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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

城西地区ことぶき吟詠剣詩舞のつどい開催

2010-06-18 16:57:08 | 詩吟
突然ですが明日6月19日、野方区民ホールに於いて城西地区ことぶき吟剣詩舞の集いが開催されます。中野・新宿・練馬・杉並各区連盟から70歳以上の人たちが集って、日ごろの修練の成果を披露するわけです。御前10時より午後4時ごろまで漢詩、和歌の吟詠から、剣舞、詩舞の熱演まで見ごたえのある舞台が続きます。
ちかごろ下火になりましたが、ともすれば誤解を招きかねない芸人の詩吟と称する悪ふざけとは全く違う、魂の叫びをどうぞお聞きになってください。もちろん無料です。

十八史略 物盛んにして衰うる

2010-06-17 08:42:38 | 十八史略
爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。

吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。
帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。

官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。
すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。
景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。

重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。

十八史略

2010-06-15 08:32:52 | 十八史略
自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。

漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、
黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。
漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく

黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。
廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉

十八史略  周亜夫、血を吐きて死す。

2010-06-12 14:18:58 | 十八史略
初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。

初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。
鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。

緩急 危急の場合  太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。
鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと

以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。
ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。
一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ

十八史略 呉楚七国の乱

2010-06-10 08:26:59 | 十八史略
及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。

帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。

景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。