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たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

あやつこ

2020-09-11 09:40:53 | 古代の出雲

<洲本市由良>

 

「荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」

で発見された青銅器の「×」の刻印について、

「358」という数字に注目をしながら、

あれこれとイメージを広げてまいりましたが、

実はもうひとつ気になる「×」

の謎を解くカギがありました。

 

それは、荒神信仰とも深い関わりと持つとされる、

「あやつこ(綾子/阿也都古)」という民間習俗でして、

東北地方ではヤスコ/ヤチコ、

淡路島ではヤッコなどと呼び、

京都、奈良、滋賀、大阪、埼玉、茨城……を中心に、

現在も一部の地域で行われているといいます。

 

ちなみに、「あやつこ」と申しますのは、

子供がお宮参りをする際、

鍋墨や紅などで額に「犬」や「×」、

もしくは「大」や「小」など

の文字を書く風習のことで、

何でもこの印には悪魔除けの意味があり、

額にこれらの文字を書いた子供は、

家の荒神様の庇護を受けている証とされ、

悪いものが近寄ってこないのだとか……。

基本的には鍋墨で「×」を記すことが多く、

「大」や「犬」などの漢字を使うのは、

近年になってからという話も聞きました。


神を示す数字

2020-09-10 09:37:18 | 古代の出雲

<神原神社 かんばらじんじゃ>

 

以前の記事内でもたびたび指摘しておりますように、

出雲の加茂岩倉遺跡の「岩倉」とは「磐座」のことで、

ヘブライ語で「神の居る場所」という意味の言葉です。

荒神谷・加茂岩倉の両遺跡から発掘された青銅器には、

合計で358個もの「×」印が刻まれており、

これを「35」と「8」とに分けてみると、

どちらも「35(アナナイ/アドナイ)」

「8(ヤ/ヤハウェ)」といった具合に、

ユダヤの神を意味する数字が表れてきますね。

つまり、「358」という一見意味不明な数字には、

「神」というキーワードがダブルで潜んでいたわけです。

 

また、荒神谷遺跡から出土した銅矛は、

「8」の倍数である「16個」ですから、

こちらも「ヤ」の重なりと捉えても間違いではなく、

同じく荒神谷遺跡で見つかった6個の銅鐸と、

加茂岩倉遺跡で見つかった39個の銅鐸も、

重ね合わせると「369」という、

「宇宙の法則」や「ミロク(弥勒)の世」

につながる数が浮かび上がります。

 

とまあ、あまり数字に固執すると

切りがありませんのでこの辺にしますが、

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で祀られていたのは、

古代ユダヤのヤハウェに通じる神だったと考えれば、

当時この地で繰り広げられていた

日本とイスラエルとの交流の様子が、

ありありと目に浮かぶような

気がするのは単なる思い込みでしょうか……。


大神の御財

2020-09-09 09:34:15 | 古代の出雲

<神原神社 かんばらじんじゃ>

 

加茂岩倉遺跡の近隣住民の間では、

「大みそかの日になると

岩の中にいる金の鶏が鳴き、

その鳴き声を聞いた人は幸福になる」

という、いわゆる「金鶏伝承(長者伝説)」

が伝えられているそうです。

これらの話は「ここにはお宝(主に鉱物系)

が眠っているぞ」という一種の暗号ですから、

昨日ご紹介した神原の郷に伝わる「大神の御財」と、

神原村の長者が岩窟に治めた「宝」とは、

加茂岩倉遺跡に埋納された

「銅鐸」だった可能性も出てきますね。

 

一方、「大神の御財」を積み置いたとされる

神原神社の床下からも、景初三年(西暦239年)

と記された三角縁心神獣鏡が出土し、

『魏志倭人伝』に記された卑弥呼の鏡

ではないかという噂が囁かれているのだとか……。

いずれにせよ、この一帯に弥生時代から

古墳時代にかけての「お宝」が埋められ、

ある一族の手で守られていた様子が、

これらの伝承と出土品からも伺えるのでした。


神原神社

2020-09-08 09:30:54 | 古代の出雲

<神原神社 かんばらじんじゃ>

 

改めて「荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」

という二つの遺跡周辺の地図を眺めてみますと、

やはり気になるのは近隣を流れる斐伊川と、

「八本杉」を始めとするヤマタノオロチの伝承群です。

 

仮に、ヤマタノオロチが斐伊川を遡って、

「砂鉄の聖地」へ立ち入ろうとしたなら、

この場所で対峙した「スサノオ部隊」とは、

荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡とも

縁する人々だったのかもしれません。

 

ちなみに、荒神谷遺跡の近くに「三宝荒神」が

祀られていたように、加茂岩倉遺跡の南には

「神原神社(かんばらじんじゃ)」という古社が存在し、

加茂岩倉遺跡とも深い関わりを持つと聞きます。

 

