三年、幽州將朱希彩、殺李懷仙。詔因以希彩領鎭。
大暦五年、誅宦者魚朝恩。朝恩在肅宗時、嘗爲觀軍容使。軍容之名始此。九節度相州之敗、其時也。至廣初、爲天下觀軍容宣慰處置使、專總禁兵、勢傾朝野。大暦初、判國子監。升座講鼎覆餗、以譏宰相。王瑨怒。元載怡然。朝恩曰、怒者常情、笑者不可測也。朝政有不預者、輒怒曰、天下事有不由我者邪。上聞之不懌。載乗奏其專恣不軌。遂誅之。
三年、幽州の将朱希彩、李懐仙を殺す。詔(みことのり)して、希彩を以って鎮を領せしむ。
大暦五年、宦者魚朝恩を誅す。朝恩、粛宗の時に在って、嘗て観軍容使と為る。軍容の名、此れより始まる。九節度相州の敗は、其の時なり。広徳の初めに至り、天下観軍容宣慰処置使と為り、専(もっぱ)ら禁兵を総(す)べ、勢い朝野を傾く。大暦の初め、国子監に判(はん)たり。座に升(のぼ)り、鼎、餗(こながき)を覆(くつがえ)すいうを講じて、以って宰相を譏(そし)る。王瑨(おうしん)怒る。元載怡然(いぜん)たり。朝恩曰く「怒る者は常の情なり、笑う者は測るべからざるなり」と。朝政預らざる者有れば、輒(すなわ)ち怒って曰く「天下の事、我に由(よ)らざる者有りや」と。上、之を聞いて懌(よろこ)ばず。載、間に乗じて其の専恣不軌(せんしふき)を奏す。遂に之を誅す。
観軍容使 節度使を総監する官。 天下観軍容宣慰処置使 観軍容使を拡大したもの。 九節度相州の敗 乾元二年、史思明に鄴で大敗した戦、3.2参照。 国子監 貴族の子弟を教育した学校。 判 判官。 餗 米粉を煮た吸い物、鼎餗は宰相の責務。 怡然 よろこぶ様子。 専恣不軌 専恣はほしいままにする、不軌は不法あるいは反逆。
大暦三年(768年)、幽州の部将朱奇彩が李懐仙を殺した。朝廷では詔を発して、朱奇彩がそのまま盧龍の蕃鎮を支配させた。
大暦五年に宦官の魚朝恩を誅した。朝恩は粛宗の時に観軍容使となった。軍容の名はここに始まったのである。丁度この時(759年)九節度が史思明に鄴で大敗を喫した。広徳の初めになって天下観軍容宣慰処置使となって禁裏の兵を掌握して、その権勢は並ぶ者ないほどになった。
大暦の初め、国子監の判となり、講壇に登り、易経の一節「鼎、足を折り、餗を覆す」を講じて、暗に宰相をそしった。王瑨は激怒したが元載は笑って取り合わなかった。後に朝恩が「怒る者はあたりまえだが、笑う者は真意を測れないものだ」ともらした。朝恩は政務で自分が関与しないものがあると知ると、忽ち「天下の事でわしが与り知らぬことがあってよいと思っているのか」と声を荒げた。代宗はこれを聞いて不快の念を抱いた。時を移さず元載は朝恩が専横を極め、反逆の心があると奏上した。こうして魚朝恩は誅殺されたのである。