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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

銅鐸とヘビ

2020-08-27 09:36:02 | 古代の出雲

<一人女神社  ひとひめじんじゃ/ひとりめじんじゃ>

 

出雲一帯に伝わる「ワラヘビ祭礼」が、

古代イスラエルの「青銅のヘビ」

の影響を受けたものであるとすれば、

本来「ワラヘビ」というご神体は、

「青銅製」だったとも考えられるのでしょう。

出雲に残る「蛇信仰」の痕跡や、

大量に出土した「青銅器」の起源も、

「青銅のヘビ」を考慮することにより、

新たな示唆が得られるのかもしれません。

 

考えてみますと、銅鐸の形状とは、

蛇がトグロを巻いた

「円錐状(音を出す舌は蛇の舌、

鰭のギザギザ文様は蛇のウロコ)」とも言えますし、

ご神木に巻き付けられたワラヘビは、

「竿に括られた蛇」を彷彿させる姿です。

 

ワラヘビの材料となる「稲わら」が、

いつ頃から祭祀に使用されるように

なったのかはわかりませんが、

弥生時代の終焉に時を合わせるかのように、

「銅鐸」つまり「金属製のヘビ」が地中に埋められ、

その後まったく素材の異なる「ワラヘビ」として、

地上に復活することになった背景には、

稲作文化の広まりも関係していたのかもしれません。


蛇のモチーフ

2020-08-26 09:30:23 | 古代の出雲

<伝説の森公園 モーゼパーク>

 

昨日、モーゼとともにエジプトを

出発した古代イスラエルの民が、

「蛇」を信仰するきっかけとなった

エピソードをご紹介しました。

それらの内容から推測できるのは、

最初に作られた「蛇」は「青銅製」であり、

旗竿の先に括りつけられ、人々が下から

仰ぎ見るような形で崇拝されたということです。

 

もし仮に、モーゼ一行がこれらの信仰を携え、

日本にやってきたと想像するなら、

信州を中心に製造された

「蛇モチーフ」を用いた土製品、

あるいは出雲一帯に残る「ワラヘビ祭礼」

などにも影響を与えた可能性がありますね。

 

また、岩手や青森から出土した

縄文後期の土器の中には、

「蛇の骨」が入っていたものが

数例あるそうですから、

この時代には「蛇」が祭祀の重要アイテムとして、

東北各地にも普及していたのでしょう。

 

いずれにせよ、約4,000年前~3,500年前の縄文後期ごろ、

「蛇」と共に日本を目指してきた人々がいたこと、

そして彼らがこの時代の祭祀の核となる

「龍蛇信仰」を広めたことは間違いないようです。


青銅の蛇

2020-08-25 09:26:51 | 古代の出雲

<伝説の森公園 モーゼパーク>

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モーゼに導かれエジプトを発った
イスラエルの民たちが、
葦の海の途中までやってきたとき、
旅の苦しみに耐えかねた人々が、
神とモーゼに向かって不満をぶちまけた。
それを聞いた神は、民に向かって
炎のヘビ(毒蛇)を送り込んだため、
蛇にかまれた多くの人々が亡くなった。

民たちはモーゼの前で許しを願うと、
神はモーゼを通じて
「火のヘビを造り、それを竿の上に掛けよ。
ヘビにかまれた者が、それを仰ぎ見るならば
死なずにすむであろう」と告げ、
モーゼがその言葉通りに、
青銅でヘビを造って旗竿の先に掲げると、
イスラエルの民は生き延びることができた。

『民数記』21章4~9

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銅鐸と蛇との関わりについて考えているとき、

ふと頭に浮かんだのが『旧約聖書』

に登場する上記の物語でした。

「青銅の蛇(ネフシュタン)」と呼ばれる

これらのモチーフは、出エジプトの頃、

神の仕置きに対する救済策として、

ユダヤの民に与えられたものですが、

これらのエピソードから、

モーゼが存在していたとされる、

約4,000年前~3,500年前ごろには、

すでに「蛇」がユダヤ人の信仰対象

として崇められていたことがわかります。


謎の古代生物

2020-08-24 09:21:00 | 古代の出雲

<洲本市由良>

 

