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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 王莽、平帝を毒殺し孺子嬰を立てる

2011-04-07 11:05:53 | 十八史略

臘日、莽上椒酒於帝、置毒。帝崩。在位六年、改元者一、曰元始。太皇太后詔徵宣帝玄孫嬰、爲皇太子。號曰孺子嬰。莽居攝踐祚、贊曰假皇帝、民臣謂之攝皇帝。
孺子嬰爲嗣之初、是爲王莽居攝元年。劉崇起兵討莽、不克死。
二年、東郡太守翟義、故丞相方進子也。起兵討莽、不克死。

臘日(ろうじつ)、莽、椒酒(しょうしゅ)を帝に上り、毒を置く。帝崩ず。在位六年、改元する者(こと)一、元始と曰(い)う。太皇太后、詔(みことのり)して宣帝の玄孫嬰(えい)を徴(ちょう)して皇太子と為す。号して孺子嬰(じゅし、えい)と曰う。莽、摂(せつ)に居て祚(そ)を践(ふ)み、賛するに仮皇帝と曰い、民臣は之を摂皇帝(せつこうてい)と謂う。
孺子嬰、嗣たるの初め、是を王莽の居摂(きょせつ)元年と為す。劉崇(りゅうしゅう)、兵を起こして莽を討ち克(か)たずして死せり。
二年、東郡の太守翟義(てきぎ)は、故(もと)の丞相方進の子なり。兵を起こして莽を討ち克たずして死せり。

十二月臘祭の日、王莽は椒酒を献上したが、その中に毒を仕込んでいた。それを飲んで平帝が亡くなった。在位六年、改元は一度、元始といった。太皇太后が詔を下し、宣帝の玄孫で二歳の嬰を召し出して皇太子とした。これを孺子嬰という。王莽は摂政でありながら践祚した。また祭祝の辞文には自身を仮皇帝といい、官民は摂政にして帝位に就いたことで摂皇帝といった。
孺子嬰が世嗣となった年を王莽の居摂元年(西暦6年)という。この年、劉崇が兵を起こして王莽を討とうとしたが勝たずに死んだ。
二年に東郡の太守で、もとの丞相の子の翟義が兵を起こして、王莽に敗れて死んだ。
臘日 冬至後第三戌の日に行う猟の獲物を先祖に供える祭り。椒酒 山椒の実に薬種を加え浸した酒。

十八史略  平帝 

2011-04-05 12:59:35 | 十八史略

孝平皇帝名箕子。後更名衎。中山孝王興之子、元帝孫也。哀帝崩、立爲嗣。太皇太后臨朝。大司馬莽秉政。百官總己以聽。元始元年、莽爲安漢公。
四年、聘莽女爲皇后、加安漢公號宰衡、位諸侯王上。
五年、太師孔光卒。成哀以來、光等爲三公、養成漢禍、諂佞成風。上書頌莽者、至四十八萬人。加莽九錫。

孝平皇帝名は箕子(きし)。後に名を衎(かん)と改む。中山(ちゅうざん)の孝王興(こう)の子、元帝の孫なり。哀帝崩じ、立って嗣となる。太皇太后、朝(ちょう)に臨む。大司馬莽、政を秉(と)る。百官己を総(す)べて以って聴く。
元始元年、 莽を安漢公と為す。
四年、莽の女(むすめ)を聘(へい)して皇后と為し、安漢公に号宰衡を加えて、諸侯王の上に位せしむ。
五年、太師孔光卒す。成哀以来、光等、三公と為り、漢の禍を養成し、諂佞(てんねい)、風(ふう)を成す。書を上(たてまつ)って莽を頌(しょう)する者、四十八万人に至る。莽に九錫を加う。

