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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 三君、八俊  

2011-09-17 12:06:55 | 十八史略
李膺初雖廢錮、士大夫皆高其道、而汚穢朝廷、更相標榜。爲稱號、以竇武・陳蕃・劉淑、爲三君。言一世之所宗也。李膺・荀・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱㝢爲八俊。言人英也。郭泰・范滂・尹勳・巴肅・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟爲八顧、言能以行引人也。張儉・翟超・岑晊・菀康・劉表・陳翔・孔・檀敷爲八及。言能導人追宗也。度尚・張邈・王孝・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章爲八廚。言能以利救人也。及陳蕃・竇武用事、復擧抜膺等。陳・竇死、膺等復廢錮。

李膺初め廃錮(はいこ)せらると雖も、士大夫皆其の道を高しとし、而して朝廷を汚穢(おわい)として、更々(こもごも)相標榜す。称号を為(つく)り、竇武・陳蕃・劉淑を以って三君と為す。言うは、一世の宗とする所なり。李膺・荀(じゅんいく)・杜密・王暢(おうちょう)・劉祐・魏朗・趙典・朱ウ(しゅう)を八俊と為す。言うは人英なり。郭泰・范滂(はんぼう)・尹勳(いんくん)・巴肅(はしゅく)・宗慈・夏馥(かふく)・蔡衍(さいえん)・羊陟(ようちょく)を八顧(はっこ)と為す。言うは能く徳行を以って人を引くなり。張儉・翟超(てきちょう)・岑晊(しんしつ)・菀康(えんこう)・劉表・陳翔・孔(こういく)・檀敷(だんふ)を八及と為す。言うは能く人を導いて追宗(ついそう)せらる。度尚(たくしょう)・張邈(ちょうばく)・王孝・劉儒・胡毋班(こぶはん)・秦周(しんしゅう)・蕃嚮(ひきょう)・王章を八廚(はっちゅう)と為す。言うは能く利を以って人を救うなり。
陳蕃・竇武事を用うるに及んで、復た膺等を挙抜(きょばつ)す。陳・竇死して、膺等復た廃錮せらる。


相標 誉めはやす。 朱ウ ウかんむりに禹。 蕃嚮 蕃、姓の場合は「ひ」、名の場合は「ばん」

李膺は初め官職を廃され仕官の道を閉ざされたが、士大夫たちは皆その高潔さをほめ、かえって朝廷こそ汚濁に満ちているとして、さまざまな称号をつくって誉めたたえた。竇武・陳蕃・劉淑を三君と呼んだ。それは、この三人を世の宗師とするというのである。李膺・荀・杜密・王暢・劉祐・魏朗・趙典・朱ウを八俊と呼んだ。それは人の中の英傑であるとの意である。郭泰・范滂・尹勳・巴肅・宗慈・夏馥・蔡衍・羊陟を八顧と呼んだ。それは徳をもってよく人を引き立てるというのである。張儉・翟超・岑晊・菀康・劉表・陳翔・孔・檀敷を八及と呼んだ。よく人を導いて崇拝されるというのである。度尚・張邈・王孝・劉儒・胡毋班・秦周・蕃嚮・王章を八廚と呼んだ。よく人の難儀を救うというのである。
陳蕃と竇武が政権の座に就いてから李膺等を抜擢したが、陳竇二人が死ぬと再び李膺たちは官職から追放された。


十八史略 霊帝

2011-09-15 14:09:53 | 十八史略
宦官逆襲す
孝靈皇帝名宏、章帝玄孫也。年十二即位。竇太后臨朝。竇武爲大將軍、陳蕃爲太傅。徴天下名賢。李膺・杜密等、皆列于朝。天下想望太平。蕃・武共議、以宦官操弄國柄、濁亂海内、奏誅曹節・王甫等。謀泄。宦者夜召所親、歃血共盟、請帝御前殿、作詔板、拝王甫黄門令、使其黨持節収武等、誣以大逆。先執陳蕃殺之。武自殺。梟首都亭。遷太后於南宮。

孝霊皇帝名は宏、章帝の玄孫也。年十二にして位に即く。竇太后(とうたいこう)、朝に臨む。竇武を大将軍と為し、陳蕃を太傅(たいふ)と為す。天下の名賢を徴(め)す。李膺(りよう)・杜密等、皆朝に列す。天下太平を想望す。蕃・武共に議して、宦官国柄(こくへい)を操弄し、海内(かいだい)を濁乱するを以って、奏して曹節・王甫等を誅せんとす。謀(はかりごと)泄(も)る。宦者、夜親(しん)を召し、血を歃(すす)って共に盟(ちか)い、帝に請うて前殿に御せしめ、詔板(しょうはん)を作って、王甫を黄門令に拝し、其の党をして節を持して武等を収めしめ、誣(し)うるに大逆を以ってす。先ず陳蕃を執(とら)えて之を殺す。武自殺す。首を都亭に梟(きょう)す。太后を南宮に遷(うつ)す。

