沖縄戦史の再検証のため、過去ブログ
「母の遺したもの」 宮城初江氏の証言2007-06-28
をサルベージしてを一部編集の上再掲する。
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母の沖縄戦、語り継ぐ 引退した語り部の次女 小学校で初の平和授業 継承の難しさも痛感
「平和が続くように、みんなで考えてみようね」−。約40年間の戦争語り部を5月に引退した安里要江(としえ)さん(98)の次女、比嘉佐智子さん(70)=沖縄県北中城村=が3年生の児童約30人に語り掛ける。中城村の津覇小学校で6日に開かれた平和学習の授業。講師役を務めるのは初めてだ。「母の代わりはできない。でも、できることはやりたい」。語り継ぐ大切さと難しさを感じている。(中部報道部・勝浦大輔)
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記事の概略は、戦後75年経過し、戦争の実体験者である「語り部」の数が少なくなり、戦後生まれの娘が「母の遺志」を受け継いでいく、というもの。
沖縄戦の実体験者が死亡或いは老衰により「語り部」を続けられなくなり、それを戦後生まれの娘が受け継いでいく。
沖縄戦の語り部が歴史的事実の継承として存在するのは「オーラルヒストリー」として基本的に賛同する。
だが、これがイデオロギーに染まった識者やマスコミに利用され、結局事実を歪曲・捏造する例が多いのは残念だ。
歴史歪曲の典型的実例を挙げよう。
20年前、座間味島の集団自決の唯一生き残りである母(宮城初江さん)の「遺言」を捻じ曲げた出版物を発刊。
日本軍は「集団自決の命令をした」などとと証言、座間味島の戦隊長梅澤少佐を社会的に葬った卑劣な「語り部」がいた。
「母の遺したノート」を捻じ曲げた、戦後生まれの娘・宮城晴美氏のことだ。
宮城晴美氏は母を裏切り、歴史を裏切った。
そして沖縄県民を裏切り、結果的に梅澤さんを含む全国民を裏切ったことになる。
■奇怪!本人は被告側の証人で、著書は原告側の物的証拠
『母の遺したもの』の著者・宮城晴美氏は「大江・岩波集団自決訴訟」の被告側(大江・岩波)の「証人」である
その一方、宮城晴美氏は原告側(梅沢、赤松)の「物的証拠」である『母の遺したもの』の著者でもある。
一言で言えば同じ裁判の「集団自決の軍命」を巡り宮城晴美氏本人は被告側の証人であるが、その著書は原告側の物的証拠と言うことになる。
さらに詳しく言うと宮城晴美は同じ裁判で「軍命を主張する被告側」の証人であるが、その一方その著書『母の遺したもの』は、軍命否定する原告側」の物的証拠である。
それだけに地元紙が報じる宮城晴美氏の“証言”は分りづらい。
「『自著』が誤解されている」という弁解を理解できる読者が何人いるだろうか。
「自著」に綴られているのは「母の遺した真実の声」ではなかったのか。
宮城晴美氏の証言と著書との齟齬について 『母の遺したもの』から中学生向けに要約した服部 剛氏の「沖縄戦集団自決の軍命令の真相」が分かりやすいのでよ以下に抜粋する。http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_hattori2.html
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4.「集団自決」は軍命令だったのか~梅沢隊長の場合
「なぜ、赤松隊長は死ぬまでだまっていたのか?」。何か、人には言えぬ事情がありそうですね。それは、もう一つの「集団自決」事件とされた座間味島の梅沢隊長のケースを検証すると明らかになります。
次の資料は、『母の遺したもの』という本の抜粋で、宮城初枝さんという人の証言 です。この本は、宮城さんの娘さんが書いたものです。宮城初枝さんは集団自決事件に至るいきさつ一部始終を見ていました。この後、たまたま村のみんなと別行動だったので一人だけ生き残ることができたのです。
【宮城初枝さんの証言①】
<村の助役の宮里盛秀さんに「これから梅沢隊長の所に小銃弾をもらいに行くから一緒に行ってほしい」と頼まれました。
宮里助役は梅沢隊長に「もはや最後の時が来ました。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは足手まといにならないよう、忠魂碑前で玉砕させようと思います。弾薬をください」。わたしは息が詰まらんばかりに驚きました。
重苦しい沈黙がしばらく続きました。隊長もまた片ひざを立て、垂直に立てた軍刀の柄の部分にあごをのせたまま、じっーと目を閉じたきりでした。梅沢隊長はやおら 立ち上がり、沈痛な面持ちで「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」と私たちの 申し出を断ったのです。私たちも仕方なくそこを引き上げて来ました。
ところが途中、宮里助役は役場職員の宮平恵達さんに「各壕を廻ってみんなに忠魂碑の前に集合するように…」と伝令を命じたのです。宮平さんは各壕をまわって大声で呼びかけました。「これから玉砕をするので忠魂碑前に集まって下さい」> (宮城晴美『母の遺したもの』を中学生向けに要約)
こうして、集団自決となったわけです。ここ座間味島でも、軍の自決命令はありませんでした。それどころか、梅沢隊長は助役の申し出を断っていますね。実際に、自決命令を出したのは誰でしたか?
