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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 李輔国、上皇の復位を疑う

2013-03-05 08:44:58 | 十八史略

上元元年、太僕李輔國、遷上皇於西内。上皇愛興慶宮、自蜀歸即居之、多御牢樓。父老過者、往往瞻拜呼萬歳。上皇常於樓下賜以酒食。又嘗召將軍郭英乂等、上樓賜宴。輔國言、上皇居興慶、日與外人交通。陳玄禮・高力士謀不利於上。數啓上遷之。不許。乗上不豫、率衆劫遷。上皇日以不懌。因不茹葷、辟穀、寖以成疾。
二年、史朝義殺史思明。思明愛少子而惡朝義、因其敗軍欲斬之。朝義使人射殺思明、而自立。
李光弼爲大尉、統八道行營、鎭臨淮。

上元元年、太僕卿(たいぼくけい)李輔国、上皇を西内(せいだい)に遷(うつ)す。上皇、興慶宮を愛し、蜀より帰って即ち之に居り、多く楼に御(ぎょ)す。父老の過ぐる者、往往瞻拝(せんぱい)して万歳と呼ぶ。上皇常に楼下に於いて賜うに酒食(しゅし)を以ってす。又嘗て将軍郭英乂(かくえいがい)等を召し、楼に上らしめて宴を賜う。輔国言う「上皇、興慶に居り、日に外人と交通す。陳玄禮・高力士、上に不利を謀る」と。数しば上に啓(もう)して之を遷さんとす。許さず。上の不予に乗じ、衆を率(ひき)いて劫(おびや)かし遷す。上皇日に以って懌(よろこ)ばず。因って葷(くん)を茹(くら)わず、穀を辟(さ)け、寖(ようや)く以って疾(やまい)を成す。
二年、史朝義、史思明を殺す。思明、少子を愛して朝義を悪(にく)み、其の敗軍に因って之を斬らんと欲す。朝義、人をして思明を射(い)殺さしめて自立す。
李光弼、大尉となり、八道の行営を統(す)べ、臨淮(りんわい)に鎮(ちん)す。


太僕卿 車馬を掌る長官。 西内 大極宮。 御 出御。 瞻拝 仰いで拝礼すること。 交通 接触。 不利を謀る 復位を画策する。 葷 肉料理。
八道 九節度のうち朔方を除く八所。


上元元年(760年)、太僕卿の李輔国が上皇を西内の大極宮に遷した。上皇は南内の興慶宮が気に入って、蜀から帰ると早速住みはじめた。上皇はしばしば楼上に出御になり、来合わせた年寄り達が振り仰いで拝礼し、万歳を唱えた。上皇も楼下に迎えて酒食をもてなす事もあった。ときには将軍の郭英乂等を楼上に招いて酒宴を開いた。李輔国が粛宗に「上皇は興慶宮に住まわれ日々外部の者と会っております。陳玄禮・高力士らと良からぬことを謀っているのではないかと心配するのです、どうか上皇を他所にお遷しください」と申し上げた。たびたびお勧めしたが、粛宗は許さなかった。そこで粛宗が病気で臥せているときに無理やり上皇を西内に遷した。そのため上皇はうつうつとして楽しまず、肉料理はもとより穀類までも口にすることなく、やがて病気になってしまった。
上元二年、史思明の長子、朝義が父を殺した。思明は下の子に目をかけて、長男の敗戦を理由に朝義を斬ろうとした。そこで人を遣って思明を射殺し、自ら皇帝を称した。
李光弼、大尉となり、八道の陣営を統括し、臨淮に本営を置いた。


十八史略 李光弼、号令厳整旗幟精明にす

2013-03-02 08:36:09 | 十八史略

上皇發蜀郡還西京。
乾元元年、命郭子儀等九節度討安慶緒。
二年、史思明引兵救慶緒。九節度之兵潰于鄴。思明殺慶緒、還范陽僭號。
李光弼代郭子儀、爲朔方節度使・兵馬元帥。光弼號令嚴整、始至、號令一施、士卒壁壘、旗幟精明、皆變。與史思明戰屢敗之。

上皇、蜀郡を発して西京に還る。
乾元(けんげん)元年、郭子儀(かくしぎ)等九節度に命じて、安慶緒を討たしむ。
二年、史思明兵を引いて慶緒を救う。九節度の兵、鄴(ぎょう)に潰(つい)ゆ。
思明、慶緒を殺し、范陽に還って僭号(せんごう)す。
李光弼(りこうひつ)、郭子儀に代って朔方の節度使・兵馬元帥と為る。光弼、号令厳整、始めて至るや、号令一たび施せば、士卒壁塁、旗幟精明、皆変ず。史思明と戦ってしばしば之を敗る。


西京 長安。 節度使 辺境警備の長、軍事、民政まで強大な権力を掌握した。

至徳二年に上皇は、蜀の成都を出て長安に還った。
乾元元年(758年)に郭子儀ら九節度に安慶緒討伐の命が下った。
乾元二年に史思明が兵を引き連れて慶緒を救援したので、九節度の兵は鄴で潰滅した。史思明は安慶緒を殺して鄴から范陽に還り、僭号して大燕皇帝と名乗った。
李光弼が郭子儀に代って朔方の節度使・兵馬元帥となった。光弼は規律に厳正な性格で、着任してまず号令すると、士卒はもとより、塁壁から、旗の色までが光彩を放って見違えるようになった。史思明と戦ってしばしば討ち破った。