太傅 天子の師。 国柄 一国の政権。 親 仲間。 詔板 詔書と同じ。 節 君命を受けた使者が帯びるしるし。 誣 罪におとす。 梟す 木にかけてさらす、さらし首。

孝霊皇帝の名は宏、章帝の玄孫である。年十二歳で即位した。竇太后が朝廷に出て政治を執り、父の竇武を大将軍とし、陳蕃を太傅にして、天下の名高い賢者を招いた。李膺・杜密等も朝廷に出仕するようになり、人々はこれで天下太平を招来すると想い望んだ。陳蕃と竇武は協議して、宦官たちが国権をほしいままにし、天下を混乱させたとして、曹節・王甫等を誅殺するよう奏上する手はずを整えた。ところがこの謀が漏れて宦官たちが急遽仲間をあつめ、血をすすって盟い合った。そして霊帝に要請して前殿に出御させ、王甫を黄門令に任命する詔勅を作り、一味に天子の節を持たせて竇武らを捕えさせ、大逆罪の罪を負わせた。まず陳蕃を捕えて殺し、竇武は自殺した。そして首を洛陽の物見台にさらした。太后は南宮に移された。

十八史略 党錮の獄

2011-09-13 10:22:59 | 十八史略
たまたま成瑨と、太原郡の太守の劉しつが、赦免となった宦官の党派を取り調べて殺してしまった。桓帝は二人を召して投獄し、処刑して市にさらそうとした。また山陽郡の太守の翟超は張倹を督郵に登用して、宦官の規制を超えた墓や屋敷を取り壊した。東海王の宰相黄浮も、法を犯した宦官の家族を捕えて死刑に処した。宦官たちは冤罪であると訴え、翟超・張倹・黄浮は処罰された。太尉の陳蕃は再三帝を諌めて反対したが聞き入れなかった。宦官たちはさらに人を使って李膺を誣告する書をたてまつった。「李膺は太学の遊学の士を取り込んで、党派をつくり、朝廷を誹謗して風俗を惑乱しています」と。桓帝は激怒して、郡国に詔勅をくだして、党人を逮捕しようとした。その書類が三公の府に回付されたが、陳蕃は署名を拒否した。そのため帝はいよいよ怒って李膺たちを北寺の獄に投じた。告訴状には杜密・陳寔・范滂等二百人の名があがっており、使者が四方に追補に向かった。陳蕃は再び口を極めて諫言したので、帝は蕃を罷免してしまった。これで朝廷の百官はふるえあがり、それ以上党人のために弁護する者が居なくなった。潁川の賈彪がこれを聞き、「私が西に出向いて斡旋しなければこの大難は解決しまいよ」と言って洛陽に行き、皇后の父、竇武に説いて罪を赦すよう上疏させた。一方、取り調べでの供述には宦官の子弟の名も出たので、宦官たちはこれを懼れて、帝に奏上して党人二百余人を赦して故郷に帰らせ、その名を三公の府に書き留めて終身仕官の道をふさいだ。
在位二十一年、改元すること七回すなわち、建和・和平・元嘉・永興・永壽・延熹・永康である。桓帝は崩じた(167年)。竇皇后は、解瀆亭侯を迎えて帝位に即けた。これを孝霊皇帝という


