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沖縄は99%の良い人と1%の悪い人から成り立っていると書いてある掲示板を見たことがある。
この数字の当否は別にして、沖縄の「民意」が左翼メディアにを根城とする、一握りのインテリ層である大学教師、教職員や作家達によって振り回されている事は事実だ。
大多数の沖縄人は意見を述べる場も持てず、振り回される「民意」の波に右往左往するばかり。
その伝統は明治期の土地、税制、教育そして保健衛生の改革断行時にまで遡る。
琉球王国の一握りのインテリ層である王族、支配層の役人達は親中国派が多く「頑固党」を結成し、明治政府の各種改革に抵抗した。
中国(清)の軍艦が琉球王国救援にやって来ると本気で信じる時代の流れの判らないインテリも居た。
中には既得権を失うのを恐れて、清に亡命をした「脱清人」と呼ばれるインテリもいた。
そして彼らの「パラダイスであった琉球王国が日本の侵略により悲惨な沖縄県になった」という思想は脈々と「琉球処分」と言う言葉で現代に受け継がれている。
この一握りのインテリ達は現在でも軸足を日本に置くことを拒否し、「在日琉球人」を自称する新聞記者さえいる。
琉球王国時代の各種旧弊を改めるため明治政府が行った各種の近代化政策を「皇民化政策」と捉え反日教育に専念する。
ちなみに明治政府が沖縄県設置当初行った「旧慣温存策」は、現在の政府が行っている各種の「県民配慮」のはしりだったとも思える。
もっとも、当時の状況から「県民」という概念より、既得権を失った「一部支配層」である頑固党への懐柔策だったのだが。
ん?
現在でも同じだって?
一部の「ノイジィーマイノリティ」への懐柔策」だって?
頑固党の例⇒義村朝明 (よしむら・ちょうめい)、
亀川盛武 (かめがわ・せいぶ)
彼らも「ノイジィーマイノリティ」だったのか。
琉球王国の幻は果てしなく広がり、「武器を持たない平和を愛する国だった」はともかくとして、「琉球王国時代は殺すと言う言葉が無いほど平和だった」という文を見るに及んで「平和幻想」もここに極まれりと思った。
復帰直後の笑い話で、本土出身の検事が容疑者が「殺す(クルス)」と発言したことを捉えて、殺意の証拠だと主張した話がある。
沖縄語の「殺す(クルス)」には文字通りの「殺す」という)意味で使われるより、「打つ」「殴る」といった意味で使われる方が多い。 関西弁でいえば「ドツク」だろうし、関東でいえば「ブットバス」にでも相当するのだろうか。
だが、文字通りの「殺す」という意味もあるし、更に「殴る」と区別して念入りに「ソークルス(ン)」という言葉もある。
最近では「クルス(殴る)」と区別して、「死なす」を使うヤツも入るようだが・・・。
⇒3秒で殺せる うーん、殺せるか。
琉球処分以前の沖縄はは平和なバラ色の琉球王国だったと主張したい沖縄タイムスはこんなコラムも書いていた。
<2005年3月21日> 朝刊 2版 総合1面(月曜日) カラー
自社
[大弦小弦]
「これまで寸鉄を備えず、礼儀をもって道を立て外国には会話のみで対応してきた。兵営を置けばそれだけ外国も強くでてくる」。軍隊を置くという明治政府に対し、琉球人はそう答え断った▼百三十年前の一八七五年のこと。台湾出兵の事後処理を終えた政府は中国・清との関係一掃や兵営設置などを要求、琉球処分に本腰を入れる。琉球国(藩)首脳の池城安規らは陳情特節として上京し、折衝するが流れは変わらなかった▼陳情を無視された池城は東京で「悶死」した。使節の一人幸地朝常はその後、尚泰王の密書を持って清へ渡り客死。最高幹部の富川盛奎も清へ亡命する。彼らの苦悩は西里喜行氏編『琉球救国請願書集成』などで読むことができる▼現代の陳情使である稲嶺県知事が訪米し、沖縄の基地負担軽減を訴えてきた。軍変革、基地再編では自国の利益が優先されるから、沖縄の要望は二の次となるのだろうか。沖縄が利用されるのではなく、考慮されるための壁は高い▼かつての使節は明治政府に相手にされなかった。しかし、琉球の亡命者が清で運動を展開。政府は問題を国内に封じ込めようとするが、清やグラント米国前大統領らを巻き込み国際化させた▼東アジア情勢が加熱する今だからこそ、歴史に学んで長い関係を持つ中国や米軍基地のある韓国と連携を深めることが大切ではないか。そうすれば、要望は通らなくても心強い友人が残る。(後田多敦)
◇
第2の創刊期・「平和」「民主主義」の拠点に(2005.4.26)
那覇市天久に琉球新報社の新社屋が完成、落成祝賀会がきょう二十六日開かれる。
本紙は、新社屋完成を「第二の創刊期」と位置付け、今後とも地域住民の視点に立ち、「時代の証人」「社会を映す鏡」として沖縄の諸問題を掘り下げていくと同時に、沖縄戦の体験を踏まえ、世界の恒久平和を実現するために、なお一層、努力していく決意である。
本紙が沖縄初の新聞として産声を上げたのは一八九三(明治二十六)年九月十五日。創刊の中心的役割を担ったのは、尚泰王の四男尚順を中心に旧士族階級の二十代の青年たちだった。
