昨日、『忍城』を記事にしたら、訪問者数がいつもより100人以上も増えていてビックリです。
映画『のぼうの城』を見た方、『忍城』に興味を持っている方が、覗いてくださったのでしょうか。
みなさ~ん、『のぼうの城』の映画、おもしろかったですよね~。
さて、せっかく行田(ぎょうだ)に行ったのですから、名物 ゼリーフライ を食べてみようと思いました。
『忍城』の近くにある『行田ゼリーフライ本舗』の たかお さんに入りました。
おから65%じゃがいも30%に玉ネギ人参5%の『衣のついていないコロッケ』です。
お菓子のゼリーは何の関係も無くて、形が小判型だから『銭フライ』・・・そこからなまってゼリーフライになったとか。
1個100円、ヘルシーで子どものおやつにいいかも・・・
ゼリーフライだけでは淋しいので、手打ちうどんもいただきました。
お店の中に、しっかり映画のポスターが張ってありました。
さて、次に向かったのは 埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)。
小学校で習って以来、長い間、行ってみたいと思っていた場所です。
5世紀後半から7世紀始めに築造された大小9基の古墳が点在しています。
一つ一つの古墳が、もの凄く大きい。
知ってはいたけれど、実際に目で見ると感動物です。
高さ18,9メートルの 丸墓山古墳(まるはかやまこふん) は、忍城水攻めの時に、石田三成が陣を張ったと伝えられています。
三成は、長い長い堤を築いて水攻めを行ったのですが、一部が丸墓山古墳に続く道として残っています。
三成は、丸墓山古墳の上から忍城を見て、水攻めの構想を練ったそうです。
工事用の長い鉄梯子が2基見えると思いますが、その真ん中に『忍城』が見えるのです。
ここに立つと、急に三成が身近に感じられますよ。
振り向くと、稲荷山古墳(いなりやまこふん) が見えます。
丸墓山古墳に登る階段です。
これを見れば、どれほど大きな古墳かわかるかと思います。
稲荷山古墳にも登らせていただきました。
古墳公園の中に 天祥寺 というお寺があります。
忍城は、徳川時代には家康の持ち城となり、徳川時代の最後に、伊勢の桑名から松平氏が国替(くにがえ)でやってきました。
塀の中には三代の松平家の墓があるのですが、なかなかりっぱなものです。
石田三成が、農民を使って造らせた 石田堤 は全長28キロもあるのですが、これをわずか1週間で造り上げたと言われています。
市内堤根というところに、約250メートルが残っています。
石田堤は、もともとあった堤防や、少しほかより高い場所をつなぎ合わせて造ったので、短い期間で出来上がったようです。
お墓のような四角い形の『石田堤の碑』は、慶応2年に造られました。
当時の名主が、失われつつある『石田堤』の記録を後世に残そうと四角い石碑を彫らせたというのですから、その思慮の深さに脱帽です。
映画『のぼうの城』を見た方、『忍城』に興味を持っている方が、覗いてくださったのでしょうか。
みなさ~ん、『のぼうの城』の映画、おもしろかったですよね~。
さて、せっかく行田(ぎょうだ)に行ったのですから、名物 ゼリーフライ を食べてみようと思いました。
『忍城』の近くにある『行田ゼリーフライ本舗』の たかお さんに入りました。
おから65%じゃがいも30%に玉ネギ人参5%の『衣のついていないコロッケ』です。
お菓子のゼリーは何の関係も無くて、形が小判型だから『銭フライ』・・・そこからなまってゼリーフライになったとか。
1個100円、ヘルシーで子どものおやつにいいかも・・・
ゼリーフライだけでは淋しいので、手打ちうどんもいただきました。
お店の中に、しっかり映画のポスターが張ってありました。
さて、次に向かったのは 埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)。
小学校で習って以来、長い間、行ってみたいと思っていた場所です。
5世紀後半から7世紀始めに築造された大小9基の古墳が点在しています。
一つ一つの古墳が、もの凄く大きい。
知ってはいたけれど、実際に目で見ると感動物です。
高さ18,9メートルの 丸墓山古墳(まるはかやまこふん) は、忍城水攻めの時に、石田三成が陣を張ったと伝えられています。
三成は、長い長い堤を築いて水攻めを行ったのですが、一部が丸墓山古墳に続く道として残っています。
三成は、丸墓山古墳の上から忍城を見て、水攻めの構想を練ったそうです。
工事用の長い鉄梯子が2基見えると思いますが、その真ん中に『忍城』が見えるのです。
ここに立つと、急に三成が身近に感じられますよ。
振り向くと、稲荷山古墳(いなりやまこふん) が見えます。
丸墓山古墳に登る階段です。
これを見れば、どれほど大きな古墳かわかるかと思います。
稲荷山古墳にも登らせていただきました。
古墳公園の中に 天祥寺 というお寺があります。
忍城は、徳川時代には家康の持ち城となり、徳川時代の最後に、伊勢の桑名から松平氏が国替(くにがえ)でやってきました。
塀の中には三代の松平家の墓があるのですが、なかなかりっぱなものです。
石田三成が、農民を使って造らせた 石田堤 は全長28キロもあるのですが、これをわずか1週間で造り上げたと言われています。
市内堤根というところに、約250メートルが残っています。
石田堤は、もともとあった堤防や、少しほかより高い場所をつなぎ合わせて造ったので、短い期間で出来上がったようです。
お墓のような四角い形の『石田堤の碑』は、慶応2年に造られました。
当時の名主が、失われつつある『石田堤』の記録を後世に残そうと四角い石碑を彫らせたというのですから、その思慮の深さに脱帽です。