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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 魚朝恩、誅殺さる

2013-03-19 14:08:30 | 十八史略

三年、幽州將朱希彩、殺李懷仙。詔因以希彩領鎭。
大暦五年、誅宦者魚朝恩。朝恩在肅宗時、嘗爲觀軍容使。軍容之名始此。九節度相州之敗、其時也。至廣初、爲天下觀軍容宣慰處置使、專總禁兵、勢傾朝野。大暦初、判國子監。升座講鼎覆餗、以譏宰相。王瑨怒。元載怡然。朝恩曰、怒者常情、笑者不可測也。朝政有不預者、輒怒曰、天下事有不由我者邪。上聞之不懌。載乗奏其專恣不軌。遂誅之。

三年、幽州の将朱希彩、李懐仙を殺す。詔(みことのり)して、希彩を以って鎮を領せしむ。
大暦五年、宦者魚朝恩を誅す。朝恩、粛宗の時に在って、嘗て観軍容使と為る。軍容の名、此れより始まる。九節度相州の敗は、其の時なり。広徳の初めに至り、天下観軍容宣慰処置使と為り、専(もっぱ)ら禁兵を総(す)べ、勢い朝野を傾く。大暦の初め、国子監に判(はん)たり。座に升(のぼ)り、鼎、餗(こながき)を覆(くつがえ)すいうを講じて、以って宰相を譏(そし)る。王瑨(おうしん)怒る。元載怡然(いぜん)たり。朝恩曰く「怒る者は常の情なり、笑う者は測るべからざるなり」と。朝政預らざる者有れば、輒(すなわ)ち怒って曰く「天下の事、我に由(よ)らざる者有りや」と。上、之を聞いて懌(よろこ)ばず。載、間に乗じて其の専恣不軌(せんしふき)を奏す。遂に之を誅す。


観軍容使 節度使を総監する官。 天下観軍容宣慰処置使 観軍容使を拡大したもの。 九節度相州の敗 乾元二年、史思明に鄴で大敗した戦、3.2参照。 国子監 貴族の子弟を教育した学校。 判 判官。 餗 米粉を煮た吸い物、鼎餗は宰相の責務。 怡然 よろこぶ様子。 専恣不軌 専恣はほしいままにする、不軌は不法あるいは反逆。 

大暦三年(768年)、幽州の部将朱奇彩が李懐仙を殺した。朝廷では詔を発して、朱奇彩がそのまま盧龍の蕃鎮を支配させた。
大暦五年に宦官の魚朝恩を誅した。朝恩は粛宗の時に観軍容使となった。軍容の名はここに始まったのである。丁度この時(759年)九節度が史思明に鄴で大敗を喫した。広徳の初めになって天下観軍容宣慰処置使となって禁裏の兵を掌握して、その権勢は並ぶ者ないほどになった。
大暦の初め、国子監の判となり、講壇に登り、易経の一節「鼎、足を折り、餗を覆す」を講じて、暗に宰相をそしった。王瑨は激怒したが元載は笑って取り合わなかった。後に朝恩が「怒る者はあたりまえだが、笑う者は真意を測れないものだ」ともらした。朝恩は政務で自分が関与しないものがあると知ると、忽ち「天下の事でわしが与り知らぬことがあってよいと思っているのか」と声を荒げた。代宗はこれを聞いて不快の念を抱いた。時を移さず元載は朝恩が専横を極め、反逆の心があると奏上した。こうして魚朝恩は誅殺されたのである。


十八史略 郭子儀、吐蕃を撃つ

2013-03-16 09:22:36 | 十八史略
永泰元年、平盧將李懷玉、逐節度使侯希逸、而自知留後。詔因而援之、賜名正己。
叛將僕固懷恩、誘囘紇・吐蕃入寇。召郭子儀、屯陽。懷恩道死。二虜爭長不睦。子儀遣人説囘紇、欲共撃吐蕃。先是懷恩欺囘紇、謂子儀已死。使至。囘紇不信曰、郭公在可得見乎。使還報。子儀與數騎出、使人傳呼曰、令公來。囘紇大驚、藥葛羅執弓矢立陣前。子儀免冑釋甲而進。諸酋長相顧曰、是也。皆下馬羅拜。子儀亦下馬、執手與之語、取酒相與誓約而還。吐蕃聞之夜遁。諸軍與囘紇共追、大破之。