そして、この神原神社が鎮座する

神原の郷(かむはらのさと)には、

「大神の御財を積み置いた処である。

従って、本来は神財(かむたから)

の郷というべきところを、

今の人は間違って神原の郷という」

といった『出雲国風土記』の伝承が残っていました。

 

さらに別の文献には、

「神原村の長者が此窟(岩窟)を宝蔵としたため、

名を岩倉というようになった」

との話が伝わっているのです。


何らかの儀式

2020-09-07 07:27:32 | 古代の出雲

<荒神谷博物館>

 

「荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」

という出雲を代表する二つの遺跡が、

「×」印の謎を共有する「ひとつの共同体」

であったとするならば、

それらを管理していたのは、

いったいどのような人々だったのでしょうか……。

そして、両遺跡から出土した青銅器の「×」印には、

いったいどのようなメッセージが

込められていたのでしょうか……。

 

本来であれば、このあたりで加茂岩倉遺跡に立ち寄り、

詳しい出土状況などを確認しておきたいところですが、

いかんせんスケジュールの都合で、

加茂岩倉遺跡への探索時間が取れなかったため、

写真が掲載できないことをあらかじめご了承ください。

 

ちなみに、「×」が刻印された青銅器が発見されたのは、

全国的に見てもこの二つの遺跡だけだそうで、

「青銅器の×印」が青銅器文化圏全域の

基本ルールではなく、この一帯のみで行われた

「何らかの儀式」だったことは間違いないようです。

となると、これらの青銅器が登場した弥生時代、

この地で何が起こっていたかのかが、

「×」印の謎を解くカギとなるのかもしれません。


強いメッセージ

2020-09-06 09:24:35 | 古代の出雲

<荒神谷博物館>

 

直線距離にしておよそ3,4km、

「荒神谷遺跡」と「加茂岩倉遺跡」は、

隣接するエリア内で発見された、

「古代出雲」を象徴する弥生遺産です。

 

これらの二つの遺跡を結ぶ「物証」が、

「×」印の刻印された青銅器

であることは異論のないところですが、

もともと両遺跡は緊密な連携を

保っていたともいわれており、

遺跡と遺跡の間には尾根伝いの山道も存在し、

直接行き来することが可能なのだとか……。

 

ちなみに、荒神谷遺跡で発見された

358本の銅剣のうち、「×」印が

刻まれていたのは「344本」でして、

同じく加茂岩倉遺跡の銅鐸に関しては、

39個のうちの「14個」に「×」印が

刻まれていたと聞きます。

 

つまり、「×」印が刻まれた

銅剣の344と銅鐸14を足すと、

再び「358」という数字が表れるわけで、

これらの青銅器を埋納した人々が、

「358」という数字に強いメッセージを

込めていたことがわかるでしょう。

 

もしかすると「荒神谷遺跡」と

「加茂岩倉遺跡」は別の遺跡ではなく、

「同じ一族が管理するひとつの遺跡だった」

という捉え方もできるのかもしれません。


「35」と「8」

2020-09-05 09:21:31 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

荒神谷遺跡で発掘された「358本」

という銅剣の数については、

古今東西様々な憶測が飛び交っておりますが、

これまで考察した「古代の出雲」の光景に、

「358」という数字を重ね合わせてみると、

浮き上がってきたのは「35」

と「8」の組み合わせでした。

 

以前、「縄文」をテーマにした

記事内でもご紹介したように、

「35」という数字は「アナナイ/アドナイ」

とも呼ばれるユダヤの聖数でして、

また「8」という数字は言わずと知れた

「龍蛇族」のシンボルです。

つまり、「358」という数字は、

縄文中期~後期頃に「出雲」と関わっていた人々と、

深く縁するナンバーだったといえるのですね。

 

ちなみに、銅剣と共に埋納されていた銅鐸6個、

銅矛16個のうち、銅矛の16個に関しては、

「8」の倍数を意識したのでは?という指摘があります。

果たして、「358」とは「35と8」の暗示なのか、

もしくはまったく別の意図が潜む数字なのか……。

それらの疑問へのヒントを探すべく、

荒神谷遺跡発見の翌年発見された、

加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸についても

調べてみることにしましょう。


意味深な数

2020-09-04 09:18:07 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

一説に、出雲の荒神谷遺跡で

発掘された358本の銅剣は、

『出雲国風土記』に記載された神社の数

(もしくは出雲の式内社数)と

関連するのではないかという話があります。

 

何でも、出雲国にはもともと

399の神社があったそうで、

358本という数は埋められた時点での

神社の総数ではないかとのこと……。

 

