たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

D系統のY染色体

2019-11-26 09:42:49 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

先日、「日本には多様なDNAタイプが集まっている」

という記事を書きましたが、その中でも際立った

特徴を持つのが「D系統のY染色体」でして、

このDNA型は日本(およびチベットとインド洋諸島の一部)

にのみ高頻度に出現し、現在も日本人男性の3割近くが、

この型の遺伝子を継承していると聞きます。

 

何でもD系統遺伝子は、「縄文遺伝子」とでも

呼ぶべき古代血統で、このグループに所属する日本人は、

古くから日本列島に居住していた可能性が高いのだとか……。

 

ちなみに、Y染色体というのは、父系をたどって

たどり着くハプログループ(共通の祖先)を指し、

母系でをたどってたどり着く「ミトコンドリアDNA」

のハプログループと組み合わせて分析することで、

各々のルーツをほぼ正確に示すことができるそうです。

 

母系の「ミトコンドリアDNA」に関しては、

日本と東アジアの国々の間に

顕著な差異は見られないことから考えると、

この「D系統Y染色体」の特異な分布こそが、

日本人のルーツを探る上で大きなカギとなるのでしょう。


多様な遺伝子型

2019-11-25 09:37:28 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

いつの時代も、「共存」を主として

発展してきた日本という国は、

元から暮らしていた日本固有のDNAを持つ人々と、

外からやってきた様々なタイプのDNAを持つ人々とが、

融合しながら形作られてきた国柄ともいえます。

 

恐らく、それは縄文時代の晩期に、

弥生人と呼ばれる人たちが流入した際も同じであり、

決して好戦的な弥生人が温和な縄文人を

駆逐したわけではなく、両者はお互いに

持ちつ持たれつの関係を維持しながら、

ゆるやかに融合して行ったと

考えるほうが自然なのでしょう。

 

アジアの近隣大国が、「ほぼ同じDNAを持つ人々」

で占められている現実を見れば、

「多様な遺伝子型」を有する日本という国は、

いわば「血の浄化」とでも呼ぶべき、

不幸な出来事に見舞われなかった証にもなるはずです。

 

もしかすると、日本にやってきた人々は、

行き場を失って日本に逃れてきたというよりも、

「ある意思を持って」日本を目指した

可能性が高いのかもしれません。


最果ての国へ

2019-11-24 09:33:43 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

近年のDNA解析技術の進化により、

人類の分化の様子や「日本人のルーツ」が、

少しずつ明らかになってまいりました。

 

いかんせん、私ごときの能力では

その詳細をわかりやすく伝えるのは無理ですし、

またこれらの調査はまだ発展途上の側面もあるため、

ここでは詳しい説明は省きますが、

それらの内容をザっと読んでみて感じたのは、

どうも当時大陸にいた人々は、

当初から「日本」という最果ての地を目指して、

この島国に流入してきたのではないかということでした。

 

つまり、様々な理由で大陸の各国を脱出した人たちが、

「追い詰められて」最東端の島国まで逃れてきたわけではなく、

あたかも「日本」という国を目指すかのように、

あちらこちらから日本へとたどり着いた様子が、

個人的にはイメージされるのですね。

 

ちなみに、当時の日本には、

多種多様な人種が集合していたことが、

DNAの分析からも証明されており、

一説には、アフリカを発祥とするDNAのほとんどが、

日本へと到達した可能性もあるのだとか……。

果たして当時の人々は「日本」という国を、

どのような視点で捉えていたのでしょうか……。


遺伝子の反乱

2019-11-23 09:48:28 | 縄文への旅

<青森県立美術館>

 

縄文的な能力を封印した現代人は、

災害に対する危機意識も、

他人に対する思いやりも見失い、

ただ漫然と「自分の利益」のためだけに

生きているような状況です。

 

恐らく、昨今の縄文ブームというのは、

私たちの細胞の片隅に追いやられた

「縄文遺伝子」の反乱でもあり、

縄文時代の遺物を通じて、

「思索する力」「人間としての基本」

を思い起こさせるための「最終手段」なのでしょう。

 

そして、「縄文」に惹かれる人の多くが、

そういった遺伝子の発露を

先取りしている状態なのだと思います。

 

以前、「縄文時代の終焉の理由がカギ」

といった内容の記事を書きましたが、

もしかすると1万年以上続いたとされる

「平和な縄文時代」が終わりを迎えたのも、

人々が自己利益を優先するようになったことで、

「祈りの質」が変わり、神々との距離が

開いてしまったからなのかもしれません。

 

