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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 欽若、真宗に取り入る。

2015-02-17 10:00:00 | 十八史略
上既入欽若之言、數問欽若、何以刷恥。欽若知上厭用兵、謬曰、取幽・薊乃可。上、令思其次。乃請封禪當以鎭服四海、誇示夷狄。又言、封禪當得天瑞。前代有以人力爲之。河圖・洛書果有此邪。聖人以神道設教耳。於是自大中符以來、數有天書降。東封泰山、西祀后土於汾陰。又有趙氏祖久天司命天尊降。天下立天慶觀、置聖祖殿、諱聖祖名玄朗、京師作玉昭應宮。旦不能止其事。

上(しょう)既に欽若の言を入れ、数しば欽若に問う「何を以って恥を刷(ぬぐ)わん」と。欽若、上の兵を用うるを厭うを知り、謬(いつわ)って曰く「幽・薊を取らば乃ち可なり」と。上、其の次を思わしむ、乃ち「封禅(ほうぜん)して以って四海を鎮服(ちんぷく)し、夷狄に誇示せん」と。又言う「封禅は当(まさ)に天瑞を得(う)べし。前代、人力を以って之を為す有り。河図・洛書、果たして此れ有らんや。聖人、神道を以って教えを設けしのみ」と。是(ここ)に於いて、大中符より以来、数しば天書有りて降る。東のかた泰山、西のかた后土(こうど)を汾陰(ふんいん)を祀る。又、趙氏の祖、九天司命天尊有って降る。天下に天慶観(てんけいかん)を立て、聖祖殿を置き、聖祖の名玄朗を諱(いみ)、京師に玉清昭応宮を作る。旦も其の事を止(とど)むる能わず。

恥 前出、「城下の盟は、春秋の小国も恥ずる所なり」。 封禅 封は泰山の頂きに天を祀り、禅はその麓に山川をまつる祭祀。 天瑞 天の下した霊験。 河図洛書 古代黄河から出た竜馬の巻き毛を写した図と、洛水で神亀の背の文様。 神道 人知では及ばない不思議な法則。 大中符 年号、1008年~16年の間。 后土 土地の神。 汾陰 汾水(山西省)の南。 天慶観 楼閣の名。 

真宗は冦準罷免の後、宰相欽若の言葉を信任して、しばしば欽若に「どうしたら澶州の恥辱を拭うことができようか」と下問した。欽若は帝が戦争を避けていることを見抜いて、「幽州と薊州を取り返すのがよいでしょう」と言うと、帝は次の策を考えよと命じた。欽若は「それでは封禅の祀りをされたら良いでしょう」と答え、さらに「封禅は天の下した霊験を得て行なうもで、古代の天子の中にも人為でこれを為したこともございます。あの河図や洛書が果たして実存したとお考えですか。それは聖人が神のしわざにこと寄せて作り出したものに相違ありません」と申し上げた。かくて大中符以後しばしば天より書き物が降ってきたとして、東は泰山に天の神を祀り、西のかた汾水の南に地の神を祀った。また宋朝創始趙氏の先祖とした九天司命天尊が降臨したと称して各地に天慶観という楼閣を建てて聖祖殿を設け、聖祖の名である玄朗の二字を忌み、使用を禁じた。また京師に玉清昭応宮を作った。
宰相の王旦もこの愚行を止めることができなかった。


唐宗八家文 柳宗元 (五) 袁家渇記

2015-02-14 10:00:00 | 唐宋八家文
由冉溪西南、水行十里、山水之可取者五、莫若鈷潭。由溪口而西、陸行可取者八九、莫若西山。由朝陽巖東南、水行至蕪江、可取者三、莫若袁家渇。皆永中幽麗奇處也。 楚越之方言、謂水之支流者爲渇。音若衣褐之褐。渇上與南高嶂合、下與百家瀬合。其中重洲小溪、澄潭淺渚、廁曲折。平者深墨、峻者沸白舟行若窮、忽又無際。有小山出水中。山皆美石、上生叢。冬夏常蔚然。其旁多嚴洞、其下多白礫。其樹多楓・枏・石楠・楩・櫧・樟・柚。草則蘭芷、又有異卉。類合歡而蔓生、轇轕水石。毎風自四山而下、振動大木、掩苒衆草。紛紅駭緑、蓊葧香氣。衝濤旋瀬、退貯谿谷、揺颺葳蕤、與時推移。其大都如此。余無以窮其状。永之人未嘗游焉。余得之、不敢專也。出而傳於世。其地世主袁氏、故以名焉。

