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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 謳吟して漢を思うこと久し。

2011-04-19 12:16:49 | 十八史略

王莽がまだ帝位を奪わなかった時、官の名称や十二州の境界を、廃止したり新設したり、天下は多事であった。また錯刀・契刀・大銭等の貨幣を新たに鋳造した。やがて位を奪うと、漢室の姓である劉の字は卯と金と刀とで成り立っているとして、印章の剛卯と、貨幣の金刀の使用を禁じて、使うことが出来ないようにした。さらに錯刀・契刀・五銖銭なども廃止した。天下の田地を改称して「王田」と呼び、売買を禁止し、男子の数が八人に満たない家で、田地が一井(九百畝)を過ぎる者はその余分の田地を分けて、親族や郷党に与えさせた。でそれで今まで田地の無かった者が田地を持つことができた。五均・司市・銭府といった役所をつくり、民がそれぞれ生業とするもので年貢を納めさせるようにした。貨幣をすべて改めた。金銀、亀、貝、銭、布の五物、六名、二十八品に分類された。あまりの煩雑さで人々が混乱し、貨幣が通用しなくなって小銭、大銭を流通させた。あまり数しば変更したので信用がなくなった。偽造する者や、廃止した五銖銭を密かに所持する者は罪に問うことにした。このようになって農民も商人も仕事を失い、食物、貨幣ともに流通が止まって、人々は道端に泣き叫ぶばかりとなった。後にまた貨布、貨泉を改めた。一たび貨幣を改める度に、民は私鋳を禁ずる法に触れる者が続出し、護送車に乗る者、首を鎖で繋がれて長安に送られる者が十万以上におよび、その十人に六、七人が命を落とした。制度を度々変え、政令も煩瑣をきわめたので天下は騒然となり、人々は歌に託して漢の世を懐かしく思い続けた。

剛卯 毎年一月の卯の日に印章を佩びて厄除けをする習わしがあった。
五均 市場の物価を調整する役所で長安ほか五箇所に設けた  司市 
四季ごとに標準価格を定める。 銭府 低利で金銭を貸し付ける官。 五物 貨幣の材料となる金銀銅亀貝。六名 黄金、銀貨、亀甲、貝貨、銭貨、布貨。二十八品 金貨は一、銀貨は二種、亀貨は四種、貝貨は五種、銭貨は六種、布貨は十種、計二十八品種。 貨布 鋤や鍬をかたどった青銅製の貨幣。貨泉 円形方形孔の銅銭で貨泉の二字を刻した。

十八史略 謳吟して漢を思うこと久し

2011-04-16 10:31:02 | 十八史略

莽未簒時、更定官名及十二州界、罷置改易、天下多事。更造錯刀・契刀・大錢等貨。既簒位、以劉字卯金刀也、禁剛卯金刀之利、不得行。罷錯刀・契刀・五銖錢等。更名天下田曰王田、不得買賣。男口不盈八、而田過一井、分餘田予九族郷里。故無田者受田。立五均・司市・錢府官、令民各以所業爲貢。更作寶貨。有金銀・龜貝・錢布・五物・六名・二十八品。百姓潰亂、寶貨不行。乃行小錢・大錢。數更變不信。盜鑄及私挾五銖錢者抵罪。於是農商失業、食貨倶廢、民至涕泣市道。後又改貨布・貨泉。毎一易錢、民又大陥犯鑄錢法、檻車鎖頸、傳詣長安者、以十萬數。死什六七。改易制度、政令煩多。四方囂然、謳吟思漢久矣。