逆に言えば、私たちが自分本位の態度を改め、

「祈りの質」を変化させることで、

縄文時代のような「神々との距離感」

を取り戻せるのもまた事実なのです。


縄文的スキル

2019-11-22 09:40:15 | 縄文への旅

<青森県立美術館>

 

直感力や危機管理能力というのは、

ぼんやりと心をオープンにしているだけで、

天から降りてくるような代物ではなく、

あくまでも「想定」「思考」「対策」をした上での、

「何となく」だと個人的には考えております。

 

詳細な情報ツールを持たない縄文時代の人々が、

なぜ目の前の危機や迫りくる災害を

避けることができたのか……。恐らくは、普段から

狩猟・採取などを通じて周囲の変化に気を配り、

土器・土偶の制作を通じて自分の内側と向き合い、

そして見えない世界を通じて

自然に感謝を捧げていたからなのでしょう。

 

そこには、「自分の身は自分で守る」

「決して人任せにはしない」という、

現代の防災意識にもつながる

重要な教訓が潜んでいるのだと思います。

しかし、それらの縄文的スキルは、

弥生時代に入り「自らの利益」を

最優先し始めた結果、時代を経るごとに衰退し、

現在では「眠れる遺伝子」として、

私たちの身体の奥へと追いやられてしまったのです。


危機管理能力

2019-11-21 09:34:54 | 縄文への旅

<青森県立美術館>

 

これからの激動の時代を生き抜く上で、

私たちが早急に意識しなければいけないのが、

「自分の力で考え判断する」という姿勢でしょう。

実は今、近々に迫った自然災害についての情報を

確認しながら、この文章を書き起こしているのですが、

こういったデータを得られなかった縄文の人々が、

いったいどのように危険を察知していたかといえば、

それは起こり得る状況を想定し

「思考し」警戒するという日頃からの心構えが、

ある種の「インスピレーション」を

呼び込んだからではないかと感じるのです。

 

もちろん当時は、「見えない世界」との親和性も

深かったがゆえに、現代よりもはっきりとした

「確信」を得られたのかもしれません。

ただし、縄文時代の人々も現代の人々も、

「人間の資質」はほぼ同じだと考えれば、

「縄文人のDNA」を受け継ぐ私たちが、

縄文人に匹敵するだけの「危機管理能力」を

発揮することは、決して難しくはないのだと思います。


縄文人の思考力

2019-11-20 09:30:40 | 縄文への旅

<青森県立美術館>

 

「思考」「思索」などという言葉を聞きますと、

たいていの人はひとつの問題について、

あれこれと「悩む姿」を思い浮かべるかもしれません。

かくいう私なども、興味のあるテーマについて

考えているだけで、「そんなに深く悩まなくても」

「気にしても仕方がないじゃない」などと

周囲からダメ出しされることも多いのですが、

基本的に「考えること」と「悩むこと」は別物でして、

自分で自分の心を傷つけるような妄想でない限り、

それは人間にとって必要不可欠な

「生存本能」だと個人的には感じております。

 

昨日も書きましたように、縄文の人たちは

決して「情熱」や「直感」のみに

頼って生きていたわけではなく、

その場その場で持っている「思考力」を

フル回転させながら、最も適切な選択肢を

選び取っていたのような気がするのです。

周囲の状況や相手の思い、

天候の異変や動物の動き……等々、

視線を向けた対象に深くコミットし、

正確に現状を把握できていたからこそ、

現代人をもうならせる造形へのセンスや、

過酷な環境にも対応し得るサバイバル力を

身につけられたのでしょう。


思索の力

2019-11-19 09:56:33 | 縄文への旅

<青森県立美術館>

 

昨日、縄文人にはあって現代人にはないものとして、

「思索の力」というテーマを掲げましたが、

昨今の風潮が「深く考えること=ダサい」

「あれこれ試行錯誤すること=無駄」

といった流れに傾いているのも確かです。

日常的なコミュニケーションにおいて、

ひとつのテーマを深く追求しようものなら、

「こだわりの強い人」「扱いにくい人」

として敬遠されるのがオチでしょう。

 

ただし、本来人間というのは、

どのような疑問も自身の内側にある「何か」で、

すべて解決できるようになっており、

それらに行き着く手段として、

「思考力」と「想像力」を与えられていると

個人的には考えております。

言うなれば、現代人である私たちが、

「自らの祖先」でもある縄文人について、

まるで異星人を語るかのように頭を悩ませているのも、

「考える力」を失ってしまったからだと思うのですね。

 