冉渓(ぜんけい)より西南に水行十里にして、山水の取るべきもの五、鈷潭に若(し)くは莫し。渓口よりして西に陸行して取るべきもの八九、西山に若くは莫し。朝陽巌より東南に水行して蕪江(ぶこう)に至る。取るべきもの三、袁家渇に若くは莫し。皆永中幽麗の奇処なり。楚越の間の方言に水の支流なるものを謂いて渇と為す。音は衣褐の褐の若し。渇の上(かみ)は南館の高嶂(こうしょう)と合し、下(しも)は百家瀬(ひゃっからい)と合す。その中、重洲小渓、澄潭浅渚(ちょうたんせんしょ)、間廁(かんし)し曲折す。平らかなるものは深墨(しんぼく)、峻(けわし)きものは沸白(ふつはく)、舟行窮まるが若くして、忽ちまた際(はて)無し。小川有りて水中より出ず。山皆美石にして、上に青叢(せいそう)を生ず。冬夏常に蔚然(うつぜん)たり。その旁(かたわら)に巌洞(がんどう)多く、その下に白礫(はくれき)多し。その樹には楓(ふう)・枏(だん)・石楠(せきなん)・楩(べん)・櫧(しょ)・樟(しょう)・柚(ゆう)多し。草は則ち蘭芷(らんし)、また異卉(いき)有り。合歓(ごうかん)に類して蔓生(まんせい)し、水石に轇轕(こうかつ)せり。 
風四山よりして下る毎に大木を振動い、衆草を掩苒(えんぜん)す。紛紅駭緑(ふんこうがいりょく)、蓊葧(おうぼつ)して香気あり。衝濤旋瀬(しょうとうせんらい)、退いて谿谷に貯え、葳蕤(いすい)を揺颺(ようよう)して、時と与(とも)に推移す。その大都(おおむね)此(かく)の如し。余以ってその状を窮むる無し。永の人未だ嘗て遊ばず。余これを得て、敢て専らにせず。出して世に伝う。その地世々袁氏を主とす。故に以って名づく。


支流 反流とするテキストもある。 高嶂 高い峰。 間廁 混じる。沸白 白く沸き立つ。 蔚然 草木の繁るさま。 枏 ゆずりは。 石楠 しゃくなげ。 楩 くすの木に似た喬木。 櫧 かし。 樟 くす。 柚 ゆず。 蘭芷 蘭とよろいぐさ。 異卉 珍しい草花。 合歓 ねむ。 轇轕 蔽いまつわる。 掩苒 おおいしげる。 紛紅駭緑 乱れる花、さわぐ葉。 蓊葧 さかんなさま。 衝濤旋瀬 突き当たる波と渦巻く瀬。 葳蕤 草木の盛んなさま。 揺颺揺り動かす。

袁家渇の記
 冉渓から西南に水上を行くこと十里の間に山水の見るべきところ五カ所だが、鈷潭に勝るものは無い。渓の入り口から西に陸路を取って見るべき所は八、九カ所あるが西山に勝るものは無い。朝陽巌から東南に水路をたどると蕪江に着く、その間に見所は三つだが、袁家渇が最もよろしい。皆永州の中で奥深く美しい所である。
 楚や越の方言で川の支流となっているものを渇という。音は衣褐の褐と同じである。渇の上流は南館の高い峰に発し、下流は百家瀬に合流する。その間には重なる洲、小さな渓谷、澄みきった淵、や渚が入り混じり折れ曲がっている。なだらかなところは深い墨色、早瀬は白く沸き立って見え、舟で行きどまりかと見えて、たちまち果てしなく続く。
 小さな山が流れの中に突き出ている。山は全て美しい岩で、上に草を生やしている。それは冬も夏も青々と茂り、その傍らに洞穴が多く、下には白い小石が敷き詰められている。あたりの樹木は、かえで・ゆずりは。しゃくなげ・くす・かし・くす・ゆず等で草は蘭とよろいぐさそのほか珍しい草花がある。またねむに似て蔓になって水石につわり付いているものもある。
 風が四方の山から吹き降ろすたびに、大木を揺らし、あらゆる草をなびかす。乱れる花、さわぐ葉が盛んに香気を放つ。突き当たる波と渦巻く瀬は押し戻されて谷に貯まり草の茂みを揺り動かして、時につれて移り変わる。その概ねはこのようであるが、私にはその全てを記すことはできない。
 永の人は未だここに遊んだことが無い。私はここを見つけたが、敢て独占せずに世間に伝える。この地は代々袁氏の地であるから、こう名付けた。

