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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

縄文と弥生の境目

2019-11-11 09:33:35 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨今、専門家や古代史マニアの間で

話題に上っているのが、

「縄文と弥生の境目はいつか」という問題です。

何でも、最新の調査により、

弥生時代の開始が早まることが判明し、

縄文時代最晩期と弥生時代前期とが

交錯する可能性が出てきたのだとか……。

 

弥生時代の始まりを意味する「稲作」が、

縄文時代にはすでに行われていた形跡が見つかったり、

逆に西日本では稲作が定着していた時期に、

東日本では縄文的な営みを継続していたり……

といった具合に、数百年間(500年くらい?)に渡り、

西日本は弥生時代、東日本は縄文時代という、

カオスな時代が存在したという説が

主流になりつつあるのです。

 

まあ考えてみますと、「時代の境目」という

区切りは現代人が便宜的に作り上げただけで、

「ここからが●●時代」という明確な線引きは困難ですし、

弥生時代が到来したからといって、突如として

縄文式の生活がリセットされるわけでもありません。

これまでは「稲作とともに日本列島に押し寄せた

渡来人たちが、短期間で弥生文化を全国に広めた」

との見解が一般的でしたが、どうやらそれらの話は

根本から見直さなければいけないのでしょう。


間違った縄文観

2019-11-10 09:28:48 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

現在の小中学校で使用される教科書において、

縄文時代がどのような扱いを

受けているのかはわかりませんが、

例えば、昭和時代の歴史の教科書を

思い出してみますと、縄文時代の記述は

ほんのわずかだったと記憶いたします。

 

また、当時の教科書には、

「稲作が伝来したことにより、

人々は非文明的な生活に終止符を打ち、

人間らしい暮らしを営むようになった」……等々、

「弥生人優位」のニュアンスが漂っていたのも事実で、

現代人の「縄文観」に間違ったイメージが

刷り込まれているのも致し方ないことなのでしょう。

 

そんな世間の風潮の中でも、

縄文人の優れた人間性と技術の高さを

目の当たりにした一部の考古学者は、

長年にわたり「縄文人は野蛮な人種ではない」と、

誤った概念を払拭しようと努力されて来ました。

そして近年になり、それらの主張を

後押しするような発見が相次ぎ、

「縄文のイメージ」が大幅に

入れ替わろうとしているのです。


森と人間

2019-11-09 09:22:33 | 縄文への旅

<十二湖の森>

 

今回の旅で、どうしても外せないと考えていたのが、

青森周辺の「森」の散策でした。

まあ、散策と申しましても、

本格的な登山をするわけではなく、

縄文遺跡を取り巻く「森」に足を踏み入れることで、

少しでも「縄文人」の息遣いに

触れたいと思ったのですが、

実際に鳥のさえずりや葉擦れの音だけが聞こえる、

誰もいないブナの原生林で、

静かに深呼吸を繰り返しておりますと、

縄文時代に生きた人々が、

なぜこのような稀有な文化を維持できたのか、

なぜ他人との争いを最小限に抑えることができたのか、

少しだけわかるような気がいたしました。

 

恐らく、縄文の人々は「自分は森(自然)であり、

森(自然)は自分である」ということを、

理屈ではなく直感で気づいていたのでしょう。

そして「自分は他人であり、他人は自分である」

という真実も、同じように理解していたのだと思います。

森の中にひとりでたたずんでいるとき、

まるで自分と森とが一体化したような感覚に陥り、

人間であるはずの自分と、自然であるはずの森との

境界線が不明瞭になりました。

自然を痛めつければ自分が荒れる、

他人を痛めつければ自分が傷つく……、

現代人である私たちはこの「自然の摂理」

を忘れているのかもしれません。


森への思い

2019-11-08 09:10:56 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

青森の森に接しながら思ったのは、

土器も土偶も「森」からインスピレーションを得て

造られたのではないかということでした。

もちろん、海洋生物を象った様々な土製品を

眺めておりますと、縄文の人々が「海」と

深いつながりを持っていたことは確実ですが、

やはり日常生活のベースとなる「森」への思いは、

私たちが想像する以上に強いものであり、

故郷の「森」を見ながら沸き上がるイメージを、

日々の制作の糧にしていたのではないかと、

個人的には夢想してしまいます。

 

ちなみに、専門家から聞いた話によれば、

現在、公開されている「縄文ムラ」の多くは、

あまりにも整備されすぎているがゆえに、

古代の様相を反映しているとは

言い難い部分があるのだとか……。

縄文時代の「ムラ」の周囲には、

実に多種多様な植生が広がり、

住居の周辺も「草だらけ」だったと

仮定するほうが自然なのだそうです。

そう考えると、現代人が少しでも

「縄文」に近づきたいと思うなら、

縄文遺跡を巡るだけでなく、その周辺を取り巻く

「森」の中に身を置く必要があるのでしょう。


非凡な世界

2019-11-07 09:07:20 | 縄文への旅

<八甲田・十和田ゴールドライン>

 