莽、未だ簒(さん)せざる時、官名及び十二州の界(さかい)を更定(こうてい)し、罷置改易(ひちかいえき)し、天下多事なり。錯刀(さくとう)・契刀(けいとう)・大銭等の貨を更造(こうぞう)す。既に位を簒(うば)うや、劉の字は卯金刀なるを以って、剛卯(ごうぼう)金刀の利を禁じて、行うを得ざらしむ。錯刀・契刀・五銖銭等を罷(や)む。天下の田(でん)を更名(こうめい)して王田と曰い、買売するを得ざらしむ。男口(だんこう)八に盈(み)たずして、田、一井(いっせい)に過ぐるものは、余田を分って九族郷里に予(あた)えしむ。故に田無きものも田を受く。五均・司市(しし)・銭府の官を立て、民をして各々業とする所を以って貢(こう)を為さしむ。宝貨を更作(こうさく)す。金銀・亀貝(きばい)・銭布・五物・六名(りくめい)・二十八品有り。百姓(ひゃくせい)潰乱(かいらん)し、宝貨行われず。乃(すなわ)ち小銭・大銭を行う。数しば更変して信ならず。盗鋳するもの、及び私(ひそか)に五銖銭(ごしゅせん)を挟む者は罪に抵(いた)る。是に於いて農商、業を失い、食貨俱(とも)に廃(すた)れ、民、市道に涕泣するに至る。後又貨布・貨泉(かせん)を改む。一たび銭を易(か)うる毎に、民また大いに鋳銭法を陥犯(かんはん)し、檻車鎖頸(さけい)、伝(でん)して長安に詣(いた)る者、十万を以って数う。死するもの什に六七なり。制度を改易し、政令煩多なり。四方囂然(ごうぜん)、謳吟して漢を思うこと久し。

解説文は次回19日に掲載します。

十八史略 衆兵、莽を誅し首を伝えて更始にいたる。

2011-04-14 10:01:51 | 十八史略

瑯琊樊崇・東海刁子都等兵起。  地皇三年、崇兵自號赤眉。  緑林兵、分爲下江・新市兵。 荊州平林兵起。
漢宗室劉縯、及弟秀、起兵舂陵。新市・平林兵皆附之。明年、諸將共立劉玄爲皇帝。玄舂陵戴侯買之後、與縯秀同高祖。時在平林軍中、號更始將軍。諸將貪其懦弱立之。南面立朝羣臣、以手刮席、羞愧流汗、不能言。大赦改元更始、都于宛。更始元年、劉秀大破莽兵於昆陽。
成紀隗囂兵起。  公孫述起兵成都。  更始遣將破武關。析人曄、起兵迎入長安。衆兵誅莽傳首詣更始。

瑯琊(ろうや)の樊崇(はんすう)・東海の刁子都(ちょうしと)等の兵起こる。
地皇三年、崇の兵自ら赤眉(せきび)と号す。
緑林の兵、分かれて下江・新市の兵と為る。
荊州平林兵起こる。
漢の宗室劉縯(りゅうえん)、及弟秀、兵を舂陵(しょうりょう)に起こす。新市・平林の兵皆之に附く。明年、諸将共に劉玄を立てて皇帝と為す。玄は舂陵の戴侯買(たいこう ばい)の後にして、縯・秀と高祖を同じうす。時に平林の軍中に在り、更始将軍と号す。諸将、其の懦弱を貪って之を立つ。南面に立って群臣を朝(ちょう)せしむるに、手を以って 席を刮(かっ)し、羞愧(しゅうき)して汗を流し、言うこと能(あた)わず。大赦して、更始と改元し、宛(えん)に都(みやこ)す。
更始元年、劉秀大いに莽の兵を昆陽に破る。  成紀の隗囂(かいごう)の兵起こる。  公孫述(こうそんじゅつ)、兵を成都に起こす。
更始、将を遣わして武関を破る。析(せき)の人曄(とうよう)、兵を起こして、長安に迎え入る。衆兵、莽を誅し、首を伝えて更始に詣(いた)る。