十八史略 王旦、同平章事となる

2015-02-12 10:00:00 | 十八史略
以王旦同平章事。旦王祐之子也。太祖嘗遣祐按事。謂祐還與王傅官職。祐不徇太祖意。竟不大用。祐曰、祐不做、兒子二郎必做。植三槐于庭曰、吾後世必有爲三公者。至是旦果爲相。深沈有望。能斷大事。上心深屬之。趙明、嘗以民饑、上表乞粮。羣臣皆請責之。旦曰、臣欲詔明。云、塞上儲粮不可與。已於京師積百萬。可自遣衆來取。明再拜受詔曰、朝廷有人。

王旦を以って同平章事とす。旦は王祐の子なり。太祖嘗て祐を遣わし事を按ぜしむ。謂う「祐還らば王傅(おうふ)の官職を与えん」と。祐、太祖の意に徇(したが)わず。竟(つい)に大いに用いられず。祐曰く「祐、做(な)らずとも、児子二郎必ず做らん」と。三槐(さんかい)を庭に植えて曰く「吾が後世必ず三公と為る者有らん」と。是(ここ)に至って旦、果たして相と為る。深沈にして徳望有り。能く大事を断ず。上(しょう)の心深く之に属(しょく)す。趙徳明、嘗て民の饑えたるを以って、表を上(たてまつ)って粮(りょう)を乞う。群臣皆之を責めんと請う。旦曰く「臣、徳明に詔(みことのり)せんと欲す。云わく、塞上の儲粮(ちょりょう)は与うべからず。已に京師に於いて百万を積む。自ら衆をして来たり取らしむ可し」と。徳明、再拝して詔を受けて曰く「朝廷人有り」と。

按 調べる。 王傅 王の付き人。 兒子 子供。 二郎 二番目の男子俳行。 粮 糧、食糧。 塞上 国境付近。 儲粮 貯蔵米。

王旦を以って同平章事とした。旦は王祐の子である。太祖は嘗って王祐を遣わしてある大事を調べさせた。その時太祖が「そなたが首尾よく成し遂げたなら王傅の官職を与えよう」といった。ところが王祐の報告が太祖の意にそぐわなかったので、重く用いられなかった。王祐は言った「私は高位になれなかったが、子の二郎が必ずなってくれよう」と。庭に三本のえんじゅを植えて「我が子孫に必ず三公になる者が出るであろう」と言った。果たして王旦が宰相となったのである。 王旦は沈着で徳望があり、よく大事を決断したので帝の信頼を得た。
西平王の趙徳明がある時、領内が飢饉で苦しんでいると上書して糧米の支給を願い出た。群臣は皆、徳明は帰順して間もなく又いつ叛くか知れないと憤慨して、厳しく責めるべきですと願い出た。王旦は「徳明にはこのように詔をお下しください。国境付近の貯蔵米は出すわけにいかないが、都には百万の貯えがある。そちらから人を出して取りに参れと。」と申し上げた。趙徳明は詔を再拝して受けて、「朝廷にはさすがに傑物が居る」と感心した。