「原生林」や「縄文の森」などの言葉を聞きますと、

鬱蒼とした濃い緑の木々が四方八方から迫り、

得体の知れぬ動物たちの気配や鳴き声が充満し、

異世界が常に隣り合わせに共存する……といった具合に、

ある種の暗さを伴うイメージが付きまといます。

ただし、ここ青森周辺の森は、

想像以上に明るい空間が一面に広がり、

サワサワと絶え間なく通り過ぎる風も、

湿った感じはなくとても爽やかで、

「いつまでもここにいたい」と思わせる

不思議な磁力にあふれておりました。

 

まあ、他の季節に訪れたことがないので、

何ともいえない部分はあるのですが、

恐らく縄文時代というのは、

決してアースカラー一色の単調な世界ではなく、

現代人である私たちがイメージするよりも、

「色鮮やか」で「非凡」な世界だったのでしょう。

ブナ林の新緑や是川遺跡の「朱」の世界……等々、

豊かな森と様々な色彩に囲まれた

「桃源郷」だったような気がするのです。


緑の揺りかご

2019-11-06 09:01:14 | 縄文への旅

<奥入瀬渓流>

 

***** 縄文への旅3 *****

今回、青森周辺の縄文遺跡をいくつか巡る中で、

一番印象に残ったのは「森」の豊かさでした。

これまで全国各地の「森」や

「山」を探索してまいりましたが、

ひと口に「森」とはいっても、

受ける印象は実に千差万別でして、

底なし沼のような熊野の森、

人工的でソリッドな剣山の森、

果てしなく天空に近い白山の森、

フラットでクールな出雲の森……等々

(あくまでも個人的な感想です)、

それぞれに違った特色があり、

訪問時の楽しみのひとつとなっております。

 

東北の森という言葉を聞くと、

厳しい冬の環境や野生動物との遭遇など、

ある意味ハードなイメージを

沸き上がらせるかもしれません。

しかし、縄文遺跡を取り巻く東北の森は、

「母なる器」とでも言い表すべき懐の深さで、

「にわか縄文マニア」の来訪を歓迎してくれました。

まるで母体に回帰したかのような

その「緑の揺りかご」は、

古代の人々が暮らしていたであろう

「縄文の森」そのものなのでしょう。


北東北とユダヤ

2019-11-05 09:00:53 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

地元の研究家の調査によりますと、

青森県新郷村のキリスト伝説の元となった話として、

「平安中期ごろ、海で遭難したロシア人の船乗りが、

村の娘と結婚してこの地に住み着いた」

という逸話が残っているのだそうです。

何でもそのロシア人がキリスト信者だったため、

亡くなった後に十字架のあるお墓に埋葬されたことが、

のちの「誤解」につながったのだとか……。

 

個人的には「キリスト伝説」よりも、

この昔話のほうが信憑性が高いようにも感じるのですが、

キリストが誕生する遥か以前の

「モーゼの時代(縄文時代の後期頃?)」には、

秋田や青森などを中心に、「古代イスラエル人」が

多数上陸していたという説もありますし、

仮に、青森県新郷村の「キリスト伝説」が

事実ではなかったとしても、何らかの形でこの地に

「ユダヤ」が関わっていたことは確かなのでしょう。

 

もしかすると、この一帯で誕生したとされる

「遮光器土偶」という謎の造形物の正体も、

古代イスラエル人との関連を調べることで、

いくつかのヒントが得られるかもしれませんね。


ナニャドヤラ

2019-11-04 09:57:58 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

昨日、キリスト終焉地との言い伝えが残る、

青森県新郷村の「意味深な習俗」

についてご紹介しましたが、

中でも事の真相を左右しそうなのが、

「ナニャドヤラ」という青森県南部から

岩手県・秋田県北部にかけて伝わる民俗芸能です。

 

聞いたところによりますと、

「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ……」

というこの祭り唄の歌詞は、

「異性を誘う恋の歌」「道歌(道徳的な短歌)」

「梵語(サンスクリット語)」など、

いくつかの説が取り沙汰されているものの、

あまりにも意味不明であることから、

様々な憶測を呼んでいるのだとか……。

 