孝平皇帝は名を箕子と言い、のちに衎と改めた。中山の孝王の子で元帝の孫にたる。哀帝が崩御したため帝位を嗣いだ。帝は幼かったので太皇太后が朝廷に臨み、王莽が政務を執った。百官はみな自分の職務について王莽に指図を仰ぐようになった。
元始元年(後1年) 王莽に安漢公の尊号を与えた。
四年、王莽の娘を皇后にし、安漢公に宰衡という号を加えて、諸王、諸侯よりも上の位にした。
五年、太師孔光が死んだ。成帝、哀帝以来、孔光等が三公となって漢のわざわいを醸成し、媚びへつらう風習が蔓延した。それで上書して王莽を讃える者が四十八万人におよび、王莽に九錫(きゅうしゃく)を賜った。

宰衡 その昔、周公は冢宰(ちょうさい)となって成王を補佐し、殷の伊尹(いいん)は湯王を補佐して阿衡と呼ばれた。この二人を合わせ持ったとして与えられた称号。 九錫 天子から賜る九種の品や特典。輿馬、衣服、楽器、虎賁(勇者三百人)、弓矢、鈇鉞(ふえつ=殺生の権)、秬鬯(きょちょう=祭酒)、朱戸(朱塗りの門)、納陛(宮殿内の階段、取り次ぎ無しで直接天子に謁見できる権利)。

十八史略 哀帝

2011-04-02 08:26:41 | 十八史略

孝哀皇帝名欣。定陶恭王康之子、元帝之孫也。祖母傅氏、母丁氏。成帝無子。故立爲太子。至是即位。丁・傅用事罷大司馬莽就第。
建平元年、用夏賀良言。漢歴中衰。當更受天命、宜急改元易號。乃改元太初、更號陳聖劉太平皇帝。尋罷改元更號事、誅夏賀良等。
帝幸董賢。元壽元年、以賢爲大司馬。二年、帝崩。賢自殺。
帝在位七年、改元者二、曰建平・元壽。太皇太后、以王莽爲大司馬、領尚書事、迎中山王即位。是爲孝平皇帝。

孝哀皇帝名は欣。定陶恭王(ていとうきょうおう)康の子、元帝の孫なり。祖母は傅(ふ)氏、母は丁氏。成帝子無し。故に立てて太子と為す。是(ここ)に至って位に即く。丁・傅、事を用い、大司馬莽を罷(や)めて第(てい)に就(つ)かしむ。
建平元年、夏賀良(かがりょう)の言を用う。漢歴中ごろ衰う。当(まさ)に天命を更(あらた)め受くべく、宜しく急に元を改め号を易(か)うべし、と。乃(すな)ち太初と改元し、更に陳聖劉太平皇帝と号す。尋(つ)いで改元更号の事を罷(や)めて、夏賀良等を誅す。
帝、董賢を幸(こう)す。元壽元年、賢を以って大司馬と為す。二年、帝崩ず。賢自殺す。
帝、位に在ること七年、改元する者(こと)二、建平・元壽と曰う。太皇太后、王莽を以って大司馬と為し、尚書の事を領せしめ、中山王を迎えて位に即かしむ。是を孝平皇帝と為す。

孝哀皇帝名は欣といい、 定陶の恭王、康の子で、元帝の孫にあたる。祖母は傅氏、母は丁氏である。成帝に子がなかったので、立てて太子とした。帝が亡くなるに及んで位に即いた。丁氏・傅氏が政権を握り、王莽を罷免して自邸に帰らせた。
建平元年に夏賀良という者が、「漢の運気が衰えかけております。今改めて天命を受けるべく、年号を改め、帝号を変えられるのがよろしいと存じます」と言上した。そこで年号を太初と改元して、更に帝号を陳聖劉太平皇帝とあらためた。ところが一向に効果が無いとして改元、改号のことをとり止め、夏賀良等を誅殺した。
哀帝は董賢というものを寵愛し、元壽元年に、董賢を大司馬とした。二年に、哀帝が」崩御し、董賢は自殺した。
帝は位にあること七年、年号を改めること二度、即ち建平、元壽である。帝の没後、太皇太后(王氏)は、王莽を大司馬にして尚書のことを統括させた。また中山王を迎えて帝位に即かせた。これを孝平皇帝(平帝)という。