この年、瑯琊の樊崇・東海の刁子都等の兵起こった。
地皇三年(22年)、樊崇の兵は自ら眉を赤く染めて赤眉(せきび)と名乗った。
緑林の兵が、分かれて下江と新市の兵となった。
荊州平林の兵が起こった。
漢室の血筋を引く劉縯と弟の劉秀が舂陵に兵を起こした。新市・平林の兵がつき従った。明年、諸将が劉玄を担いで皇帝に立てた。劉玄は舂陵に封ぜられた戴侯買の子孫で劉縯・劉秀とは四代前の先祖が同じである。当時、平林の軍中にあって更始将軍と呼ばれていた。諸将は劉玄が懦弱であることにつけ込んで皇帝にまつりあげたのである。南面して玉座に立ち群臣の拝謁を受けたが手で敷物をさするばかりで羞恥と不安に冷や汗を流すばかりで一言も発することが出来なかった。かくして即位の大赦が行われ、年号を更始と改め、都を宛に定めた。
更始元年(23年) 劉秀が昆陽にて王莽の軍を大破した。
成紀の人隗囂が挙兵した。 
公孫述が成都に兵を起こした。
更始皇帝が将を派遣して武関を突破し、析(せき)の人曄が挙兵して呼応し、更始軍を長安に迎え入れた。多くの兵が王莽に襲いかかり、その首を更始帝のもとに送り伝えた

舂陵 湖北省にある。うすづくという字。 高祖 遠い祖先。 刮 こする。 詣 いたる行き着く。

十八史略 揚雄、閣上より身を投ず。

2011-04-12 14:37:43 | 十八史略

始建國元年、廢孺子嬰爲定安公。
二年、漢太皇太后崩。
天鳳四年、荊州盜起。新市人王匡爲之帥、馬武・王常・成丹往從之、藏於緑林山中。
五年、莽大夫揚雄死。雄字子雲、成帝之世、以奏賦爲郎、給仕黄門、三世不徙官。及莽簒、以耆老久次、轉爲大夫。嘗作太玄・法言、卒章稱莽功、比伊周。後又作劇秦美新之文、以頌莽。劉棻嘗從雄學奇字。棻坐事誅。辭連及雄。時雄校書天禄閣上。使者來欲収之。雄從閣上自投下。莽詔勿問。至是死。

始建国元年、孺子嬰を廃し定安公と為す。
二年、漢の太皇太后崩ず。
天鳳四年、荊州に盜起こる。新市の人王匡、之が帥(すい)と為り、馬武・王常・成丹、往(ゆ)いて之に従い、緑林山中に蔵(かく)る。
五年、莽の大夫揚雄死す。雄、字は子雲、成帝の世、賦を奏するを以って郎と為り、黄門に給仕して、三世、官を徒(うつ)さず。莽の簒(さん)するに及んで、耆老久次(きろうきゅうじ)を以って、転じて大夫と為る。嘗て太玄・法言を作り、卒章に莽の功徳(こうとく)を称して、伊周に比す。後また劇秦美新の文を作り、以って莽を頌(しょう)す。劉棻(りゅうふん)嘗て雄に従って奇字を学ぶ。棻、事に坐して誅せらる。辞、雄に連及す。時に雄、書を天禄閣上に校(こう)す。使者来たって之を収めんと欲す。雄、閣上より自ら投下す。莽、詔(みことのり)して問うこと勿(な)からしむ。是(ここ)に至って死す。

始建国元年(後9年)、孺子嬰を世嗣から廃して定安公とした。
二年、漢の太皇太后が崩じた。
天鳳四年(17年)、荊州に盜賊が起こった。新市の人王匡が首領となり、馬武・王常・成丹、たちがこれに従い、緑林の山中に立てこもった。
五年、王莽の大夫の揚雄が死んだ。雄は字を子雲といい、成帝の世に、賦を奏上して郎中に取り立てられ、殿中の給仕中となった。成帝・哀帝・平帝の三代、官職が変わらなかったが、王莽が帝位を奪うと、老年になるまで久しくその官にあったということで、大夫となった。嘗て易と論語に擬して太玄と法言の二書を著し、その終章で王莽の功徳を称して古の伊尹・周公になぞらえた。後にまた「秦をそしり、新をたたえる」という文章を作り、王莽を賞賛した。劉棻(りゅうふん)という者が、かつて揚雄について周代文字大篆(だいてん)を学んだことがある。その劉棻が罪に問われて誅殺されたが、共述に揚雄の名が挙っていた。揚雄が天禄閣で書物の校正をしていた時に取り調べの使者が身柄を拘束するために来たところ、雄は閣から身を躍らせて死にかけた。王莽は揚雄を問責しないよう詔を下した。それで生き延びてこの年に死んだのである。

