臘日、莽上椒酒於帝、置毒。帝崩。在位六年、改元者一、曰元始。太皇太后詔徵宣帝玄孫嬰、爲皇太子。號曰孺子嬰。莽居攝踐祚、贊曰假皇帝、民臣謂之攝皇帝。
孺子嬰爲嗣之初、是爲王莽居攝元年。劉崇起兵討莽、不克死。
二年、東郡太守翟義、故丞相方進子也。起兵討莽、不克死。
臘日(ろうじつ)、莽、椒酒(しょうしゅ)を帝に上り、毒を置く。帝崩ず。在位六年、改元する者(こと)一、元始と曰(い)う。太皇太后、詔(みことのり)して宣帝の玄孫嬰(えい)を徴(ちょう)して皇太子と為す。号して孺子嬰(じゅし、えい)と曰う。莽、摂(せつ)に居て祚(そ)を践(ふ)み、賛するに仮皇帝と曰い、民臣は之を摂皇帝(せつこうてい)と謂う。
孺子嬰、嗣たるの初め、是を王莽の居摂(きょせつ)元年と為す。劉崇(りゅうしゅう)、兵を起こして莽を討ち克(か)たずして死せり。
二年、東郡の太守翟義(てきぎ)は、故(もと)の丞相方進の子なり。兵を起こして莽を討ち克たずして死せり。
十二月臘祭の日、王莽は椒酒を献上したが、その中に毒を仕込んでいた。それを飲んで平帝が亡くなった。在位六年、改元は一度、元始といった。太皇太后が詔を下し、宣帝の玄孫で二歳の嬰を召し出して皇太子とした。これを孺子嬰という。王莽は摂政でありながら践祚した。また祭祝の辞文には自身を仮皇帝といい、官民は摂政にして帝位に就いたことで摂皇帝といった。
孺子嬰が世嗣となった年を王莽の居摂元年(西暦6年)という。この年、劉崇が兵を起こして王莽を討とうとしたが勝たずに死んだ。
二年に東郡の太守で、もとの丞相の子の翟義が兵を起こして、王莽に敗れて死んだ。
臘日 冬至後第三戌の日に行う猟の獲物を先祖に供える祭り。椒酒 山椒の実に薬種を加え浸した酒。