永泰元年、平盧の将李懐玉、節度使侯希逸(こうきいつ)を逐(お)うて、自ら留後に知たり。詔(みことのり)して因(よ)って之に授け、名を正己(せいき)と賜う。
叛将僕固懐恩(ぼくこかいおん)、回紇(かいこつ)・吐蕃(とばん)を誘うて入寇す。郭子儀を召して陽(けいよう)に屯(たむろ)せしむ。懐恩、道に死す。二虜、長を争って睦まじからず。子儀、人を遣わして回紇に説かしめ、共に吐蕃を撃たんと欲す。是より先、懐恩、回紇を欺いて、子儀已に死すと謂う。使い至る。回紇信ぜずして曰く「郭公在(あ)らば見るを得べきか」と。使い還り報ず。子儀、数騎と出で、人をして伝呼せしめて曰く「令公来たる」と。回紇大いに驚き、薬葛羅(やくかつら)、弓矢を執って陣前に立つ。子儀、冑(かぶと)を免(ぬ)ぎ、甲(よろい)を釈(と)いて進む。諸々の酋長相顧みて曰く「是なり」と。皆馬より下りて羅拝す。子儀も亦馬より下り、手を執って之と語り、酒を取り相与(とも)に誓約して還る。吐蕃之を聞き、夜遁(のが)る。諸軍、回紇と共に追い、大いに之を破る。


留後に知 留守居役の長。 僕固懐恩 僕固が姓懐恩が名、鉄勒族の長。 道 途中。 令公 当時子儀が中書令だった。 羅拝 並んで拝すること。 

永泰元年(765年) 平盧軍の将の李懐玉が節度使の侯希逸を放逐し、自ら留守役の長となった。朝廷では詔を発して正式に節度使に任じ、正己の名を与えた。
僕固懐恩が回紇・吐蕃を誘って謀叛を起こし、国境を侵してきた。朝廷では郭子儀を召して陽に駐屯させて迎え撃たせた。しかし懐恩が途中で死んだため、回紇と吐蕃が主導を争って仲が悪くなった。郭子儀は回紇に使を遣って共に吐蕃を攻めるよう説得させた。ところが懐恩が謀叛を持ちかけたとき、子儀はすでに死んでいると偽ったため、使いが来ても回紇は信用せず「郭公が居られるならお目にかかってから、お話ししよう」とあしらった。使いが帰り報告すると、郭子儀は数騎を従えて、次ぎつぎに「令公が来た」と伝え知らせた。回紇は驚いて首領の薬葛羅が弓矢を携えて陣頭に立った。子儀が甲冑を脱ぎ捨てて歩み寄ると、回紇の酋長たちが顔を見合わせて口々に「確かに公だ」と言うと一斉に馬から下りて並んで拝礼した。子儀も馬から下り、手をとって語りかけ酒を交わして共に誓約して帰った。これを知った吐蕃は、その夜のうちに逃げ出した。子儀の諸部隊は回紇と共にこれを追い、散々に打ち破った。


十八史略 李光弼卒す

2013-03-14 10:06:16 | 十八史略
廣元年、吐蕃入寇。上出奔陝州。吐蕃入長安。關内副元帥郭子儀撃之。吐蕃遁去。
二年、流宦者程元振。元振初附李輔國。輔國死、元振專權、自恣尤甚。忌諸將有大功者、皆欲害之。吐蕃入。元振掩蔽不以時奏、致上狼狽。中外切齒。至是流溱州。
臨淮王李光弼卒。上之幸陝、光弼不至。上撫之加厚。素與子儀齊名。及在徐州、擁兵不朝。麾下諸大將不復尊畏。光弼愧恨、成疾而死。