昨日ご紹介した、ワラヘビ行事を執り行う安住寺は、

「南あわじ市倭文安住寺」という地区にあるそうです。

「倭文」という地名を見て真っ先に思い出したのは、

阿波忌部ともつながる「倭文氏」と、

出雲のお隣・伯耆国の「倭文神社」でした。

 

また、「松帆銅鐸」が発見された場所が、

安住寺のごく近隣の瀬戸内海に

面した場所であることを踏まえれば、

当時、倭文地区に居住していた人々(忌部氏?)が、

何らかの形で銅鐸の製造や移動に関わり、

さらには出雲一帯とも強い結びつきを

持っていたイメージが浮かび上がりますね。

 

ちなみに、ざっと調べた限りではありますが、

淡路島内でワラヘビを用いるお祭りは数か所のみで、

他にも特出すべき「龍蛇信仰」

の形跡が見られないことから、

淡路のワラヘビ行事はこの地独自のものではなく、

出雲の人々によってもたらされたか、

あるいは「龍蛇族」が淡路島を経由する際、

「ワラヘビ」の文化を残したかのどちらかなのでしょう。

 

いずれにせよ、蛇という生き物は、

銅鐸や忌部氏そして麻などとも絡む、

「謎の古代生物」であることは確かなようです。


淡路のワラヘビ

2020-08-23 09:17:12 | 古代の出雲

<洲本市由良>

 

出雲の荒神谷遺跡、および加茂岩倉遺跡で

発掘された青銅器には、西日本一帯で

製造された銅鐸や銅矛が含まれていたそうです。

もし仮に、九州や近畿など近隣諸国から、

これらの青銅器が出雲に持ち込まれたとすれば、

その経緯とはどのようなものだったのでしょうか……。

 

ちなみに、以前の記事内で

「淡路島は渡来系部族の中継地」と書きましたが、

同じ鋳型の銅鐸が発見された「淡路」と「出雲」とが、

何らかの形でつながっていたとするなら、

恐らくそれらを主導していたのは

「渡来系」と呼ばれる人たちだったのかもしれません。

 

そこで、改めて淡路島について調べてみたところ、

実は南あわじ市の安住寺というお寺でも、

「蛇供養」と呼ばれるワラ製のヘビを

使ったお祭りが行われると聞きました。

 

何でも、稲ワラで作った長さ約12m、

胴回り約30cmの大蛇が、町内を練り歩きながら

人や車に巻き付くというこの行事は、

最後に主役であるワラヘビを

県道脇のムクノキに巻き付けて奉納するという、

出雲のワラヘビ祭礼を思わせるお祭りだったのです。


金属音の効果

2020-08-22 09:14:05 | 古代の出雲

<荒神谷博物館>

 

2015年に南あわじ市で見つかった、

「松帆銅鐸(まつほどうたく)」

と呼ばれる7つの銅鐸のうちの数点は、

荒神谷および加茂岩倉で出土した銅鐸と

同じ鋳型で造られた兄弟銅鐸であると聞きます。

松帆銅鐸が発見された際、銅鐸本体だけでなく、

「舌(ぜつ)」と呼ばれる青銅器を鳴らす棒や、

銅鐸を吊り下げるための紐なども同時に見つかり、

また「舌」の側面と銅鐸の内側は、

摩擦ですり減っていたことから、

銅鐸の主たる用途は「音を鳴らすこと」

だったのではないかという説が一般的です。

 

ちなみに以前、銅鐸のレプリカを

叩いたことがあるのですが、

音が鳴った瞬間「強制的に」意識を

切り替えられるような感覚に陥り、

非常に戸惑った経験がございます。

あたかも脳に突き刺さるような鋭い響きと、

めまいを誘発するかのような長い残響音が、

音に敏感なタイプの人間としては心身に堪えました。

恐らく、これらの特徴的な金属音を利用して、

神とのコンタクトを取ったり、

人々の意識をコントロールしたりすることが、

当時のシャーマンの大事な役目だったのでしょう。


青銅器の集結

2020-08-21 09:10:52 | 古代の出雲

<荒神谷博物館>

 