唐宗八家文 柳宗元 (四) 小丘の西小石潭に至るの記

2015-02-10 10:48:46 | 唐宋八家文
從小丘西行百二十歩、隔篁竹聞水聲。如鳴珮環。心樂之。伐竹取道、下見小潭。水尤冽、全石以爲底。近岸巻石底以出、爲坻爲嶼、爲□爲巖樹翠蔓、蒙絡搖綴、參差披拂。
 潭中魚可百許頭、皆若空游無所依。日光下、影布石上。怡然不動、俶爾遠逝。往來翕忽、似與游者相樂。潭西南而望、斗折蛇行、明滅可見。其岸勢犬牙差互、不可知其源。
 坐潭上、四面竹樹環合、寂寥無人。凄神寒骨、悄愴幽邃。以其境過、不可久居。乃記之而去。同遊者、呉武陵龔古余弟宗玄。隷而從者、崔氏二小生、曰怒己、曰奉壹。  □山偏に甚。

小丘の西小石潭に至るの記
 小丘より西に行くこと百二十歩、篁竹(こうちく)を隔てて水声を聞く。珮環(はいかん)を鳴らすが如し。心にこれを楽しむ。竹を伐(き)りて道を取り、下りて小潭を見る。水は尤も清冽にして、全て石もて底と為す。岸に近き巻石(けんせき)、底より以って出で、坻(ち)と為り嶼(しょ)と為り、□(かん)となり、巌(がん)と為る。青樹翠蔓(すいまん)、蒙絡(もうらく)として搖綴(ようてい)し、参差(しんし)として披払(ひふつ)す。
 潭中の魚百頭許(ばか)り、皆空に遊んで依る所無きが若し。日光下り(とお)り、影石上に布(し)く。怡然(いぜん)として動かず、俶爾(しゅくじ)として遠く逝く。往来翕忽(きゅうこつ)として、遊ぶ者と相楽しむに似たり。
 潭の西南より望めば、斗折(とせつ)し蛇行して、明滅見るべし、その岸勢、犬牙(けんが)と差互(さご)して、その源を知るべからず。潭上に坐すれば、四面に竹樹環(めぐ)り合い、寂寥として人無し。神(しん)を凄(いた)ましめ骨を寒うせしめて、悄愴(しょうそう)たる幽邃(ゆうすい)なり。その境清らかに過ぐるを以って、久しく居るべからず。乃ちこれを記して去る。
 同(とも)に遊ぶ者は、呉武陵・龔古(きょうこ)、余が弟宗玄。隷(とも)して従う者は、崔氏の二小生、怒己(じょき)と奉壹(ほういつ)と曰う。


篁竹 竹やぶ。 珮環 佩び玉。 巻石 拳石、こぶし大の石。 坻 中洲。 嶼 島。 かん巌 山が険しいさま。 翠蔓 みどりの蔓。 蒙絡 からみ合う。 搖綴 枝葉が揺れ動くこと。 参差 長短入り混じる。 披払 風になびく。 怡然 素直なさま。 俶爾 急に動くさま。 翕忽 早いさま。 斗折蛇行 折れ曲がること。 神凄 心が寒い。 悄愴 さびしいさま。 幽邃 静かで奥深いこと。 隷 従う者。 呉武陵 同じく永州に流されていた。 龔古 未詳。 弟 従弟。 崔氏 姉の夫崔簡。

 小さな丘より西に百二十歩行くと竹やぶの向こうから水音が聞こえ、まるで佩び環が鳴るようである。心地よくこれを楽しむ。竹を伐って道を開き、そこを下ると小さな潭(ふち)が見える。水はとりわけ清冽で、水底は石で敷きつめられている。岸に近い所ではこぶしほどの石が積み重なって水面に出て、中洲となり小島となり、岩山となり、崖となっている。青い樹、緑の蔓が絡み合い揺れ動いて不揃いに揺れている。潭の中には魚が百匹ばかり、まるで空に浮かんでいるようにあてもなく身をまかせている。日の光が差し込んで石の上に魚の影を写す。じっとして動かなかったり、急に向こうに行ったりする。せわしなく往き来して、この淵に遊ぶ者と一緒に楽しんでいるかのようである。潭の西南から眺めると、折れ曲がり蛇行しており、見え隠れして岸の形は犬の牙のように不揃いで、流れの源はわからない。
 潭のほとりに坐ると、四方は竹や樹木がとりまいてひっそりとして人影もない。心が震え、骨身にしみるほどのさびしく奥深い所で、その清らかさに、長く留まっていることができない。それでこの文章を記して帰る。
 共に遊んだ者は呉武陵、龔古、私の弟の宗玄。共をしてついて来た者は、崔氏の若者、怒己と奉壹の二人である。