村の助役を務める宮里盛秀氏だったのですね。
軍の命令による住民の集団自決
↓ なかった(自決を促したのは、村のリーダー) |
村のリーダーが村民に集団自決を命じた明確な理由は、今となっては想像する他はありませんが、その原因となりうる出来事がその半年ほど前にありました。実は、梅沢隊長と懇意にされている岩田義泰さん(自由主義史観研究会理事)から、私は梅沢隊長の手記を提供していただいています。それによると、昭和19年11月3日の明治節に沖縄県知事以下民間諸団体が那覇の波の上神社に集合して、蹶起大会が催されたそうです。軍とは無関係の行事で、この大会には沖縄全島の自治体の長をはじめ、離島の責任者すべてが参加しています。もちろん座間味島からも田中村長とともに宮里助役が参加していました。大会の席上、日露戦争従軍の勇士が登壇し、「県民は軍に協力して戦おう。老若男女は沖縄古来の風習に従って行動し、戦えない者は自決しよう!」と提言したというのです。会場は悲壮な空気に包まれ、一同、決意を新たにしたということでした。この大会以来、渡嘉敷・座間味の村のリーダーたちは、すでに自決を決意していたと思われますが、どうでしょうか。
5.誰が、なぜウソの証言をしたのか
実は、先の『母の遺したもの』の中に、戦後12年目のたいへん重要な出来事が書かれています。次をお読みください。
【宮城初枝さんの証言②】
<貧しいながらも住民の生活が落ち着きだした1957(昭和32)年4月、厚生省引揚援護局の職員が『戦闘参加(協力)者』調査のため座間味島を訪れたときのこと。母(宮城初枝)は島の長老から呼び出され、「梅沢隊長から自決命令があったことを証言するように」と言われたそうである。母が梅沢隊長のもとへ出かけた五人のうち唯一の生き残りということで、その場に呼ばれたのである。
援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)は、軍人や軍属(軍に雇用されている者)を対象とした法律で、戦没者の遺族や負傷した人などに国から金が支払われることになるが、一般の民間人には適用されていなかった。ところが、1959年から、軍の要請に基づいて戦闘に協力して死亡または負傷した者は「準軍属」として扱い、遺族年金などの各種の補償金がもらえることになった。単に砲弾に当たって死んだり、米軍に殺されたりした人には補償はされないが、「日本軍との雇用関係」にあって亡くなったり、負傷した人には補償されるという法律である。したがって、非戦闘員の遺族が補償を受けるには、その死が軍部と関わるものでなければならなかった。そして、役場の職員や島の長老らとともに厚生省の役人の前に座った母は、「住民は隊長命令で自決したといっているが、そうか」という問いに、「はい」と答えたという。>(宮城晴美『母の遺したもの』を中学生向けに要約)
たいへん重要なことが書かれていましたね。要点だけを言えば、「生き残りの宮城さんは、座間味島の遺族たちが国から補償金をもらえるようにするために、自決は軍命令で行われたと証言した」ということです。ウソの証言をしたのは何と驚くなか れ、先の【証言①】で「梅沢隊長から自決命令は出ていない」ことを証明している宮 城初枝さん本人だったのです。ついでに言っておきますが、宮城さんにウソ証言をするよう要請した「島の長老」とは、村議会事務局長の宮村幸延という人です。この人は戦後、「宮村」と改姓していますが、何と実際に自決命令を出した宮里助役の実弟です。
なぜ、宮城初枝さんはウソの証言をしたのだと思いますか? この問いに生徒たち は「多くの遺族の人たちが、補償金をもらえるようにするため」「遺族の生活を心配 したんだと思う」と、戦後未だに経済的に苦しい遺族の境遇に思いをいたしている宮城さんの胸の内を推察しています。また、「島の偉い長老たちに囲まれて、仕方なかったのではないか」と宮城さんの苦悩に言及した生徒もいました。私が聞いた話では、宮城さんは長老から、ウソの証言をしなければこのさき島に住めなくなるかもしれないぞ、と脅迫めいた言葉も投げかけられたといいます。
さて、先の赤松元隊長が沖縄で新聞記者に問いつめられた時、「この問題はいろいろなことを含んでいるので、そっとしておいて欲しい」と答えていましたね。考えても見て下さい。もしこの時、赤松隊長が真相をマスコミに話してしまったら、遺族の人たちはどうなってしまうでしょうか?