また、出土の際に銅剣が「四列」

に並べられていたことから、

それぞれの列は出雲国の4つの地域に相当し、

各地域の人たちが荒神谷でお祭りをする際、

銅剣を持ち寄って保管した可能性もあると聞きます。

 

まあ、それらの真偽はともかくとして、

私自身のアンテナに引っ掛かったのは、

「358」という銅剣の本数、

および同時に発見された銅鐸6個、銅矛16本という、

これまた意味深な数字に関する疑問でした。

 

私たちが想像する以上に、古代の人々が

「数」を重要視していたことを踏まえれば、

「8」や「7」への強いこだわりを持つ出雲人が、

聖なる荒神の地に大切な祭器を、

「適当な数だけ」埋めたとは思えなかったのですね。


「×」印の謎

2020-09-03 09:15:37 | 古代の出雲

 

<荒神谷遺跡>

 

 荒神谷遺跡遺跡出土の銅剣、

および加茂岩倉遺跡の銅鐸に刻印された、

「×」印の謎については、

プロアマ問わず多くの古代史ファンの間で、

様々な議論が取り沙汰されております。

例えば、

1. 封印のまじない
2. 部族のシンボル
3. 魔除けの文様
4. 使用済みの目印
5. 実用品でない証
6. 男女交合のマーク
7. 特定の人物の暗示
8. 特に意味はない ……等々、

まるでミステリー小説の暗号を解くかのように、

多様な説が書籍やネット上にあふれておりますが、

かく言う私も、あれこれ想像してはみたものの、

未だに「これ」という答えは出ておらず……。

 

あくまでも、現時点での「気になる点」

として思い浮かんだのは、荒神谷遺跡と

加茂岩倉遺跡で出土した「青銅器」の数、

そして「荒神信仰」と「古代イスラエル」

に関わる民間習俗でした。


不可解な事実

2020-09-02 09:29:52 | 古代の出雲

<荒神谷遺跡>

 

1984年、荒神谷遺跡から、

国内の総出土数を上回る銅剣358本、

さらには銅鐸6個と銅矛16本が

セットで見つかったことで、

それまで「神話の中の出来事」

と軽視されていた「出雲王国」の存在に、

改めてスポットライトが当たりました。

 

しかし、一部の考古学者(主に関西系)の間では、

「出雲に大量の青銅器を造る力はなく、
大和の勢力が支配圏の最西端
にあたる出雲に青銅器を埋め、
外敵の侵入を防ぐために祭祀を行った
【萌える日本史講座~産経WEST】」

という説も根強く残り、

出雲研究者を中心とする「出雲王国派」と、

関西の学者を中心とする「大和主導派」との間で、

今なお議論が続けられていると聞きます。

 

そして、大量の青銅器の出土もさることながら、

専門家(および古代史マニア)たちの頭を

悩ませているのが、荒神谷遺跡出土の銅剣

(および加茂岩倉遺跡の銅鐸)の中に、

小さな「×」印が刻印されたものが

多数含まれていたという不可解な事実でした。


円錐形の装飾

2020-09-01 09:59:36 | 古代の出雲

<三内丸山遺跡・縄文時遊館>

 

蛇を模したとされる「円錐型」の装飾や自然物は、

私たちの身近なところにもたくさんあり、

三輪山に代表される三角形の山などは、

ずばり「蛇」を象徴する自然物だといえます。

 

さらには、ご神体の山を模した「円錐型の砂山」や、

社殿の手すりや橋の欄干などに

据え付けられた「擬宝珠(ぎぼし)」なども、

恐らくは「蛇」を表す装飾なのでしょう。

 

これらの「円錐形のモノ」は、

古代より「蛇」という生き物が、

日本人の生活や信仰に深く関わって

来たことを教えてくれるのですね。

 

ちなみに以前、大田市の韓神新羅神社に

関する記事の中で、正月行事に使う

「グロ」と呼ばれる小屋についてご紹介しましたが、

「グロ」というのはつまり「トグロ」のことで、

縄文時代の竪穴式住居にも円錐型のものが見られます。

 

一説に、これらの建物は「蛇の胎内」

を疑似化した空間だそうで、日本神話において

「トヨタマヒメが未完成の産屋の中で

大蛇(サメ・龍)となって出産した」

というエピソードなども、「蛇」と「生命」、

そして「蛇」と「空間」との関係を示す、

興味深い話のひとつかもしれません。


光る銅鐸

2020-08-31 09:57:09 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

私たちが通常目にする「銅鐸」は、

酸化のため緑青色をしているものがほとんどです。

ただし、本来銅鐸というのは、

黄金色や白銀色の光沢を纏った

ピカピカの金属製品でして、

実際に「当時」の銅鐸を目の当たりにすると、

その眩いばかりの輝きに圧倒されるかもしれません。

 

