寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 付録

2009-06-09 17:39:25 | Weblog
殷~戦国時代略年表
前1550年頃 殷王朝成立
前1050年頃 殷滅び周王朝成立。諸侯を封建
前841年 周王、貴族に追放され共和制となる
前827年 周王朝を復興中央集権を強める
前779年 褒姒を皇后とし、諸侯が離反した
前771年 申侯が犬戎と共に都を攻め幽王は殺されて西周滅ぶ
前722年 「春秋」記載始まる
前707年 桓王が蔡・衛の兵を率いて鄭を攻め、敗れて負傷した
前685年 斉の桓公が即位し管仲を相とした          2008/12/27
前678年 晋の分家曲沃の武公が本家緡侯を殺し、晋侯として周王から承認された
前651年 斉桓公が覇業を完成した
前635年 宋襄公が楚に敗れて覇者になれなかった (宋襄の仁) 2008/12/6
前632年 晋文公が楚を破り覇者となった  (重耳) 2008/12/28
前623年 秦穆公が西戎を破り、西の覇者となった
前606年 楚荘王が鼎の軽重を問うた
前597年 楚が鄭を攻め救援の晋を邲で大敗させた
前585年 呉王寿夢が周王室に入朝した 2008/12/1
前575年 晋が楚を大敗させた
前552年 孔子が魯で生まれた
前546年 宋の大夫向戌が晋・楚・魯・衛・鄭の大夫と和平を盟った
前517年 魯の昭公が三桓氏に敗れ、斉に亡命した
前500年頃 晏嬰歿す                    2009/1/2
前494年 呉王夫差が越王勾践を降伏させた
前482年 呉王夫差が黄池で諸侯と会盟した  越が呉に攻め入った
前481年 「春秋」この年で終る
前479年 孔子が死んだ
前473年 呉王夫差、越王勾践に敗れ、呉が滅んだ 2008/12/3
前453年 晋の三大夫 韓・魏・趙が知伯を滅ぼし晋を三分した 2009/1/6
前447年 楚が蔡を滅ぼした
前403年 韓・魏・趙が周王より諸侯として認められた 2009/3/9
前386年 斉の大夫田和が国を奪い、諸侯となった 2009/1/5
前375年 韓が鄭を滅ぼした
前359年 秦の孝公が商鞅を任用し第一回の変法をおこなった
前353年 斉が桂陵で魏に大勝した
前350年 秦が咸陽に遷都、県制を布く、商鞅第二回の変法
前341年 斉の将孫臏が馬陵で魏の龐溳を大敗させる 2009/1/10
前333年 斉が楚に徐州で大敗した
前318年 韓・魏・趙・燕・楚が合従して秦を攻め、勝たずに引いた
前299年 楚懐王が秦に欺き捕えられて死んだ
前288年 斉が東帝、秦が西帝と称した
前286年 斉が宋を滅ぼした
前284年 燕・秦・韓・魏・趙・楚が合従して斉を攻め燕の樂毅が臨湽に攻め入った
前278年 秦の将白起が楚の都郢を降した
前277年 屈原汨羅に投ず
前260年 秦が趙を長平で大敗させ、趙兵40万人を坑埋めにした 2009/2/18
前259年 秦王政生まれる
前256年 楚が魯を滅ぼした
      秦が周を滅ぼした
前247年 政、秦王となる
前230年 秦が韓を滅ぼした
前228年 秦が趙を滅ぼした
前227年 刺客荊軻、秦王政をねらう             
前225年 秦が魏を滅ぼした
前223年 秦が楚を滅ぼした
前222年 秦が燕を滅ぼした
前221年 秦が斉を滅ぼした

十八史略拾い読み 是に至って遂に秦に併せらる。

2009-06-04 09:37:49 | Weblog
黄帝以来、天下列百里之國萬区。蓋自中國以達于四裔。中國之制、可攷於王制者、九州千七百七十三國。古之建侯、各君其國、各子其民、而宗主於天子。歴夏・殷至周、強併弱、大呑小、春秋十二國外、存者無幾、戰國存者六七。至是遂併於秦。