荒神谷遺跡から見つかった青銅器は、

弥生中期末から後期初頭(紀元1世紀)にかけて、

この地に埋められたと推定され、

出土した6個のうち5個は

畿内製であることが判明しています。

 

また、同時に発掘された銅矛16本は北部九州製、

358本の銅剣に関しては、

ほぼ出雲国で製造されたもので、

銅鐸と銅矛が同時に見つかるという現象はもちろん、

一か所の遺跡から三種類の青銅器が発掘されたのも、

ここ荒神谷遺跡だけなのだとか……。

 

さらには、荒神谷遺跡発見の12年後、

近隣の加茂岩倉遺跡から39個の銅鐸が見つかり、

古代のこの一帯を「大きな勢力」が

治めていた可能性が高まったのだそうです。

 

ちなみに、加茂岩倉遺跡で見つかった

39個の銅鐸に関しても、

出雲製とみられる3個を除き、

ほとんどが弥生中期に近畿地方で

造られたものであることから、

当時の出雲国が近隣国と頻繁に

交流していたことは間違いないのでしょう。

 

そうなりますと、これほどまでに多くの青銅器が、

西日本の各地からこの地に集まった理由とは、

いったい何だったのかが気になりますね。


銅鐸と塞ノ神

2020-08-20 09:07:34 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

一説に銅鐸とは、集落の境目に埋納することで、

「サイノカミ」的な役目を果たして

いたのではないかという話があります。

その主な理由としては、

銅鐸が主に集落外(山の斜面やその麓)

で見つかるケースが多いことや、

銅鐸出土地が等間隔に並ぶ地域

(鳥取や兵庫の一部)が存在すること

……などがあげられるそうですが、

もしそれが事実だとすれば、

三宝荒神の神庭だった「荒神谷」で、

大量の銅鐸が見つかった理由にも

思い当たる節が出てきますね。

 

ちなみに、荒神谷遺跡の一帯に、

約5,000年前(縄文海進が起きた頃)

の出雲の地形図を重ね合わせますと、

大量の青銅器が埋められた場所や

三宝荒神の鎮座地は、

当時の海岸線(もしくは湿地帯の端)

のギリギリのところでした。

つまり、荒神谷遺跡のある場所は、

縄文時代より「海と陸との境」に位置する、

「特殊なポイント」だったことが見て取れるのです。

 

「サイノカミ」の祠や石はもちろん、

古くは「甕(みか・かめ)」などの製品が、

村や国の境界に置かれたり埋められたりしました。

もしかすると青銅器、

特に甕と同じく空洞のある銅鐸は、

ある種の「サイノカミ」と同等の

働きを持つ埋納品だったのかもしれません。


土偶の代替品

2020-08-19 09:01:07 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館> 

 

 昨日、「銅鐸は簡易的な方法で埋納される」

という話を取り上げましたが、

実は銅鐸が発見される際、

通常の横たわった状態以外にも、

逆さまに埋められたり、

破壊されて埋められたり……といった具合に、

様々なバリエーションが見られるそうです

(ただし数は少なめ)。

 

これらを元に推測するなら、

やはり銅鐸は土偶と同様、

「時と場合に応じて用途を変えながら」

使用された可能性も出てきますね。

 

もしかすると、爆発的な人口増加を起こした

弥生時代の西日本で、渡来人の技術と知識を元に、

「土偶の代替品」として製造されたのが、

銅鐸だったのでしょうか……。

 

もしそうだとすれば、銅鐸の出土数が少ない

関東近辺から北日本にかけての人々は、

縄文人が土偶を手放したときのように、

銅鐸を「偶像」とみなして避けようと

していたのかもしれません。

 