恐らく、多くの人が縄文人に対して、

「知性」や「インテリジェンス」とは

真逆の人物像をイメージしているかもしれません。

一方で、縄文人の残した遺物の中に見えてくるのは、

「文明の頂点」にいるはずの現代人が失った、

鋭い「英知」とそれを追求した「思索の跡」なのです。


縄文人の精神性

2019-11-18 09:50:32 | 縄文への旅

<青森県立美術館>

 

昨今の縄文ブームに接しているとよく耳にするのが、

「縄文人の精神性」というテーマです。

現在、多くの縄文マニアの方々が、

「現代人に欠けている何か」

「現代人が忘れてしまった何か」を見出すべく、

縄文人の持つ「スピリット」の部分に

熱い眼差しを向けておりますが、

改めて「縄文人の精神性とは?」と問われると、

その答えを明確に示せる人は少ないでしょう。

 

ちなみに、身の回りの「縄文ファン」に、

縄文人にはあって現代人には

足りない部分について尋ねますと、

「魂の発露」や「自然との共生の心」など、

「人間の原点」のような部分を、

不足要素として捉えている返答が目立ちました。

 

それ以外にも、「争いを好まない平和な人間性」

「見えない世界を感じ取る感性」……等々、

様々な内容は続くものの、ではそれらの「心」を

現代人が取り戻すための手段は?となると、

多くの人たちは「うーん……」

と考え込んでしまうのが現状です。

恐らく、現代人に最も不足している部分、

それは「自らの力で思索する力」なのかもしれません。


縄文時代の終焉

2019-11-17 09:46:36 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文時代が終わりを迎えた理由……、

それは縄文と弥生の混在期に姿を消した

「土偶」がキーになるのではないかと

個人的には考えております。

縄文各時代の土偶を考察する中で感じたのは、

土偶という「形代」が時間を経るごとに、

「偶像」へと変化して行った様子でした。

 

もともと「リアルな人型」を厳禁とし、

「使い捨て」のために造られた土偶でしたが、

いつの頃からか人体にごく近い形象を取り、

祈りを捧げる崇拝物へと昇格しました。

さらには、本格的に弥生時代が始まると、

「形代」よりも実践力のある

「贄」の文化が広まったことで、

「身代わり」あるいは「崇拝の対象」

として造られていた土偶は、

密かにその役目を終えたのでしょう。

 

恐らく、縄文時代を通じて人々は、

「生き物の犠牲」を最小限に抑えるべく、

人間か精霊かもわからない人型土偶や、

儀式の供物とするための動物土偶などを

考案したものの、その「ギリギリの均衡」

が崩れたことで、縄文時代は終焉を迎える

ことになったとも想像できるのですね。


縄文人からのメッセージ

2019-11-16 09:07:02 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

以前「能登の縄文人」に関する記事でも書いたように、

弥生という新時代の到来を予感した縄文晩期の人々は、

「新たな文化を受け入れるか」それとも

「縄文古来のやり方を守るか」という

難しい選択を迫られ、同じ集落民の間でも

意見が割れることも多かったと思われます。

 

結果的に「融合」という日本人らしいやり方で、

大きな人的犠牲を伴う衝突は避けたものの、

縄文人の心の中には、言葉にできない

「葛藤」が残ったことは確かです。

 

私自身「縄文」に真正面から向き合う前は、

「縄文は野蛮」という昭和時代の風潮から入り、

「縄文はすごい」という平成時代の空気に流され、

最終的に縄文の良い面も悪い面も含めた上で、

冷静に縄文時代を俯瞰するようになりました。

 

ゆえに、縄文ブームが巻き起こっている今、

「縄文礼賛」の部分はあえて控えめにして、

縄文時代を終わらせた「負の面」について

目を向けようと考えております。もしかすると、

「縄文時代の終焉」の理由を知ることこそが、

「縄文人からのメッセージ」を受け取るための

最重要課題になるのかもしれません。


もう一度縄文へ

2019-11-15 09:59:28 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

弥生時代前半を最後に、世の中から

姿を消した「土偶」という偶像ですが、

実はそこに至るまでの過程には、

何度かの「土偶復活」の兆しがあったと聞きます。

例えば、縄文と弥生とが交錯し始めていた時代、

東北を中心に制作されていた亀ヶ岡式の土器や土偶が、

なぜか東日本を飛び越えて西日本一帯に広まったり、

「土偶不毛地帯」であったはずの九州で、

突如として土偶を作り出す地域が出現したりと、

ある意味「揺り戻し」のような動きが見て取れるのだとか……。

 

