上既入欽若之言、數問欽若、何以刷恥。欽若知上厭用兵、謬曰、取幽・薊乃可。上、令思其次。乃請封禪當以鎭服四海、誇示夷狄。又言、封禪當得天瑞。前代有以人力爲之。河圖・洛書果有此邪。聖人以神道設教耳。於是自大中符以來、數有天書降。東封泰山、西祀后土於汾陰。又有趙氏祖久天司命天尊降。天下立天慶觀、置聖祖殿、諱聖祖名玄朗、京師作玉昭應宮。旦不能止其事。
上(しょう)既に欽若の言を入れ、数しば欽若に問う「何を以って恥を刷(ぬぐ)わん」と。欽若、上の兵を用うるを厭うを知り、謬(いつわ)って曰く「幽・薊を取らば乃ち可なり」と。上、其の次を思わしむ、乃ち「封禅(ほうぜん)して以って四海を鎮服(ちんぷく)し、夷狄に誇示せん」と。又言う「封禅は当(まさ)に天瑞を得(う)べし。前代、人力を以って之を為す有り。河図・洛書、果たして此れ有らんや。聖人、神道を以って教えを設けしのみ」と。是(ここ)に於いて、大中符より以来、数しば天書有りて降る。東のかた泰山、西のかた后土(こうど)を汾陰(ふんいん)を祀る。又、趙氏の祖、九天司命天尊有って降る。天下に天慶観(てんけいかん)を立て、聖祖殿を置き、聖祖の名玄朗を諱(いみ)、京師に玉清昭応宮を作る。旦も其の事を止(とど)むる能わず。
恥 前出、「城下の盟は、春秋の小国も恥ずる所なり」。 封禅 封は泰山の頂きに天を祀り、禅はその麓に山川をまつる祭祀。 天瑞 天の下した霊験。 河図洛書 古代黄河から出た竜馬の巻き毛を写した図と、洛水で神亀の背の文様。 神道 人知では及ばない不思議な法則。 大中符 年号、1008年~16年の間。 后土 土地の神。 汾陰 汾水(山西省)の南。 天慶観 楼閣の名。
真宗は冦準罷免の後、宰相欽若の言葉を信任して、しばしば欽若に「どうしたら澶州の恥辱を拭うことができようか」と下問した。欽若は帝が戦争を避けていることを見抜いて、「幽州と薊州を取り返すのがよいでしょう」と言うと、帝は次の策を考えよと命じた。欽若は「それでは封禅の祀りをされたら良いでしょう」と答え、さらに「封禅は天の下した霊験を得て行なうもで、古代の天子の中にも人為でこれを為したこともございます。あの河図や洛書が果たして実存したとお考えですか。それは聖人が神のしわざにこと寄せて作り出したものに相違ありません」と申し上げた。かくて大中符以後しばしば天より書き物が降ってきたとして、東は泰山に天の神を祀り、西のかた汾水の南に地の神を祀った。また宋朝創始趙氏の先祖とした九天司命天尊が降臨したと称して各地に天慶観という楼閣を建てて聖祖殿を設け、聖祖の名である玄朗の二字を忌み、使用を禁じた。また京師に玉清昭応宮を作った。
宰相の王旦もこの愚行を止めることができなかった。
上(しょう)既に欽若の言を入れ、数しば欽若に問う「何を以って恥を刷(ぬぐ)わん」と。欽若、上の兵を用うるを厭うを知り、謬(いつわ)って曰く「幽・薊を取らば乃ち可なり」と。上、其の次を思わしむ、乃ち「封禅(ほうぜん)して以って四海を鎮服(ちんぷく)し、夷狄に誇示せん」と。又言う「封禅は当(まさ)に天瑞を得(う)べし。前代、人力を以って之を為す有り。河図・洛書、果たして此れ有らんや。聖人、神道を以って教えを設けしのみ」と。是(ここ)に於いて、大中符より以来、数しば天書有りて降る。東のかた泰山、西のかた后土(こうど)を汾陰(ふんいん)を祀る。又、趙氏の祖、九天司命天尊有って降る。天下に天慶観(てんけいかん)を立て、聖祖殿を置き、聖祖の名玄朗を諱(いみ)、京師に玉清昭応宮を作る。旦も其の事を止(とど)むる能わず。
恥 前出、「城下の盟は、春秋の小国も恥ずる所なり」。 封禅 封は泰山の頂きに天を祀り、禅はその麓に山川をまつる祭祀。 天瑞 天の下した霊験。 河図洛書 古代黄河から出た竜馬の巻き毛を写した図と、洛水で神亀の背の文様。 神道 人知では及ばない不思議な法則。 大中符 年号、1008年~16年の間。 后土 土地の神。 汾陰 汾水(山西省)の南。 天慶観 楼閣の名。
真宗は冦準罷免の後、宰相欽若の言葉を信任して、しばしば欽若に「どうしたら澶州の恥辱を拭うことができようか」と下問した。欽若は帝が戦争を避けていることを見抜いて、「幽州と薊州を取り返すのがよいでしょう」と言うと、帝は次の策を考えよと命じた。欽若は「それでは封禅の祀りをされたら良いでしょう」と答え、さらに「封禅は天の下した霊験を得て行なうもで、古代の天子の中にも人為でこれを為したこともございます。あの河図や洛書が果たして実存したとお考えですか。それは聖人が神のしわざにこと寄せて作り出したものに相違ありません」と申し上げた。かくて大中符以後しばしば天より書き物が降ってきたとして、東は泰山に天の神を祀り、西のかた汾水の南に地の神を祀った。また宋朝創始趙氏の先祖とした九天司命天尊が降臨したと称して各地に天慶観という楼閣を建てて聖祖殿を設け、聖祖の名である玄朗の二字を忌み、使用を禁じた。また京師に玉清昭応宮を作った。
宰相の王旦もこの愚行を止めることができなかった。