広徳元年、吐蕃(とばん)入寇(にゅうこう)す。上、陜州(せんしゅう)に出奔す。吐蕃長安に入る。関内副元帥郭子儀、之を撃つ。吐蕃遁(のが)れ去る。
二年、宦者(かんじゃ)程元振を流す。元振、初め李輔國に附く。輔國死するや、元振、権を専(もっぱ)らにし、自ら恣(ほしいまま)にすること尤も甚だし。諸将の大功有る者を忌(い)み、皆之を害せんと欲す。吐蕃入る。元振、掩蔽(えんぺい)して、時を以って奏せず、上の狼狽を致す。中外切歯す。是(ここ)に至って溱州(しんしゅう)に流す。
臨淮王(りんわいおう)李光弼(りこうひつ)卒す。上の陜に幸(こう)するや、光弼至らず。上、之を撫すること加(ますます)厚し。素より子儀と名を斉(ひと)しうす。徐州に在るに及んで、兵を擁して朝せず。麾下(きか)の諸大将、復た尊畏(そんい)せず。光弼愧恨(きこん)し、疾を成して死す。


陜州 西陜省陜県。 掩蔽 おおい隠すこと。 溱州 四川省綦江県附近。 尊畏 尊び畏れること。

広徳元年に吐蕃が国境を侵した。代宗は難を避けて陜州に逃れた。吐蕃が長安に入ると首都警備の副元帥郭子儀が迎え撃って、吐蕃を退けた。
広徳二年に、宦官の程元振を流罪に処した。元振は初め李輔国の腰巾着になっていた。輔国が死ぬとすぐさま権力を握り、好き勝手な振る舞いをするようになった。大功ある将軍を疎んじ、これを殺そうとした。吐蕃が侵攻してくると元振はこれを隠し、すぐさま奏上しなかった。そのため代宗があわてて逃げ出すという失態を招き、内外ともに歯噛みするほど悔しがった。それで溱州に流罪となったのである。
臨淮王の李光弼が世を去った。前年に代宗が陜州に逃れたとき、光弼は元振を忌避して来援しなかった。それでも代宗は光弼を慰め労わった。もともと郭子儀と並ぶほどの人物であったが、任地の徐州で兵力を擁しながら馳せ参じなかったことで部下の大将たちが信服しなくなり、自身も慙愧にたえず病を発して死んだ。


十八史略 代宗皇帝

2013-03-12 08:37:32 | 十八史略
朝命に抗することこれより始まる

代宗皇帝初名俶。封廣平王。爲元帥定兩京、封楚王、改成王、已而爲太子、改名豫。至是即位、誅李輔國。以雍王适爲天下兵馬元帥、率緒將及囘紇援兵、討史朝義、大敗之。賊將李懷仙、斬朝義以降。以賊將張志忠鎭成軍、賜姓名李寶臣。薛崇鎭相・衞・邢・■・貝・磁等州、田承嗣鎭魏・博・・滄・瀛等州、李懷仙鎭仙盧龍。朝廷厭苦兵革、苟冀無事。因而授之。諸鎭自爲自黨援、河朔敢抗朝命始此。      ■ 氵に名

代宗皇帝、初めの名は俶(しゅく)。広平王に封ぜらる。元帥と為って両京を定む。楚王に封ぜられ、成王に改められ、已にして太子となり、予と改名す。是(ここ)に至って位に即く。李輔国を誅す。雍王(ようおう)适(かつ)を以って、天下兵馬元帥と為し、諸将及び回紇の援兵を率いて、史朝義を討たしめ、大いに之を敗る。賊将李懐仙、朝義を斬って以って降る。賊将張志忠を以って、成徳軍を鎮せしめ、姓名を李宝臣と賜う。薛崇(せっすう)、相・衞・邢・めい・貝(ばい)・磁等の州を鎮し、田承嗣、魏・博・徳・滄・瀛等の州を鎮し、李懐仙、盧龍(ろりょう)を鎮す。朝廷、兵革を厭苦(えんく)し、無事を苟冀(こうき)す。因って之に授けしなり。諸鎮自ら党援をなし、河朔、敢えて朝命に抗すること此れより始まる。