国からお金がもらえなくなって、遺児やお年寄りの方々は生活が立ちいかなくなってしまいますね。赤松隊長の言っていた「いろいろなこと」とは、そういうことだったのです。だから赤松隊長も梅沢隊長も、ことの真相部分にはふれられず沈黙せざるを得なかったのでしょうね。
やむにやまれぬ理由があったにせよ、宮城さんの証言は衝撃的でした。軍による住民殺害ともいえるこの「集団自決命令」事件は、この後「事実」となって一人歩きして拡大していきました。今や教科書にまで書かれるようになったのです。
略年表で流れをもう一度確認してください。
1945年 1952年 1957年 1959年 1962年 <懸賞作文~「夕刻、梅澤部隊長(少佐)から、住民は男女を問わず、軍の戦闘に協力し、老人子どもは全員、今夜忠魂碑前において玉砕すべしという命令があっ」> 1968年 1969年 1970年 1971年 |
・国からの補償金を得るため(援護法)
↓ ・ウソの証言(「集団自決は軍命令だった」) ↓ ・ウソ証言の拡大・定着 (歴史教科書にまで「事実」として記載) |
このようにして、ウソが「事実」として拡大し、定着していったのです。ヒトラーか誰でしたか、「ウソも言い続ければ『本当』になる」というようなことを言っていましたが、恐ろしいことです。しかし、決して放置していてはいけません。
6.おわりに
さて、この話には続きがあります。次の話を読んでください。
【35年後の真実】
集団自決命令の当事者にされてしまった梅沢隊長の人生も大変でした。マスコミを はじめ、様々な人から非難され、職場にいられなくなって仕事を転々としました。ま た、息子さんまでが反抗するようになって、家庭が崩壊するなど、ずっとつらい思いをしてきました。そして長い時が流れ、昭和55(1980)年のある日、あの証言者・宮城初枝さんが30数年ぶりに会いたいと言ってきたのです。
<母(宮城初枝)が「集団自決の命令は、梅沢隊長ではなかった。でもどうしても隊 長の命令だと書かなければならなかった」と語りだしたのは、1977年のことだった。そして、「梅沢さんが元気な間に、一度会ってお詫びしたい」とも言った。
それから三年後の1980年、私は知人を介してようやく梅沢氏の所在を知ることができ、手紙を送った。そして、その年の12月中旬、私は職場近くのホテルのロビーで母と二人、梅沢氏と面会した。梅沢氏は私がマスコミを連れてきてはいないかと、しきりにあたりを見回している。母が梅沢氏に、「どうしても話したいことがあります」というと、驚いたように「どういうことですか」と、返してきた。母は、35年前の3月25日の夜の出来事を順を追って詳しく話し、「住民を玉砕させるよう、お願いに行きましたが、梅沢隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅沢さんではありません」と言うと、驚いたように目を大きく見開き、体をのりだしながら大声で「ほんとですか」と椅子を母の方に引き寄せてきた。母が「そうです」とはっきり答えると、彼は自分の両手で母の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからず「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽した。>(宮城晴美 『母の遺したもの』から中学生向けに要約)
そして昭和62(1987)年3月、梅沢隊長は座間味島の慰霊祭に出席しました。この時、国にウソの申請をした宮村幸延氏(謝罪文作成)も梅沢隊長に直接謝りました。
何十年もたって謝罪された梅沢隊長はこう言いました。 「今まで自分は心中穏やかではなかったけれども、それで村が潤い、助かったのだから、いいじゃないか」と。
■宮城晴美氏、軍命に関し著書と真逆の「軍命があった」記述した「新版・母の遺したもの」を出版。