緑林 後に盗賊のことを緑林というようになった。 賦 文体の一種、韻文。 黄門 宮城の門、広く宮中の役所の意。 給仕中 下級官吏、奏上の事務などを行う。 耆老久次 老年まで職にあること。太玄・法言 太玄経 易になぞらえた占いの書、宇宙万物の根本を論じた。法言 揚子法言 論語になぞらえて、天道と人道との関係を説く。 卒章 章の終わり。 劇秦美新 秦をそしり新を称える

十八史略 王莽帝位を簒奪し、国号を新と改める

2011-04-09 08:59:59 | 十八史略
初始元年、莽即眞天子位、國號新。更號漢太皇太后、曰新室文母太皇太后。
王莽者王曼之子也。孝元皇后兄弟八人。獨曼早死不侯。莽幼孤。羣兄弟皆將軍、五侯子、乗時侈靡、以輿馬聲色、佚游相高。莽折節爲恭儉、勤身博學、被服如儒生。外交英俊、内事諸父、曲有禮意。封新都侯。爵位尊、節操愈謙。虛譽隆洽、傾其諸父。遂得漢政。哀帝崩、迎立平帝。五年而弑帝、攝位三年、畢簒位、國號新。

初始元年、莽、真天子の位に即き、国を新と号す。漢の太皇太后を更(あらた)め号して、新室文母太皇太后と曰う。王莽は王曼(おうまん)の子なり。孝元皇后
の兄弟(けいてい)八人あり。独り曼、早く死して侯たらず。莽、幼にして孤なり。群兄弟は皆将軍、五侯の子、時に乗じて侈靡(しび)、輿馬(よば)声色を以って、佚游(いつゆう)して相高ぶる。莽、節を折って恭倹をなし、身を勤めて博く学び、被服、儒生の如し。外は英俊に交わり、内は諸父に事(つか)え、曲(つぶさ)に礼意有り。新都侯に封ぜらる。爵位益々尊く、節操愈々謙なり。虚譽隆洽(きょよりゅうこう)なること、その諸父を傾く。遂に漢の政(まつりごと)を得たり。哀帝崩じて、平帝を迎立(げいりつ)す。五年にして帝を弑(しい)し、位に摂すること三年、竟(つい)に位を簒(うば)い、国を新と号す。

初始元年(後8年)に王莽が天子の位に即き、国を新と改めた。また漢の太皇太后も改めて新室文母太皇太后といった。
王莽は王曼の子で、孝元帝の皇后王氏つまり太皇太后には八人の兄弟があったが、王曼だけが早く死んで、諸侯になれなかった。王莽は幼くして孤児となった。多くの従兄弟たちは将軍や五侯の子として時運に乗じて贅沢にふけり、車馬もきらびやかに歌舞や妓楼に遊びほうけていた。王莽だけは身を低く慎み深く振る舞い、勤めて学問をひろく修め、衣服は書生のように質素であった。外にあっては英俊と交わり、内では伯父たちにつかえて礼節をつくした。やがて
新都侯に封ぜられた。さらに爵位が上がるにつれて謙虚にふるまった。虚名はあまねく天下に知れ渡り、その人気は伯父たちを凌ぐようになり、ついに漢の政治の実権を握った。哀帝が崩御して平帝を迎えて擁立し、五年後には毒殺し、摂政となること三年、ついに天子の位を簒奪して、国号を新とした。