両京 洛陽と長安。 成徳軍 成徳という軍号の藩鎮の節度使となったこと。 兵革 戦争。 苟冀 裏づけのない望み、から頼み。 河朔 河北。

代宗皇帝、初めの名は俶といった。広平王に封ぜられ、元帥として洛陽、長安を平定した。後に楚王に封ぜられ、成王に改められ、皇太子となって予と名を改めた。ここに至って天子の位に即いた。先ず李輔国を誅殺し、長子の雍王适を天下兵馬元帥として、諸将及び回紇の援兵を率いて史朝義を討伐させ、大いにこれを破った。賊将の李懐仙が、朝義を斬って降伏して来た。同じく賊将の張志忠を、成徳軍藩鎮の節度史にして、李宝臣と姓名を賜った。薛崇には、相・衞・邢・めい・貝・磁等の州を守らせ、田承嗣を魏・博・徳・滄・瀛等の州を守らせ、李懐仙には、盧龍を鎮守させた。このように降将をもとの根拠地の節度使に登用したのは、朝廷が戦争に厭き苦しみ、当座の無事をのみ願ったからで、これらの諸鎮は互いに連携し助けあった。河北が敢えて朝命に反抗するようになったのはこれより始まったのである。

十八史略 上皇、粛宗相次いで崩ず。

2013-03-07 08:29:41 | 十八史略

寶應元年、郭子儀知諸道節度行營、兼興平・定國等軍副元帥、復入朔方。
上皇崩於西内。傳位後七年也。壽七十八。
上寢疾。聞上皇登遐、轉劇遂崩。在位七年。改元者四、曰至・乾元・上元・寶應。初張皇后與李輔國相表裡、專權用事。晩更有隙。上疾篤。后召太子謂曰、輔國久典禁兵、陰謀作亂。不可不誅。太子恐震驚上體不可。輔國聞其謀。上崩。殺后而後引太子立之。是爲代宗皇帝。

宝応元年、郭子儀、諸道節度行営(しょどうせつどこうえい)に知となり、興平・定國等の軍副元帥を兼ね、復(また)朔方に入る。
上皇、西内(せいだい)に崩ず。伝位後七年也。寿七十八。
上疾(やまい)に寝(い)ぬ。上皇の登遐(とうか)を聞いて転(うたた)劇(はげし)く、遂に崩ず。在位七年。改元する者(こと)四、至徳・乾元・上元・宝応と曰う。
初め張皇后、李輔国と相表裡(ひょうり)し、権を専(もっぱ)らにして事を用う。晩に更(こもごも)隙(げき)有り。上、疾(やまい)篤し。后、太子を召して謂(い)って曰く「輔国久しく禁兵を典(つかさど)り、陰(ひそ)かに乱を作(な)さんと謀る。誅せざるべからず」と。太子、上の体を震驚(しんきょう)せんことを恐れて可(き)かず。輔国、その謀を聞く。上、崩ず。后を殺して後に太子を引いて之を立つ。是を代宗皇帝と為す。


知 長官。 登遐 遐は遠い、死ぬこと。 転た はなはだしく。 表裡 表裏。 晩に 後に。禁兵 禁裏の兵。 震驚 驚かせる。 

宝応元年(762年) 郭子儀が諸道節度使の行営の長官となり、興平・定國等の軍の副元帥を兼ね、再び朔方の本営に入った。
上皇が西内にて崩じた。位を伝えてから七年、七十八歳であった。
粛宗も病に臥していたが、上皇の長逝を知り、にわかに篤くなり遂に崩御された。在位七年、改元すること四度、至徳・乾元・上元・宝応という。
初めは張皇后と李輔国とは表に立ち、裏に支えて権力をほしいままにしてきたが、後にこの二人にひびが入った。粛宗の病が篤くなったころ太子の予を呼んで言った「李輔国は久しく禁裏の兵を掌握してきました、密かに乱を企てています。誅さずにはおかれません」と。太子は、粛宗が驚いて病がますます重くなるのを恐れて承知しなかった。この件が輔国の耳に入った。粛宗が亡くなるや、輔国はすぐさま張皇后の命を奪って太子を立てた。これが代宗皇帝である。