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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 封建論 七ノ二

2014-06-05 09:18:30 | 唐宋八家文
封建論 (七ノ二)
 故近者聚而爲羣。羣之分、其爭必大。大而後有兵有、又有大者、衆羣之長又就而聽命焉、以安其屬。於是有諸侯之列。則其爭又有大者焉。又大者、諸侯之列又就而聽命焉、以安其封。於是有方伯連帥之類。則其爭又有大者焉。又大者、方伯連帥之類就而聽命焉、以安其人。然後天下會於一。是故有里胥、而後有縣大夫。有縣大夫、而後有諸侯。有諸侯、而後有方伯連帥。有方伯連帥、而後有天子。自天子至於里胥、其在人者、死必求其嗣而奉之。故封建非聖人意也。勢也。

故に近き者は聚(あつま)って群を為す。群の分かるる、その争い必ず大なり。大にして後に兵有り徳あり、また大なる者有りて、衆群の長また就いて命を聴き、以ってその属を安んず。是(ここ)に於いて諸侯の列有り。則ちその争いまた大なるもの有り。徳また大なる者ありて、諸侯の列また就いて命を聴き、以ってその封を安んず。是に於いて方伯(ほうはく)・連帥(れんすい)の類有り。則ちその争いまた大なるもの有り。徳また大なる者ありて、方伯・連帥の類また就いて命を聴き、以ってその人を安んず。然る後に天下一(いつ)に会す。
 是の故に里胥(りしょ)有りて、而る後に県大夫有り。県大夫有りて、而る後に諸侯有り。諸侯有りて、而る後に方伯・連帥有り。方伯・連帥有りて、而る後に天子有り。天子より里胥に至るまで、その徳人に在るものは、死すれば必ずその嗣を求めてこれに奉ず。故に封建は聖人の意に非ざるなり。勢いなり。


兵あり徳あり 武力と人徳がある。 方伯・連帥 周代十国の諸侯の上に立って一地方を支配した官、二百十国を州といい、州の長を伯という方伯は州伯のこと、また十国を連といい連の長を帥という。 里胥 村の長、二十五戸を里という。 県大夫 県知事。二千五百戸を県といい、十六里四方の耕地をさす。

このような訳で、利害の近い者同士が集まって群れをつくり、その群れが分かれると今度は群れと群れの間の争いが大きくなってくる。そうなるとこんどは武力を持ち、徳の高い者のもとにさらに大きな群れができて、多くの群れの頭はその大きな群れの長の命令を聞きいれ群れの民の安全を保つことになる。こうして諸侯の階層ができた。そうなると争いはさらに大きくなる。徳のなお一層高い人物が居て、諸侯がその人物の命令を聞き従って、その領地の安全を保つ。ここに於いて方伯・連帥ができる。すると又争いが大きくなり、さらに一層高徳の人物が居ると方伯・連帥の類が又その命令を聞き、領民の安全を保つ。こうなって天下は合一して国家となったのである。
 以上の経過によって、まず村の長ができ、その後県の長ができた。県の長ができた後に諸侯ができた。諸侯の後に方伯・連帥ができ、方伯・連帥のできた後に天子ができたのである。天子から村の長に至るまで、その人の徳が人民に及ぶ場合には、その人が死ねば必ず後継ぎを選んで奉戴した。故に封建は聖人の考え出したものではなく、成り行きによってできたものである。

十八史略 趙匡胤の勇

2014-06-03 10:41:06 | 十八史略
各將二千人進戰。匡胤身先士卒、馳犯其鋒。士卒死戰。無不一當百。北漢兵大敗。楊袞不敢救。北漢主晝夜北走、僅得入晉陽。周主収樊愛能・何徽、及所部軍使以上七十餘人、責之曰、汝輩非不能戰。正欲以朕爲奇貨、賣與劉崇耳。悉斬之。自是驕將惰卒、始知所懼、不行姑息之政矣。張永盛稱趙匡胤智勇。擢爲殿前都虞侯。

各々二千人に将として進み戦う。匡胤士卒に先立ち、馳せて其の鋒(ほこ)を犯す。士卒死戦す。一、百に当らざるは無し。北漢の兵大いに敗る。楊袞(ようこん)敢えて救わず。北漢主、昼夜北に走り、僅かに晋陽に入るを得たり。周主、樊愛能・何徽、及び所部の軍使以上七十余人を収(とら)えて、之を責めて曰く「汝が輩、戦うこと能わざるに非ず。正に朕を以って奇貨と為して、劉崇に売与(ばいよ)せんと欲せしのみ」と。悉く之を斬る。是より驕将惰卒(きょうしょうだそつ)、始めて懼るる所を知り、姑息の政(まつりごと)を行わず。張永徳、盛んに趙匡胤の智勇を称す。擢(えら)んで殿前都虞侯(でんぜんとぐこう)と為す。

殿前都虞侯 この時新たに設けた官名、

趙匡胤・張永徳はそれぞれ二千人に将となって戦った。匡胤は士卒の真っ先に立ち、馬を馳せて敵の鋒先に立ちはだかったので、士卒も死にもの狂いで戦った。一人が百人の敵兵に当らない者が無いほどの勢いであった。北漢の兵は大いに敗れた。契丹の楊袞も敢えて救おうとしなかったから、北漢主は昼夜北に走り辛うじて晋陽に入ることができた。
周主は樊愛能・何徽の両将、及び所属の軍使以上の七十余人を捕らえて、之を責めて言うには「お前たちは戦うことができなかったわけではない、朕を価値ある代物として劉崇に売りつけようとしたに違いない」と悉く斬罪に処した。これ以後増長した将軍や怠惰な兵卒も周主の怖ろしさを知って、その場凌ぎの政治を行わなくなった。張永徳は盛んに趙匡胤の智勇を称揚したから、殿前都虞侯に抜擢した。