まあ、日本とユダヤとのただならぬ関係に、

好奇心を注ぎ続けている身としては、

「ナニャドヤラ」という文字を見た瞬間に、

「やっぱりヘブライ語か」と思ったのも事実でして、

一部の専門家の間ではこの歌詞は、

「汝の聖名を讃えん、汝は賊を討伐したまい、

汝の聖名を讃えん」などの意味に解釈できるといいます。

 

いずれにせよ、青森や秋田で頻繁に遭遇する

「日本人離れした顔立ちの色白美人」の多さを踏まえても、

「ナニャドヤラ・ヘブライ語説」を支持したくなるのは、

あまりにも主観的すぎる考えでしょうか……。


ユダヤの痕跡

2019-11-03 09:54:11 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

「キリストの墓」との伝承が伝わる、

青森県新郷村の小高い丘の上を訪れると、

「キリスト」と弟の「イスキリ」が

眠るという二基の塚がありました。

何でもこの場所には、「イエス・キリストが

21歳の時に来日し、33歳の時にユダヤに戻ったが、

十字架刑に処されそうになり、イエスの弟イスキリが

イエスの身代わりとなった」

という言い伝えが残っているのだそう……。

そして、「ゴルゴダの丘で処刑されたはずの

イエス・キリストは、実は日本に逃れて来ており、

106歳の生涯をこの新郷村で閉じた」のだとか……。

 

まあ、この伝承が事実かどうかを

解明するつもりはありませんが、

近隣の「戸来(へらい)」という地名が、

「ヘブライ」と類似していること。

一帯では、父親をアヤまたはダダ、

母親をアパまたはガガということ

(アダ・アド・アバなどの呼称はヘブライ語で親を指す)。

子供を初めて野外に出すとき、

あるいは足がしびれたときなどは、額に十字を書くこと。

ダビデの星を代々家紋とする家があること……

(新郷村HPより)、などの事象を踏まえても、

この地の人々と古代イスラエル人とが、

密接な交流を持っていたことは事実なのでしょう。


キリストの墓

2019-11-02 09:49:52 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

毎年6月になると、青森県新郷村では

「キリスト祭」という名のイベントが執り行われ、

観光客を含め多くの人々で賑わうそうです。

何でも、人口2,500人ほどの小さなこの村には、

「キリスト終焉の地」という、

にわかには信じがたい伝承が伝わり、

またそれを裏付けるような事実も

たくさん見つかっているのだとか……。

 

事の発端は、『竹内文書』と呼ばれる

神代文字で書かれた歴史書、

およびその著者である宗教家が、

1930年代にこの地を訪れたことが、

諸々のきっかけとなったという話ですが、

以来幾度となくオカルト小説や

ドキュメンタリー映画の題材などに取り上げられ、

今ではすっかり村の観光資源として定着していると聞きます。

 

ちなみに、「キリストの墓」とされる小高い丘の上には、

十字架の建てられた2つの塚があり、

そばには「キリストの里伝承館」と呼ばれる

資料館やお土産屋も併設されていました。

訪れた時間が遅かったため、

資料館には立ち寄れなかったものの、

公園としてきれいに整備された墓地の一帯に、

宗教の垣根を超えた何ともカオスな

空気が漂っていたのが印象的でした。


ミステリースポット

2019-11-01 09:44:01 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

先日、ユダヤの聖数とも関わる

「縄文尺」についてお話ししましたが、

大湯のストーンサークルが発生したとされる

その頃(およ4,000年前くらい?)、

エジプトではピラミッドの建造が盛んになり、

また神の啓示を受けたモーゼが、ユダヤ人を

連れてエジプトを脱出したという話があります。

 

実は、大湯ストーンサークルの近くには、

ユダヤ人との深いつながりを持つ遺跡?が存在し、

ちょっとした観光名所として周知されているのですが、

みなさまはご存知でしょうか……。

十和田湖東側に位置するその場所は、

その名もずばり「キリストの墓」でして、

都市伝説好き及びオカルトマニアの間では、

知る人ぞ知るミステリースポットとして有名なのです。

 

実は、こちらも本来は立ち寄らないつもりでいたのですが、

次の目的地に向かうためにナビの設定をしたところ、

たまたまこの近くを通るルートを選択したため、

「ならば」ということで、日没間近のギリギリの

タイミングで訪ねてみることにしました。

果たして、本当にこの場所にキリストは眠っているのか……、

今回の旅の締めとしてこの謎のスポットをご紹介しましょう。


祭りの舞台

2019-10-31 09:40:27 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

ここ大湯のストーンサークルには、

円形に張り巡らされた石の中心に、

「日時計状組石」と呼ばれる立石が置かれ、

時間や季節ごとに変化する太陽の動き応じて、

石の影の長さが変わることがわかっています。

隣接するストーンサークル館内で、

太陽と環状列石との関係をシミュレーションした

模型を見たのですが、個人的に頭に浮かんだのは、

特別な日の太陽を「祭りの舞台」の演出効果

として取り入れるために、ストーンサークルを

建設したのではないかというイメージでした。

 