十八史略 

2011-09-10 15:23:18 | 道ばたで見つけた
党錮の獄
會成瑨與太原守劉□、於赦後案殺宦官之黨。徴下獄、將棄市。山陽守翟超、以張儉爲督郵、破宦官踰制冢宅。東海相黄浮、亦收宦官家屬犯法者殺之。宦官訴寃。皆得罪。蕃屢爭之、上不聽。宦官教人上書告李膺。養太學遊士、共爲部黨、誹訕朝廷、疑亂風俗。上震怒、下郡國逮捕黨人。案經三府。蕃卻不肯署。上愈怒、下膺等北寺獄。辭連杜密・陳寔・范滂等二百餘人。使者追捕四出。蕃又極諫。上策免之。朝廷震慄。莫敢復爲黨人言者。賈彪曰、吾不西行、大難不解。乃入洛陽。説皇后父竇武、上疏解之。膺等獄辭、又多引宦官子弟。宦官乃懼、白上赦黨人二百餘人、皆歸田里、書名三府、禁錮終身。上在位二十一年、改元者七、曰建和・和平・元嘉・永興・永壽・延熹・永康。崩。竇皇后迎立解瀆亭侯。是爲孝靈皇帝。
会々(たまたま) 成瑨(せいしん)、太原の守(しゅ)劉しつと赦(しゃ)の後に於いて宦官の党を案殺す
。徴(め)して獄に下し、将に棄市(きし)せんとす。山陽の守翟超(てきちょう)、張倹(ちょうけん)を以って督郵と為し、宦官の制を踰(こ)える冢宅(ちょうたく)を破る。東海の相黄浮(こうふ)も亦、宦官の家属の法を犯せる者を収めて之を殺す。宦官冤(えん)を訴う。皆罪を得たり。蕃(ばん)しばしば之を争えども、上(しょう)聴かず。宦官人をして上書せしめて李膺(りよう)を告ぐ。太学の遊士を養い、共に部党を為し、朝廷を誹訕(ひせん)し、風俗を疑乱(ぎらん)す、と。上震怒(しんど)して、郡国に下(くだ)し、党人を逮捕せしむ。案三府を経たり。蕃卻(しりぞ)けて肯(あえ)て署せず。上愈々怒り、膺等を北寺の獄に下す。辞、杜密・陳寔(ちんしょく)・范滂(はんぼう)等二百余人に連なる。使者の追捕四出(ししゅつ)す。蕃又極諌(きょくかん)す。上、策して之を免ず。朝廷震慄(しんりつ)す。敢えて復(また)党人の為に言う者莫(な)し。賈彪(かひょう)曰く、吾西行(せいこう)せずんば、大難解けじ、と。乃ち洛陽に入って、皇后の父竇武(とうぶ)に説き、上疏(じょうそ)して之を解く。膺等の獄辞、又多く宦官の師弟を引く。宦官乃ち懼れ、上に白(もう)して党人二百余人を赦し、皆田里(でんり)に帰らしめ、名を三府に書して、終身を禁錮(きんこ)す。上、位に在ること二十一年、改元する者(こと)七、建和・和平・元嘉・永興・永壽・延熹・永康と曰う。崩ず。竇皇后、解瀆亭侯(かいとくていこう)を迎立(げいりつ)す。是を孝霊皇帝と為す。

劉しつ 王に質。 案殺 取調べのうえ殺すこと。 棄市 死体を市にさらすこと。 督郵 郡の太守の補佐官で政治を監督、査察する官。 冢宅 墓や邸宅。 家属 家族。 誹訕 誹、訕ともにそしる。 疑乱 惑乱。 三府 三公の府。 北寺の獄 北寺は宦官が仕える役所でそこの獄舎。 獄辞 獄での供述。 禁錮 仕官の道を塞ぐこと。

十八史略 党人の議

2011-09-08 09:24:32 | 十八史略
前回注釈で仁恕を仁如と書いてしまいました、恕はゆるすの意です訂正いたします。

劉寛を尚書令に任命した(165年)。寛は嘗て三郡の地方官を歴任し思いやりに篤い政治を行った。吏民に過ちがあると蒲の鞭で叩いて罰した。
桓帝が蠡吾侯(れいごこう)であった時、甘陵郡の周福から学問を受けたので、帝位に即くと周福を抜擢して尚書とした。そのころ同じ郡の房植は名望があったが、官職には就けなかった。それで甘陵ではこんな謡がはやった。
「天下の模範は房伯武、天子を教えた周仲進、天より印綬がころがり込んだ。」
房と周二家の食客たちは、互いの長短を言いつのって、不和になった。そのため甘陵は南北で対峙するようになり、いわゆる党人の争いはここから始まるのである。汝南郡の太守宗資は范滂を功曹の官につけ、南陽郡の太守成瑨は岑晊を功曹とした。滂も晊も善行を誉め、非緯を糾弾した。特に范滂は剛直で、悪を憎むこと仇敵のようであった。二つの郡の民が謡っていうには、
「汝南の太守は范猛博、南陽生まれの宗資はただめくら判。南陽の太守は岑公孝、弘農生まれの成瑨は詩をうなるだけ」
当時の太学の学生は三万余人。郭泰と賈彪の二人が主導して陳蕃と李膺とは互いに尊びあっていた。そこで太学の中では「天下の模範は李元礼(李膺)、凶悪人を恐れないのは陳仲挙(陳蕃)」と言いあった。そこで朝廷の内外ともに、この風潮がひろがり、人の善悪を評価することが重んじられるようになった。