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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 韓愈 圬者王承福伝 三ノ三

2014-02-04 09:19:42 | 唐宋八家文
 愈始聞而惑之。又從而思之。蓋賢者也。蓋所謂獨善其身者也。然吾有譏焉。謂其自爲他過多、其爲人也過少、其學楊朱之道者邪。楊之道、不肯抜我一毛而利天下。而夫人以有家爲勞心、不肯一動其心以畜其妻子。其勞其心以爲人乎哉。
 雖然、其賢於世之患不得之、而患失之者、以濟其生之欲、貪邪而亡道、以喪其身者、其亦遠矣。又其言有可以警余者。故余爲之傳而自鑒焉。

愈始め聞きてこれに惑う。また従ってこれを思う。蓋(けだ)し賢者ならん。蓋し所謂(いわゆる)独りその身を善くする者ならん。然れども吾譏(そし)ること有り。謂(おも)うに、その自ら為にすること多きに過ぎ、その人の為にすること少なきに過ぐるは、それ楊朱の道を学ぶ者か。楊の道は、我が一毛を抜いて天下を利するを肯(がえ)んぜず。而して夫(か)の人は家有るを以って心を労すと為し、一たびその心を動かして以ってその妻子を畜(やしな)うを肯んぜず。それ肯(あえ)てその心を労して以って人の為にせんや。
然りと雖も、それ世のこれを得ざるを患(うれ)えて、これを失うことを患うる者、以ってその生の欲を済(な)し、貪邪(たんじゃ)にして道を亡(うしな)い、以ってその身を喪(うしな)い、以ってその身を喪(ほろぼ)す者より賢なることそれ亦た遠し。またその言、以って余を警(いまし)むべきもの有り。故に余これが伝を為(つく)りて自ら鑑(かがみ)とす。


蓋し まさしく、おそらく。 譏る 批判する。 楊朱 戦国時代の思想家、我が為にする個人主義を主張。 肯んぜず 承諾しない。 家 家庭。 貪邪 貪はむさぼる。 賢 まさる。 鑑 いましめ、てほん。

私は始めこれを聞いて思い惑った。そしてよく考えてみた。彼はまさしく賢者であろう。またおそらく、言うところの自分だけを善くみせる者であろう。
しかし私は彼に批判することがある。それは彼が自分の為にすることが多くて、他人の為にすることが少なすぎることだ。かれは楊朱の道に倣ったのであろうか、楊朱の説くところは、自分の毛たった一本も天下のために役立てようとしない利己主義で彼もまた、家庭を持つことは苦労が増えることだと言って、心を動かして妻子を養おうとしない。これでは心をこめて他人のために尽すはずもなかろう。
しかし、富貴を得ないことを憂い、あるいは手にいれた富貴を失うことを恐れて、貪欲、邪悪に走り道を踏み外して身を滅ぼす者に比べればはるかに勝っている。また彼の言葉には、私自信の戒めとすべきものがある。故に彼の伝記を作り、わが身の手本とする。


制作年不詳。韓愈は左官職人の口を借りて、富貴に固執し、身を滅ぼしていく人を批判する。一方王承福にも彼の独善的な考えに批判の眼を向けている、徹底して儒家思想を信奉する韓愈には、市井の左官職人に老子から続く楊朱の思想の流れをみたのであろう。

十八史略 荘宗存勗

2014-02-01 12:05:24 | 十八史略
王即位。改晉爲唐、奉唐祀。入汴滅梁、都大梁。已而遷雒陽。侍中郭崇韜有謀略。佐唐主成業。至是主成業。至是權兼内外、謀猷規、竭忠無隱、薦引人物。他相受成而已。
荊南高季興入朝。季興者季昌之改名也。唐以爲南平王。
蜀主王衍、盤游淫湎。國亂盗起。唐遣皇子繼岌、與郭崇韜伐之、遂滅蜀。衍降。唐赤其族。繼岌信讒、殺崇韜而還。
唐以孟知祥爲西川節度使。

王位に即く。晋を改めて唐と為し、唐の祀(し)を奉ず。汴(べん)に入って梁を滅ぼし、大梁に都す。已にして雒陽に遷(うつ)る。侍中郭崇韜(かくすうとう)、謀略有り。唐主を佐(たす)けて業を成す。是(ここ)に至って、権、内外を兼ね、謀猷規益(ぼうゆうきえき)、忠を尽くして隠すなく、人物を薦引(せんいん)す。他の相は成を受くるのみ。
荊南(けいなん)の高季興入朝す。季興は季昌の改名なり。唐、以って南平王と為す。
蜀主王衍(おうえん)、盤游淫湎(ばんゆういんめん)なり。国乱れ盗起る。唐、皇子継岌(けいきゅう)と郭崇韜(かくそうとう)を遣わして之を伐たしめ、遂に蜀を滅ぼす。衍降る。唐、其の族を赤(せき)す。継岌、讒(ざん)を信じ、崇韜を殺して還る。
唐、孟知祥(もうちしょう)を西川(せいせん)の節度使と為す。


祀 先祖をまつること。 雒陽 洛陽。 謀略 智謀策略。 佐 補佐。 謀猷規益 謀も猷もはかりごと規は過ちを正すこと益は行いを正すこと。 薦引 ひきたてる。 成を受くる 他人の成したことをただ承認する。 盤游淫湎 盤游はめぐり遊ぶこと淫湎は酒色におぼれること。 赤 空しくする、皆殺しにする。

晋王が帝位に即き、国号を唐と改め、唐の先祖のまつりを受け継いだ。汴に入って梁を滅ぼして大梁を都としたが、間もなく洛陽に遷った。
侍中の郭崇韜は智謀策略に富み、唐主をたすけて後唐の礎を成し遂げた。ここに至ってその権力は朝廷内はもとより、地方にまで及んだ。事有れば策略をめぐらし、君主に過ちあればこれを正し、助けて忠義を尽し、隠しごとをせず、有能の士を薦め引き上げた。他の宰相たちは崇韜のした事に追随するだけだった。
荊南節度使の高季興が入朝した。季興は季昌の改名したものである。唐は立てて南平王とした。
蜀主の王衍は遊興と酒色に耽って政事をおろそかにしたので、国が乱れ盗賊が横行するようになった。そこで皇子の継岌と郭崇韜を遣わしてこれを伐たせて蜀を滅ぼした。衍は降伏したが、唐は一族すべてを皆殺しにした。継岌は部下の讒言を信じ、郭崇韜を殺して帰還した。
唐は孟知祥を西川の節度使とした。