仮に、ストーンサークルが墓地として利用され、

その中で葬儀が執り行われていたとしても、

決して人々は悲壮感ばかりに包まれていたわけでなく、

神と死者と生きる人間とが混然一体となって、

その場全体を不思議なエネルギーで

満たしていたような気がするのです。

実際に遺跡に立ってストーンサークルを眺めてみますと、

あたり一帯が常に「空気の循環」を繰り返しながら、

清冽な風が入れ代わり立ち代わり

大地を掃き清めているような光景が思い浮かびました。


特別な川石

2019-10-30 09:34:05 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル館>

 

大湯環状列石で使用されている石

(約8,500個)の半数以上が、

「石英閃緑ひん岩」という淡い緑色の石だと聞きます。

しかもその石は、遺跡から5㎞近く離れた

安久谷川流域から採取されたもので、

この地の縄文人は数百年の長い月日をかけて、

これらの石を大湯まで運んできたと推測されるのです。

 

となりますと、なぜ山や海の石ではなく、

川の石が必要だったのか……、

なぜ近隣の川の石ではなく、

安久谷川の石でなければならなかったのか……等々、

様々な疑問が浮かびますが、

恐らくストーンサークルを完成させるためには、

「特別な川石」であることが必須条件だったのでしょう。

 

つまり、身近な野山の石ではなく、

特定の川石を遺跡に加えることで、

陰陽五行が揃う完全なる聖地を

作り上げたかったのだと個人的には感じるのです。

ちなみに、「石英閃緑ひん岩」という名称を見て

思い浮かんだのが、伊勢神宮のお白石持ち行事

で使われる白い石英の石でした。

 

「白」と「緑」と色こそは違うものの、

なぜか聖地には「石英系」の石が付いて回り、

伊勢や熊野などの信仰の場では、

必ずといっていいほど石英の石を見かけます。

もしかすると、「ストーンサークルに石を運ぶ」

という行為は、伊勢神宮に石を奉納することと

同じ意味を持っていたのかもしれません。


陰陽五行の聖地

2019-10-29 09:31:15 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

ストーンサークルと聞きますと、

大きな円形状の石の集合体にばかり目が行きますが、

ここ大湯ストーンサークルでは、日時計状の組石や、

周囲に散らばる小さな円形の列石、

弓状に作られた石の集合体(配石遺構群)……等々、

メインである二つの環状列石

(万座環状列石、野中堂環状列石)以外にも、

様々な形状の石の遺構が見つかっております。

 

また、能登の真脇遺跡を思わせるウッドサークルや、

等間隔で並んだ直線の柱列など、木柱をベースにした遺構も、

遺跡全体を取り囲むようにして配置されているのです。

つまり、この場所は「木の文化」と「石の文化」とが、

共存する場所だったとも言い換えられるのですね。

 

さらには、ウッドサークル内で火を焚いた痕跡があることや、

周辺から多量の土製品が出土したことなどを重ね合わせると、

大湯ストーンサークルという場所は、

陰陽五行の「木」「火」「土」「金(石)」

が揃った「聖地」だったといえるのでしょう。

そうなると最後に残った「水」の要素が気になりますが、

実は「水」は意外なところに存在していたのでした。


石文化

2019-10-28 09:28:23 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

ストーンサークルの名でも知られる

「環状列石(かんじょうれっせき)」は、

数メートルから数十メートルほどの石を、

円形に配置して作られた古代の遺構です。

一般的に、ストーンサークルは

「墓地」という説が有力ですが、

種類によっては石の下に墓が作られているものと、

作られていないものの二種類が存在することから、

すべてが「お墓」かどうかは一概に断言できないのだとか……。

200基を越える「お墓」が発見された、

こちらの大湯のストーンサークルに関しても、

「共同墓地」ではないかとの説が有力視されているものの、

はっきりとした目的はわかっていないようです。

 

ちなみに、ストーンサークルに相当する遺構は、

日本のみならず世界各地で見つかっており、

巨石を門の形に組み上げたイギリスの

ストーンヘンジなどはその筆頭だといえるでしょう。

また、以前記事にした徳島周辺の石柱文化に関しても、

ある意味「立石(りっせき)遺跡」の一種と考えられますし、

それらの土着的な風習を含めれば、

すでに縄文時代にはかなりの広範囲で、

「石文化」が日本を席巻していたことになりますね。