もし仮に、古代イスラエルの人々が、

キラキラと輝く「青銅の蛇」を帆先に掲げ、

海を渡って日本にやって来たと想像するなら、

出雲国の神有祭やホーランエンヤ、

あるいは能登国の龍燈伝説や

キリコ祭りなどに登場する、

「蛇」や「龍」を模した灯りや装飾は、

海の彼方から近づいてくる渡来人を

イメージしているようにも感じられますね。

 

ちなみに、先日の記事の中で、

長江周辺から海を渡って来日した「龍蛇族」が、

出雲一帯に「蛇」の信仰を広めたのではないか

と推測しましたが、もしかすると

彼らが先導していた人々こそが、

古代イスラエル氏族であり

モーゼ一行だった可能性もありそうです。


金色の宝珠

2020-08-30 09:53:54 | 古代の出雲

<ホーランエンヤ伝承館>

 

『旧約聖書』に記された、

「青銅の蛇」のモチーフを見て思い浮んだのは、

先日記事にした松江市の

「ホーランエンヤ」という祭事のことでした。

ホーランエンヤで使用される船には、

「金色の宝珠」付きのポールが掲げられており、

一説には「神武東征」を表すシンボル

ではないかという話があるのです。

もし、これが事実だとするなら、

金色の宝珠は「金鶏」を模した装飾で、

トビやタカなどの猛禽類を

表した可能性が高いのでしょう。

 

しかしながら、あの先の尖った

宝珠独特のフォルムを眺めておりますと、

鳥よりも「トグロを巻いた蛇」と

表現したほうがしっくりくるのも事実でして、

個人的には「金色の火の玉」とも称される、

神有祭のご神体・セグロウミヘビを

重ね合わせてしまいます。

恐らく、古代の出雲人の目には、

「青銅の蛇」を掲げて海を渡る

古代イスラエルの人々が、

夜の海を自在に泳ぎ回る、

金色のセグロウミヘビのように

見えたのかもしれません。


銅鐸文化の終焉

2020-08-29 09:48:05 | 古代の出雲

<国立歴史民俗博物館>

 

大部分の銅鐸が「横倒し」のまま見つかる中、

時折「木っ端みじん」になった状態で、

出土する銅鐸があるそうです。

神の依り代でもある祭器(しかもかなりの強度)を、

わざわざ粉々にして埋めた理由はいざ知らず、

このような傾向が強いのは、

主に弥生時代終盤なのだとか……。

つまり、銅鐸という青銅器が消滅する直前、

何らかの理由により銅鐸が破壊され、

地中に埋められた経緯が読み取れるのですね。

 

ちなみに、銅鐸製造地のひとつである

三河遠江あたりの遺跡には、

銅鐸文化が終焉を迎える頃、

不自然なほど多くの銅鐸が造られていた

形跡が見られるといいます。

仮に、そのときすでに人々の間で、

銅鐸が「偶像対象」に変わっていたとするならば、

ヒゼキヤ王により壊された「青銅の蛇」と同様、

銅鐸も粉々に砕かれてしまったのでしょうか……。

 

もしかすると、「偶像」を神として崇める

「人間の懲りない性(さが)」が、

縄文時代の「土偶の終焉」をなぞるように、

ひとつの時代を終わらせる

きっかけを作ったのかもしれません。


打ち砕かれた蛇

2020-08-28 09:43:09 | 古代の出雲

<劔神社 つるぎじんじゃ>

 

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「青銅の蛇」は、イスラエルの民にとって
極めて重要なものとして保管され、
民はその前で香を焚き(崇拝し)続けた。
南ユダ国の王となったヒゼキヤは、
その様子を見て不満を募らせ、
聖なる高台を取り除き、石柱を打ち壊し、
アシェラの像を切り倒したあげく、
モーゼの造った青銅の蛇をも打ち砕いた。

~『列王記』第二 18章4

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本来「青銅の蛇」は、イスラエルの民の

「信仰心の現れ」として、

神から授けられたモチーフだったにも関わらず、

いつの間にかそれ自体が「祈りの対象」となり、

神が固く禁じた「偶像崇拝」

を再燃させる結果になった、

と『旧約聖書』は示します。

 

そのため、神の言葉に従順だったヒゼキヤ王は、

「青銅の蛇」を破壊し、神殿を清めて

過越の祭りを復活させたのだとか……。

つまり、「青銅の蛇」は一部の「土偶」と同じように、

「偶像」として人々から拝まれる対象となり、

その風潮を危惧したユダヤの王の手で、

「蛇」は粉々に打ち砕かれてしまった

様子が伺えるのですね。