創刊時は日清戦争勃発(ぼっぱつ)前夜で、県内では旧体制を守ろうとする頑固党と新体制に移行しようとする開化派が激しく対立していた。そういう時代を背景に、本紙は沖縄の改革を主張し、文明開化を告げる役割を担って誕生した。
◇
戦後、米軍のプロパガンダ紙の使命を持って発刊された歴史の浅い沖縄タイムス(今年は創刊60周年)に比べて、
琉球新報は一世紀以上の歴史を持つ日本でも伝統のある部類に属する新聞である。
さすがに創刊当時の明治期の新報記者たちは、大国という名の上に胡坐をかいて、旧幣温存で列強の蹂躙にあえぐ中国(清)には見向ききもしないで、近代化で前途洋洋の日本に将来をかける先見性があった。
それが、何をトチ狂ったのか戦後、特に本土復帰後は沖縄タイムスとタッグを組んで反日論調に路線変更。
さすがにタイムス記者のように「祖国中国」に義理立てして、日本人であることを恥じ、
「在日琉球人」を名乗る記者はいないようだが・・・。
★「在日琉球人」⇒後田多 敦「琉球人の再定義」(「海邦小国記②」より
沖縄タイムスは、沖縄県民を「在日琉球人」にして、
一体どうするつもりなのだろう。
【おまけ】
沈没寸前の清からは多くの学徒が日本に勉強に来ていた。
その清を「張子のトラ」と見抜けなかった、琉球王府の「頑固党」はよっぽど「思考停止」状態にあったのだろう。
その点、「開化党」支持の論陣を張っていた当時の新報記者たちはエライ!
【明解要解】中国語を支える日本語
≪日本語導入のきっかけは、欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。
王氏は「われわれが使っている西洋の概念は基本的に日本人がわれわれに代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間には、永遠に日本が横たわっている」(同著)と指摘。日中戦争が始まる1937年までの40年間に、留学生だけでも延べ6万人が来日。明治維新を経て近代化を急ぐ日本で西欧を学び、そして和製漢語を取り入れたのである。≫
【追記】
上記記事を資料として全文保存しておきます。
【明解要解】中国語を支える日本語 (1/2ページ)
2008.8.20 07:58
■外来語の1割が日本からの“輸入”
「中華人民共和国 共産党一党独裁政権 高級幹部指導社会主義市場経済-という中国語は中華以外すべて日本製(語)なのをご存じですか」-。東京都台東区の中国語講師、劉美香さん(51)からこんなお便りをいただいた。産経新聞の「朝の詩」と「産経抄」を教材に毎日、音読と書き写しで日本語を磨くという劉さん、「明治時代の日本人が、欧米の学問を漢字で翻訳してくれたから、当時の中国は世界を理解できた。平仮名や片仮名に翻訳されていたら今ごろ、中国はどうなっていたでしょうね」。(特集部 押田雅治)
中国語には約1万語の外来語があり、その大半が「仏陀(ぶっだ)」や「菩薩(ぼさつ)」「葡萄(ぶどう)」「琵琶」などインドやイランなど、西域から入った言葉といわれている。
その残り1割、1000語余が清朝末期以降、日本から取り入れた言葉で、社会科学や自然科学などの学術用語の約7割が、英語やドイツ語などから翻訳した和製漢語といわれている(『現代漢語中的日語“外来語”問題』・王彬彬著)。
日本語導入のきっかけは、欧米列強によって亡国の危機感に襲われていた清朝の志士たちの「日本に学べ」の精神だった。
王氏は「われわれが使っている西洋の概念は基本的に日本人がわれわれに代わって翻訳してくれたものだ。中国と西洋の間には、永遠に日本が横たわっている」(同著)と指摘。日中戦争が始まる1937年までの40年間に、留学生だけでも延べ6万人が来日。明治維新を経て近代化を急ぐ日本で西欧を学び、そして和製漢語を取り入れたのである。
本来、漢字だけで成立する中国語が外来語を取り入れる場合、「電視機」=テレビや「電氷箱」=冷蔵庫などの意訳型と、「可口可楽」=コカ・コーラなど音訳型の2つに大別される。
当時の日本が欧州の言葉を日本語に翻訳する場合はほとんどが意訳だったため、和製漢語でも、漢字本来の意味を踏まえて翻訳した「哲学」や「宗教」などは中国人にも理解しやすかったようだ。
ただ、中には「経済」のように、本来の意味と異なり、混乱した言葉もあった。元になった中国の古語「経世済民」は、「世の中を治め、人民の苦しみを救う」という政治を意味する言葉だったため、中国人が考えた「計学」や「資生学」などと共存した時期もあったという。
劉さんは「不倫や電話詐欺など“悪い言葉”や癌(がん)などの医学用語も含め、日本語はいまなお、中国語に大きな影響を与えています。漢字は中国で生まれましたが、その漢字を生かした和製漢語のおかげで中国は世界を知り、学ぶことができたのです。この事実を多くの日本、そして中国の人に知ってもらいたい」と話している。
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