いずれにせよ、縄文時代の終わりに

突如として製造が止まった土偶も、

弥生時代の終わりに突如として

地中に埋められた銅鐸も、

「祭祀のあり方」への強い抵抗感により、

その姿を消したとは考えられないでしょうか……。


銅鐸の埋納

2020-08-18 09:42:29 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

弥生時代に製造された、釣り鐘型の青銅器である

銅鐸(どうたく)は、当初は持ち運びが

できるほどのサイズだったそうですが、

時代を経るにつれ次第に巨大化し、

描かれる絵画や装飾なども

派手になって行ったと聞きます。

そして、弥生時代が終わり古墳時代に入ると、

まるでその痕跡を地上から消し去るかのように、

すべての銅鐸が地中に埋められてしまったのだとか……。

 

ちなみに、銅鐸が見つかるのは、

集落から離れた山の斜面のような所が多く、

祭祀のための特別な処置を施した様子も見られず、

「とりあえず土をかけて埋めた」

ような状態で出土するケースがほとんどだそうです。

これらの話を聞いて思い出したのは「土偶」でした。

 

同じ「祭祀の道具」であっても、明らかに

「何らかの意図を持って」埋められた土偶とは違い、

銅鐸におけるこれらの「埋納法」は

どことなくおざなりのようにも感じられます。

もし仮に、銅鐸の埋め方が想像以上に

「簡易的」だったとするならば、その背後には

どのような理由が隠されていたのでしょうか……。


出雲と諏訪

2020-08-17 09:39:18 | 古代の出雲

<佐支多神社 さきたじんじゃ>

 

以前の記事内で、「荒神谷遺跡の周囲には、

タケミナカタを祀る神社が集中する」

という話をご紹介しましたが、

その後も折を見て調べてみたものの、

タケミナカタを祭祀した理由などはわからず……。

ただし、「タケミナカタ」という存在が、

『日本書紀』だけでなく、『出雲国風土記』など

出雲国に関わる神話からも消されてしまった、

という事実を踏まえると、「出雲」と「諏訪」

の間で史実に残らない、「何らかの出来事」

が発生していた可能性もあるのでしょう。

 

ちなみに、タケミナカタの本拠地である

「諏訪」の一帯では、出雲を象徴する祭祀具

として知られる「銅鐸」がほぼ出土せず、

代わりに銅鐸に良く似た「鉄鐸(さなぎ)」

と呼ばれる道具が見つかるそうです。

もし仮に、タケミナカタが出雲の出だと仮定すれば、

諏訪地方で「銅鐸」が多数出土していても

不思議ではないはずですが、どういうわけか

諏訪には「銅鐸文化」が広がらなかったのでした。


三宝荒神

2020-08-16 09:35:45 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

荒神谷遺跡という名前の由来になった

「三宝荒神」は、遺跡のある場所から

道路を挟んで南東部のあたりに位置しています。

残念ながら出雲ツアーの際には、

こちらの荒神様に立ち寄ることはできなかったため、

家に帰ってから調べてみたところ、

ご祭神はスサノオ、大地主命(オオトコヌシ)、

建見名方命(タケミナカタ)の三柱で、

祭礼の日にはやはり「ワラヘビ」

の祭祀が行われるとのことでした。

 

以前ご紹介した、『古語拾遺』の

「大歳神(御年神・大地主命)」の逸話に

示されるように、スサノオの化身と

目される「大歳神」と「大地主命」は、

荒神祭祀のカギを握る神々ですから、

ご祭神として名前が登場することは

不思議ではありませんが、こちらの三宝荒神では、

二柱の神プラス「タケミナカタ」が登場するのが、

意味深と言えば意味深かもしれません。

 