宮城晴美氏の発言を時系列で整理する。
➀2000年『母の遺したもの』を出版。⇒軍命を否定。
②2005年「大江・岩波集団自決訴訟」でひこく側証人⇒軍命肯定。
③2008年『新版・母の遺したもの』を出版。⇒軍命肯定。
■吉浜忍教授の揺れる「定説」
座間味島の集団自決は「隊長命令による」という「定説」は、集団自決のたった1人の生き残り宮城初江さん(晴美氏の母親)によってもたらされた。座間味村の女子青年団のリーダーだった初江さんは、米軍が座間味島に上陸する前日の1945年3月25日、野村正次郎村長ら村の幹部数人と共に、梅澤裕守備隊長(少佐)のいる本部壕を訪ねている。そこで、宮里助役らは、梅澤隊長に自決用の弾薬や手榴弾(しゅりゅうだん)、毒薬などの提供を求めたが、梅澤隊長は弾薬類の提供を拒否している。初枝さんは戦後、援護法の関係で「軍命」があったことにした方が集団自決の遺族に有利だと村の長老に言われ、軍命が有ったと証言していた。
初枝さんは病死する直前、軍命は「援護金」のためのウソの証言であったことを一冊のノートにつづり、娘の晴美氏に託した。戦後生まれの晴美氏が母の遺言を基に「母の遺(のこ)したもの」(2000年12月)を出版することにより、従来の「定説」は逆転する。同書には母の遺言通り「隊長命令はなかった」と明記されており、同書の発行により「集団自決に軍命は無かった」ことが新たな「定説」となった。
沖縄戦が専門の吉浜忍沖国大教授は2000年12月24日付の琉球新報に「母の遺したもの」の書評を書いている。
その中で、専門家の立場から「定説」を補強した。その後「母の遺したもの」が沖縄タイムス01年の出版文化賞を受賞することにより、学術的にも社会的にも「隊長命令はなかった」が確固たる「定説」となった。座間味島の集団自決の「定説」がタイムス、新報によって認知された瞬間だ。
ところが05年、梅澤氏らにより大江・岩波「集団自決」訴訟が提訴される。提訴と同時に晴美氏は態度を一変、母の遺言を踏みにじり被告側の証言台に立ち、「軍命はあった」と証言する。
さらに晴美氏は08年「新版・母の遺したもの」を出版し、「定説」を翻して「軍命はあった」と明記した。つまり「集団自決」の「定説」は05年の「集団自決冤罪訴訟」、および『新版・母の遺したもの』の出版により再び揺らぎ、「隊長命令はあった」と2000年以前の「定説」に逆戻りする。
◆変わる「定説」に翻弄
新聞に登場する「定説」の変化に従って研究者達の「定説」も次々と論旨を変えてくる。例えば沖縄タイムスや新報の「書評」で「母の遺したもの」は「『定説』とは違う真相を語る―隊長命令はなかった」と書いた吉浜氏の変節ぶりが典型だ。
沖縄では、新聞がつくる「定説」には、たとえ研究者といえども逆らえないということが、吉浜氏の変節ぶりからうかがえる。沖縄戦の専門家の吉浜氏は、変わる女心に翻弄(ほんろう)される浮気男のように、次々と自分の「定説」を変えていった。今回の県史の発刊に当たり、晴美氏や林氏、吉浜氏のように「定説」をクルクル変える無節操な人物が執筆してもよいのだろうか。
嘘(うそ)の証言でもいったん、県史のような公的出版物となると、そこに記された「定説」に県や沖縄2紙がお墨付きを与えたことになる。
かつて沖縄2紙は「沖縄の民意はわれわれがつくる」と豪語した。
サヨク集団の執筆者で固めた県史「沖縄戦」の発刊に重大な影響力を持つ沖縄2紙。
「沖縄の民意」はともかく、「沖縄戦」の史実まで沖縄2紙がつくってよいものだろうか。
【参考文献】
・曽野綾子 『ある神話の背景』 PHP文庫
・宮城晴美 『母の遺したもの』 高文研
・宮城晴美『新版・母の遺したもの』
・中村粲 『教科書は間違っている』 日本政策研究センター
・「昭和史研究所会報」 第43、44、56、64号