孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。
景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。
以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。
内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ
景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。
以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。
内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