<荒神谷遺跡>
一説に銅鐸とは、集落の境目に埋納することで、
「サイノカミ」的な役目を果たして
いたのではないかという話があります。
その主な理由としては、
銅鐸が主に集落外(山の斜面やその麓)
で見つかるケースが多いことや、
銅鐸出土地が等間隔に並ぶ地域
(鳥取や兵庫の一部)が存在すること
……などがあげられるそうですが、
もしそれが事実だとすれば、
三宝荒神の神庭だった「荒神谷」で、
大量の銅鐸が見つかった理由にも
思い当たる節が出てきますね。
ちなみに、荒神谷遺跡の一帯に、
約5,000年前(縄文海進が起きた頃)
の出雲の地形図を重ね合わせますと、
大量の青銅器が埋められた場所や
三宝荒神の鎮座地は、
当時の海岸線(もしくは湿地帯の端)
のギリギリのところでした。
つまり、荒神谷遺跡のある場所は、
縄文時代より「海と陸との境」に位置する、
「特殊なポイント」だったことが見て取れるのです。
「サイノカミ」の祠や石はもちろん、
古くは「甕(みか・かめ)」などの製品が、
村や国の境界に置かれたり埋められたりしました。
もしかすると青銅器、
特に甕と同じく空洞のある銅鐸は、
ある種の「サイノカミ」と同等の
働きを持つ埋納品だったのかもしれません。