一説に、西日本一帯を席巻しつつあった

「弥生文化」をけん制するために、

東北の縄文人たちが西日本へと偵察に出向いた、

あるいは縄文人の価値観を脅かすような

「異物」と対峙するために、土偶を復興し

結束を高めたなどといわれているものの、

やはりはっきりした理由はわかっておらず……。

いずれにせよ、一部の人々(縄文人の末裔

および縄文スピリットを重視する弥生人)の間で、

縄文のエッセンスを求める気運が強まり、

「もう一度縄文時代へ」という

ムーブメントが起きた可能性が伺えるのです。


土偶の消滅

2019-11-14 09:54:42 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

「縄文人」と「弥生人」とが隣り合って

生活していたという事実は、

既存の古代史観に大きな影響を及ぼすものでした。

そのことを前提に考えれば、縄文人と弥生人とは

完全なる対立関係にあったわけではなく、

持ちつ持たれつの関係性を保ちながら、

適度な距離感で交流していたとも想像できます。

もしかすると、縄文人は弥生人から最新技術を学び、

弥生人は縄文人から呪術や精神性を学ぶなど、

お互いの文化を認め合っていたのかもしれません。

 

しかしながら気になるのは、

縄文時代が終わりに近づくに従い、

一部の地域を除いて「土偶」が徐々に

姿を消して行ったということです。

同じく縄文の祭祀アイテムである「石棒」が、

弥生時代になっても継続して用いられたのとは逆に、

あれほど多種多様な形象を生みだした

「土偶」に関しては、少なくとも弥生中期の頃には、

ほぼ制作された形跡がなくなったと聞きます。

 

土偶消滅に至るまでには複雑な流れがあるため、

一概に「縄文の終焉と共に土偶が消えた」

とは言い切れないのが難しいところですが、

このあたりの事情を詳しく探るために、

縄文晩期の諸々の動きについて

再確認してみることにしましょう。


不明瞭な様相

2019-11-13 09:48:18 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨日、「縄文晩期頃にはすでに、

日本に稲作が伝来していた」

という内容の記事を書きましたが、

同時に縄文の終焉と共に消滅したとされる

「縄文土器」が、実は形を変えながら弥生土器

として継承されていたという調査があります。

 

一見、複雑なデザインを施した縄文土器と、

合理的でシンプルな造形の弥生土器では、

見た目の印象は異なるものの、

よくよく観察してみれば、

弥生式と呼ばれる土器にも、

縄文を彷彿させる文様が刻まれた

作品が数多く存在しますし、

また北部九州から発掘された弥生土器には、

縄文晩期の亀ヶ岡式土器の影響が

はっきりと見て取れるのだとか……。

 

つまり、弥生時代の始まりを示す根拠となった、

「稲作の伝来」と「弥生土器の使用」

というふたつの事象が、従来ほど意味を

持たなくなってきたというわけなのですね。

また、石棒などの縄文系祭祀具が、

弥生の象徴である銅鐸の分布図と重なる

(つまり弥生時代の祭祀に、

縄文の祭祀具が使用されていた)

との指摘もあることから、

縄文と弥生の境界線は、私たちが思う以上に

不明瞭な様相を呈しているのかもしれません。


縄文人と稲作

2019-11-12 09:41:03 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文と弥生の境目がわからなくなったことで、

まず見直さなければいけないのが

「稲作」という文化かもしれません。

 

これまでは「大陸から大挙して押し寄せた

渡来人たちが、西から東に向かって

短期間のうちに稲作文化を広めて行った」

という説が一般的でしたが、

縄文晩期の遺跡から水田遺構と共に、

木製の鍬や石包丁や炭化したコメが

見つかったりするなど、少なくとも縄文後期には、

陸稲(りくとう ・おかぼ)による稲の栽培が

行われていた形跡が見られると聞きます。

 

さらには、日本全土を席巻する勢いで

伝播したとされる水田稲作が、

中部地方のあたりで一旦ペースを落とし、

その後東日本全体に行き渡るまで、

およそ500年前後の時間を要した

(つまり水田稲作を拒んだ地域が存在した)

……など、既存の説を覆す事実が次々に

明らかになってきたのだとか……。

 

このあたりの事情については、

機会があれば詳しく考察してみたいと思いますが、

とにもかくにも、私たちが弥生時代と認識していた

一部の期間は、縄文的な生活を営む人と

弥生的な生活にシフトした人とが、

混在して暮らしていたことがわかってきたのです。