした。

懇親会で聞き手の中に雲井と同じ米沢藩の宮島誠一郎の姻族の方がいたと伺って大いに盛り上がった。

それともう1箇所、大宮三条の妙泉寺に去年ブログで書いた永持亨次郎の墓を訪れた。これもまた恥の上塗りになるが、昨年ブログに[京都での流星忌の宣伝①]と題して永持のことを書いたまま、今の今まで②を書かず仕舞いにしていたことである。

あの後、京都で何を書こうとしていたのか今となっては思い出せないが、今回の講演で永持とその実兄柴田剛中に触れた。

永持は長崎海軍伝習所で勝海舟と矢田堀景蔵とともに艦長要員の修行中、卒業を待たず栄転。前後に日露交渉を抱えていて、長崎にとどまって『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[平山省斎]とともに取り組んでいたようだ。[徳川慶喜]が禁裏御守衛総督のとき目付介として京都に来たとき病没。

流星忌の宣伝に京都へ。山南忌で説明①

講演では、永持の墓が壬生から近いところにあることと(=写真)、その実兄柴田剛中が竹内保徳遣欧使節員として手記を残し、欧州滞在中の様子を紹介した。





一行は食事が合わなかったようで、生魚に持ってきた醤油をかけて、ようやくそれらしい食事にありつけたとなかなか苦労が伝わってきて面白い。

その中で[ボートルを塗って]という表現が出てきて、[ビネガー]かドレッシングか何かをかけたのではと話したところ、後で[バター]ではないかとご指摘を受けた。この辺り、いま一度じっくり追求してみたい。

柴田は一行が夜遊びなどしないように自らガキ大将となって外での鑑賞や飲んだあとの喫茶、腕相撲などに興じたようで、名上司ぶりを発揮した人物だった。

拙共著『探墓巡礼ー谷中編』で項目を立てた[福地源一郎]や[福田重固]など同行者の様子がこれで少し分かるだらう。柴田の墓のことは、インターネットで調べると面白いことが分かるかもしれない。

やはり項目立てした[徳川慶喜]命名の尊攘苑にある原市之進の墓(長楽寺)やかつて書いた『歴史研究』2015年4月第630号[日本に鉄道を敷いた男 佐藤政養の墓]のコピーをお渡しし、佐藤政養の建てた京都の墓も紹介(以前書いたブログを参照)。

3月13日 京都市① 源義経を支えた佐藤継信・忠信兄弟の墓

この場所について、東大路渋谷通東入ルを[シブヤ通り]と発言したところ、[シブタニ通り]との訂正が入った。

長年京都で歴史案内をされている旧知の方から何よりのご指摘をたまわった。後で聞いたら毎年うるさ型の出席者が多いそうで、その程度で済んで良かったと冷や汗ものであった。

最後に『探墓巡礼ー谷中編』で壬生に関わりがあるのは浪士組で山岡鉄舟が新徳寺に来たとの話で締めくくった。

同書には清河八郎の故郷に行くと[高橋泥舟]・[山岡鉄舟]義兄弟の書が清河家の墓や石碑に刻まれていることを書いたことも紹介した。

作った本で意外にも京都の様々な場所に触れることができたが、講演後京都に幕臣の墓がまだあるかとの話題などでしばし歓談し、盛り上がった。

行ったことはないが、幕府方なら会津の山本覚馬を入れても良いかもしれない。大河『八重の桜』のころは行けたが、今は荒れてしまって行けないのではないかなどという話に。

さて、まだまだ教えていただくことが多く、参加者の方々には最後までお聞きくださり感謝申し上げたい。

お招きくださった旧前川邸の田野様には懇親会後までお付き合いいただき、地元の方とも触れ合えて何よりの京都滞在となった。

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みやこにてお話し申し上げ候①

2019-09-19 22:32:45 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

3連休の中日となる15日、京都にて[『探墓巡礼ー谷中編』の刊行意義と京都にもあるゆかりの場所]と題して講演をさせていただいた。

歴史が好きになった記念の街でお話できるのは大変光栄で、レジュメを作りながらついあれもこれもと欲張って取り上げようとして、案の定時間が足りなくなってしまった。

14日に下見を兼ねて蹴上疏水公園の田辺朔郎の銅像(=写真)、大日山墓地の田辺朔郎夫妻の墓を見てきた。



場所はインクラインを登りきったところにかかる大神宮橋を渡って坂を登り、日向大神宮の方ではなく、安養寺の壁際の道を登っていくと墓地に着く。

登ってきた道が墓地でも階段になっていて、それをまっすぐ登っていき、右側の生け垣を横目に突き当たりまで上がりきり、左側を奥へ奥へ行くとドンづまりの少し手前に田辺夫妻の墓があった(=写真)。