十八史略 冦準、宰相を罷免さる

2015-02-07 10:00:00 | 十八史略
準初發京師、命朝士出知諸州、皆於殿廊受勅。戒之曰、百姓皆兵、府庫皆財。不責汝浪戰。但失一城一壁、當以軍法從事。恐欽若沮親征之議、以其有智且有福、出欽若知天雄軍。契丹至城下。欽若閉門、束手無策、修齋誦經而已。上還自澶淵、待準極厚。欽若歸深恨準。嘗退朝、上目送準。欽若進曰、陛下敬準、爲其有社稷功邪。城下之盟、春秋小國所恥也。上愀然。欽若毎曰、澶淵之役、準以陛下爲孤注。上待準遂寢薄。尋罷相。

準、初め京師を発せしとき、朝士に命じて出でて諸州に知たらしめ、皆殿廊(でんろう)に於いて勅(みことのり)を受けしむ。之を戒めて曰く「百姓は皆兵にして、府庫は皆財なり。汝に浪(みだ)りに戦うを責めず。但一城一壁を失わば、当(まさ)に軍法を以って事に従うべし」と。欽若(きんじゃく)が親征の議を沮(はば)まんことを恐れ、其の智有り且つ福有るを以って、欽若を出して天雄軍に知たらしむ。契丹、城下に至る。欽若、門を閉じ、手を束ねて策無く、斎(さい)を修し経を誦するのみ。上、澶淵(せんえん)より還り、準を待つこと極めて厚し。欽若帰って深く準を恨む。嘗て朝より退くや、上、準を目送(もくそう)す。欽若進んで曰く「陛下の準を敬するは、其の社稷の功有るが為か。城下の盟(ちかい)は、春秋の小国も恥ずる所なり」と。上、愀然(しゅうぜん)たり。欽若毎(つね)に曰く「澶淵の役、準、陛下を以って孤注と為す」と。上、準を待つこと遂に寝(やや)薄し。尋(つ)いで相を罷(や)む。

朝士 朝廷の役人。 知 知事。 天雄軍 魏博節度使の軍名。 城下の盟 不利な条件で和議を結ぶこと。 目送 見送る。 愀然 顔色を変える。 孤注 博奕で有り金を投げ出して勝負に出ること。 

冦準は契丹征伐の折出発に先立って、朝廷の役人を諸州の知事に任命して、宮中の回廊で勅命を受けさせた。そのとき訓戒して「諸州の人民は国家の兵であり、州庫の財産は国家の財産である。諸君にやみくもに戦うことを求めないが、一城一壁たりとも失うことがあったら軍法に照らして処罰するからそのように心得よ」と申し渡した。また冦準は、王欽若が天子親征を反対しているので、欽若が智慧もあり、福相であるので、都から追い出して河北の天雄軍を治めさせた。さて契丹に城下まで攻められると、王欽若は城門を閉ざしてなす術もなく、お祓いをして経を唱えるだけであった。真宗が契丹と和睦して澶淵から還ってくると、冦準に対する待遇が一層厚くなった。王欽若が都に帰ると、冦準が自分を地方に追い出したことを恨んでいたので或る日のこと、帝が冦準退朝の際、後姿を見送っていたのを見た欽若が進み出て「陛下が冦準に敬意を払われるのは国家に功労があるとお思いだからでございましょうか。適に城下まで攻められて和議を結んだことは小国と雖もこれを恥ずべきことでございます」と言った。真宗はすっかり落ち込んでしまった。それ以来度々「冦準は澶淵の戦いにおいて陛下に大きな賭けを強いたのです」と吹き込んだ。これ以後、帝は冦準を待遇することが次第に薄くなり、ついには宰相を罷めさせてしまった。