『地水火風空』

【TamuraTech Japan】のブログ

2014.4.23~24 『神社おそうじ隊 見参! 大阪春の陣』 その3

2014-04-30 | 神社おそうじ隊 2014
1、『石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)』通称:石切さん(大阪府東大阪市)









石切劔箭神社の祭祀は、代々木積(こづみ)氏が務めてまいりました。
この木積の姓は、古代に天皇の側近として仕えた物部氏の最有力氏族のひとつ「穂積」から転じたものです。
そして物部氏は、御祭神饒速日尊の子孫にあたります。(「石切劔箭神社」ウェブサイトより)


御祭神

饒速日尊(にぎはやひのみこと)
可美真手命(うましまでのみこと)


本殿

五社明神社と神武社

水神社



穂積神霊社

一願成霊尊

ちょうど、朝の運動をする神馬に遭遇。

長い年月、沢山の人々の、無数の願のかけられてきた、地元で大変に崇敬されている神社。
病気快癒(できもの)一切の霊験で知られる。

…個人的には、伏見のお稲荷様と大変に似た感覚を覚えた。


近隣にて佇む、神名も不明な祠。


参道商店街。
この先に、

“石切不動明王”がおられました。


2、『矢田坐久志玉比古神社(やたにいますくしたまひこじんじゃ)』(奈良県大和郡山市)


御祭神  櫛玉饒速日神(くしたまにぎはやぎのみこと)

田地方の総鎮守社。天磐船で降臨の際に3本の矢を放ち、2本の矢が落ちた所と伝わることから、航空の神とされ、旅行の安全祈願をする参拝者も多い。一間社春日造り檜皮葺き本殿(重要文化財)は南北朝時代、同じく末社の八幡神社社殿(重要文化財)は室町時代に創建されたもの。(「大和路アーカイブ」ウェブサイトより)


神門にはプロペラ。



圧倒的な威厳に満ちた本殿。

今回、最も印象に残った神社。


3、『龍田大社(たつたたいしゃ)』旧・龍田神社(奈良県生駒郡三郷町)

式内社であり、旧社格は官幣大社。

御祭神

天御柱命 (あめのみはしらのみこと)
国御柱命 (くにのみはしらのみこと)

風鎮めの祀りとして知られる「風鎮大祭」で有名。




拝殿より本殿を拝す。



白龍大神

恵美須神社




4、『廣瀬大社(ひろせたいしゃ)』(奈良県北葛城郡)

式内社。旧社格は官幣大社。
龍田の風神、廣瀬の水神として知られる。

御祭神   若宇加能売命 (わかうかのめのみこと) - 廣瀬大忌神 (ひろせおおいみのかみ)
(本来の御祭神は「長髄彦」との説あり)


拝殿より本殿を臨む。

水分(みまくり)神社
境外末社として「饒速日命社(にぎはやひのみこと)」を祀る。


5、難波宮(なにわのみや)(難波宮跡公園・大阪市中央区法円坂)


昭和36年(1961)、大阪市立大学教授の山根徳太郎博士の発掘調査により、飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認された。現在では、宮殿の中心部とされる約9万平方メートル余りの範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備がすすめられている。史跡は2種類の方法で示されていて、地表面より一段高くして、石造りで基壇を示すものが神亀3年(726)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉(びゃくち)元年(650)から造営が始められた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)=前期難波宮となっている。また、公園の中央北寄りには、天皇が国家の公式行事をおこなう際に使用したとされる大極殿も復元されており、その上からは大阪城を眺望することができる。(「OSAKA-INFO」ウェブサイトより)



“前期難波宮跡はすべての建物が掘立柱(ほったてばしら)で、屋根に瓦を葺かない建物であった。7世紀の中頃、飛鳥で蘇我氏が亡されて後、都が難波に遷されてつくられた難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)がこれにあたると考えられている。天武天皇朱鳥(しゅちょう)元年(686年)に、火災で全焼するまでつづいたと考えられる。この宮殿は最初の本格的な中国風の都といわれる大和の藤原宮に先行するもので、古代国家の成立期の貴重な遺構である。
後期難波宮は、奈良時代の神亀(じんき)3年(726年)聖武天皇の時に造営された宮殿である。大極殿や朝堂院の中心建物には礎石が用いられ、屋根には蓮華文(れんげもん)・唐草文(からくさもん)・重圏文軒瓦(じゅうけんもんのきがわら)などの瓦が葺かれていた。天平16年(744年)にはここ難波宮が首都と定められたが、翌年再び平城京へと遷された。
前後2時期の難波宮の遺跡のほか、それ以前の大規模な建物跡もほぼ全域で発見されている。港をひかえた難波の地は、5世紀以降外交・文化・経済・政治の要衝として栄えていたことがしのばれる”



大阪のど真ん中。
広大な敷地。
ここまでして保存する、その目的は…と、思いを馳せる…。


6、『大阪カテドラル聖マリア大聖堂』(大阪市中央区玉造)

1894年、この玉造の地に聖アグネス聖堂が建てられ、マリー神父が初代主任司祭となって玉造教会が誕生しました。その聖堂は戦災によって焼失しましたが、その後、仮聖堂を経て、ザビエル来日400年記念の年に建設された聖フランシスコ・ザビエル聖堂に引き継がれ、1963年3月に、現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」へと生まれ変わりました。
その大聖堂の西北には、細川越中守の屋敷跡と伝えられている「越中井」が残されており、細川ガラシア夫人を記念して辞世の句碑が建っています。
現在の聖マリア大聖堂は、鉄骨鉄筋コンクリート建て、建坪2450平方メートル、軒高20メートル、青銅板葺きの大伽藍です。
正面の大壁画と左右にある壁画は、芸術院会員・故堂本印象画伯の筆によるものです。
大小およそ100個の窓は、通風窓をのぞき、ベニス工房・羽淵紅州子の作によるステンドグラスで、イエス・キリストの生誕と洗礼、聖母マリアの生涯、そして小聖堂には日本人に福音を伝える聖フランシスコ・ザビエルが描き出されています。
大聖堂内陣右側にある大十字架及び聖母と聖ヨハネ像、大聖堂の壁面に掲げられている十字架の道行の14場面、小聖堂の聖アグネスと聖フランシスコ・ザビエルの像は、オーストリアの彫刻家・ルンガルチェ氏の木彫です。
大聖堂前広場の両端にある高山右近と細川ガラシア夫人の石像は、カトリック信徒の彫刻家・阿部政義氏の力作です。
大聖堂のパイプオルガンは、2400本ものパイプを有するものです。(大聖堂ウェブサイト「沿革と概要」より)



細川ガラシャ

高山右近



内部は撮影禁止。
厳かな、しかし凛とした静寂。
祈りを捧げる人もあり…。


この日は、ここまで。

次回、エピローグ…。