妻は琵琶湖疏水設計のため田辺朔郎を抜擢した京都府知事北垣国道の長女静子。事前に見た青山霊園の田辺家墓誌にもそのことが書かれてあった。

なぜ田辺ゆかりの地を回ったかというと、『探墓巡礼ー谷中編』に載せた唯一京都にある墓が箱館政府松前奉行人見勝太郎のもので、その母の墓の撰文が田辺太一だからである。ちなみに父の墓のそれは谷中に墓のある中村正直(=写真は長遠寺人見家墓所)。



かつてこのブログでも紹介した人見家墓所の両親の墓を間違って[入って左側]と書いたが[右側]に訂正しようとずっと機会を伺っていたこともある。

3月13、14日 京都市③ 長遠寺、妙恵会総墓所

ともあれ、太一の『幕末外交談』をネタに近代化京都の水を整備した甥朔郎にも触れてみたのだが、ちょうど復活した琵琶湖疏水船の宣伝や九条山ポンプ場のパネル展示が充実していて時宜を得た訪問となった(=写真は疏水船のパンフレット)。



太一の娘花圃は三宅雪嶺に嫁ぎ、樋口一葉もその文章に嫉妬したという女流作家なのだそうで、青山霊園の太一と同じ一角に雪嶺・花圃の墓があることもお話しした。

1種ロ8号16〜17側で太一は少し奥に入ったところ、花圃は通り沿いにある(=写真は太一らの墓)。家紋は丸に桔梗。



14日はもう1箇所、瑞泉寺に今年建てられた岩瀬忠震・橋本左内の碑を見てきた。池田屋のすぐ近く、三条小橋の手前だった(=写真。木屋町通り三条下ル)。



翌日の講演で京都町奉行を務めた永井尚志に触れ、岩瀬の戒名[爽快]の話やこの新しい石碑も紹介させてもらった。幕末の新しい史跡として記憶にとどめておきたい。
ーつづくー
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大鳥圭介のふるさとと青山霊園散策

2019-09-04 23:28:16 | 会員の調査報告
会員のカトケンです。

夏休みに乗ったサンライズ瀬戸で内陸側の座席だったのに、明け方に太陽が右に見えたときがあった。これは線路が北上してるなと思った。

しばらくして通り過ぎる駅名をみると[上郡]という名前だった。箱館政府の陸軍奉行大鳥圭介の出身地である。

赤穂出身だから赤穂線沿いかと思ったが、山陽本線沿いに駅があるとは思わなかったし、もう岡山かとも思っていたがまだ兵庫だったわけだ。

だが、大鳥の故郷はこの上郡駅から智頭急行に乗り換える。しかも生家跡に近年設けられた記念館[いきいきふるさと交流館]に行くには、それだけにとどまらず同急行苔縄駅で降りて徒歩1時間というから気が遠くなってしまう。

これは去る6月史誠会様のお招きで青山霊園を案内したときに調べて分かったことだ。それまでサンライズに乗ってもそういう意識を持ったことが無かったから、今回寄り道はできなかったが、機会があれば訪れてみたいものだ。(同館は第1,3日曜しか開館していないので訪れる際は要注意。)

また、上郡町役場には銅像もあるようでこちらは上郡駅から行ける距離のやうで、大鳥ファンにはまた格別な場所であらう。

5月には圭介祭りもあるというから微笑ましい。

いきいき交流ふるさと館

そんな大鳥の墓は青山霊園一種イ1号3側にある。広い通りに面して簡易な囲いがぐるりとあり、入口に扉のある一風変わったものだ。

中央奥が大鳥以降の累代墓。右側に次男次郎の墓、左側に妻道子の墓(=写真。右後方に大鳥圭介墓)。



殊に夫人の墓の裏面には大鳥自ら撰文を書いていて、先立った妻への気持ちが伝わってくる。そんなお話を6月のときにさせてもらった。

史誠会催行での青山霊園巡墓会

もし『探墓巡礼 青山編』を作るとしたらとの思いで、出張帰りに散策するのが今は楽しみである。
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