ちなみに、「タケミナカタ」という神は、

出雲の国譲りの際にタケミカヅチとの争いに敗れ、

諏訪に逃れたとされる諏訪大社の主祭神です。

そのような経緯も影響してか、

出雲一帯で「タケミナカタ」を祀る神社は少なく、

また『出雲国風土記』など出雲国の伝承にも

その名は記されておりませんでした。


荒神の神庭

2020-08-15 09:32:35 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

昨日の記事で、荒神谷遺跡の

「荒神谷」という名称に関して、

遺跡が発見された場所が「神庭」であることから、

「神庭荒神谷という名称のほうが相応しいのではないか」

との意見があると記しました。

まあ、どちらが適切かかは素人にはわかりませんが、

個人的なイメージとしては、この一帯が古くは

「荒神」を祀る「神庭」であったことは事実で、

のちに何らかの理由で大量の青銅器を埋める、

「埋納の場」として選ばれた様子が思い浮かぶのです。

 

近隣の人々の間に、「遺跡の周辺は近寄ってはならない」

という口伝が残っていることなどを踏まえれば、

「祟りを成す荒神」の鎮座地だからこそ、

「青銅器の宝物」が埋められたと考えても

不自然ではないのでしょう。

つまり、荒神谷遺跡という場所は、

「青銅器の宝物」が埋まっているが

ゆえに守られてきたと同時に、

もともと斎場であったために、

「青銅器の宝物」が守りやすかった

という側面もあるのかもしれません。


出雲の荒神

2020-08-14 09:28:57 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

***** 古代の出雲3 *****

「出雲の荒神」と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、

358本もの大量の銅剣、6個の銅鐸、

16本の銅矛が出土した「荒神谷遺跡」かもしれません。

何でも、近隣の広域農道建設に伴う調査の最中、

担当者が田のあぜ道で一片の土器

(古墳時代の須恵器)を拾ったことが、

貴重な弥生遺跡の発見につながったそうですが、

今なおそれらの青銅器が、

「いつどこで造られたか」

「誰が何のために使ったか」

「なぜ埋められてしまったのか」

などの疑問に関しては、何ひとつとして

明確な答えが出ていないと聞きます。

 

ちなみに、出土した場所は

「出雲市斐川町神庭西谷」にある細長い谷でして、

荒神谷という名称は遺跡近くに祀られていた

「三宝荒神」にちなんで名付けられたのだとか……。

「神庭」とは神祭りの場を指し、「西谷」とは

「斎谷」であり先祖を祀る斎場を意味します。

ゆえに、本来は「神庭荒神谷」と呼ぶほうが適切であり、

「荒神谷」という表記には少なからず

反対意見もあるという話も耳にしました。


蝶から生まれた兄弟

2020-08-13 09:19:41 | 古代の出雲

<大神山神社 おおがみやまじんじゃ>

 

出雲のお隣・伯耆国(ほうきこく)

の語源を探って行きますと、

「水」「蛇」「蛇神」……など、

すべてが「蛇」と関連することに気づきます。

つまり、この地には何らかの形で

「蛇」や「龍」を神と崇める人々が関わり、

ワラヘビなどの民間信仰だけでなく、

国の名称になるほど強い影響を与えていたのでしょう。

 

もしかすると、様々なトーテムを拝む

「ミャオ族」などの大陸人、

あるいは様々なトーテムを携えた

古代イスラエル氏族の中でも、

主に「蛇」や「龍」をシンボルとする一族が、

縄文時代を中心として出雲や

伯耆一帯にやってきたのかもしれません。

そして、弥生時代に入ると、

それに追従するかのように渡来した

「牛」と縁する一族が、「殺牛祭祀」

の痕跡が残る播磨や但馬のあたりに

住みついたとも考えられますね。

 

もしかすると、彼らの多くが

「スサノオ信仰」の持ち主であったため、

「龍蛇族」も「牛族」も、一緒くたに

「スサノオ」として描写されたことが、

古代神話の解読を困難にしてしまったのでしょうか……。

いずれにせよ、「龍蛇族」と「牛族」の違いというのは、

古代イスラエル氏族の部族の違いであり、

元をたどればまさしく「蝶から生まれた兄弟」

だったような気が個人的にはするのです。