黄帝より以来、天下、百里の国を列(つら)ぬること萬区。蓋し中国より以て四裔に達す。中国の制、王制に攷(かんが)う可き者は、九州千七百七十三国なり。古の候を建つるや、各々其の国に君とし、各々其の民を子とし、而して天子を宗主とす。夏・殷を歴(へ)て周に至り、強は弱を併せ、大は小を呑み、春秋には十二国の外、存する者幾ばくも無く、戦国には存する者六七のみ。是に至って遂に秦に併せらる。

黄帝以来中国の天下に百里四方の国が一万もあった。まことに四方隅々まで令が達していた。中国の制では、礼記王制篇によって知れることは九州(冀・兗・青・除・揚・荊・予・梁・雍)の中に千七百七十三国あった。その昔、諸侯を置いた時、諸侯はそれぞれその国の君主となり、それぞれその民を我が子の如く慈しみ、天子を宗家と仰いだ。夏・殷を歴て周に至り、強国は弱国を併せ、大国は小国を呑み込んで春秋には十二国(魯・衛・晋・鄭・曹・蔡・燕・斉・宋・陳・楚・秦)のほか無く、戦国には七国(秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙)だけとなった。そしてとうとう秦に併合されてしまった。

十八史略拾い読み  四時の序、功をなす者は去る

2009-06-03 08:58:11 | Weblog
王既用睢策、歳加兵三晉、斬首數萬。周赧王恐、與諸侯約從、欲伐秦。秦攻周。赧王入秦、頓首請罪、盡獻其邑三十六。周亡。秦將武安君白起、與范睢有隙。廢爲士伍、賜劍死亍杜郵。王臨朝而歎曰、内無良將、外多強敵。睢懼。蔡澤曰、四時之序、成功者去。睢稱病。澤代之。昭襄王薨。子孝文王柱立。薨。子莊襄王楚立。薨。嗣爲王者政也。遂并六國。是爲秦始皇帝。

王既に睢の策を用い、歳ごとに兵を三晋に加え、首を斬ること数万なり。周の赧王恐れて、諸侯と従を約し、秦を討たんと欲す。秦周を攻む。赧王秦に入り、頓首して罪を請い、尽く其の邑三十六を献ず。周亡ぶ。秦の将武安君白起、范睢と隙(げき)有り。廃せられて士伍と為り、剣を賜うて杜郵に死す。王、朝に臨んで歎じて曰く、内に良将無く、外に強敵多しと。睢懼(おそ)る。蔡澤(さいたく)曰く、四時(しいじ)の序、功を成す者は去ると。睢、病と称す。澤之に代る。昭襄王薨じて、子孝文王柱立つ。薨ず。子莊襄王楚立つ。薨ず。嗣(つ)いで王と為る者は政なり。遂に六国を併す。是を秦の始皇帝と為す。

従を約し 合従の策  隙 仲違い  士伍 五人一組の長  杜郵 杜(地名)の宿場  四時の序  春夏秋冬の順序 春の役目を果したら夏に役目を代るように、功成り名遂げたら去るが宜しかろう

十八史略拾い読み 一飯の徳も必ず償い、睚眦の怨みも必ず報いたり

2009-06-01 17:58:35 | Weblog
武王の最期は力士孟説と力くらべをして鼎を持ち上げたところ、脈を絶って死んだという。
続き
弟の昭襄王稷(しょく)立つ。魏人范睢(はんすい)という者有り。嘗て須賈(しゅか)に従って齊に使す。齊王、其の辯口を聞き、乃ち之に金及び牛・酒を賜う。賈、睢が國の陰事を以て齊に告げしかと疑い、帰って魏の相の魏齊(ぎせい)に告ぐ。魏齊怒り、睢を笞撃(ちげき)し、脋(きょう)を折り、歯を拉(くだ)く。-中略
睢、出づるを得、姓名を更めて張禄(ちょうろく)と曰う。秦の使者王稽、魏に至り、濳かに載せて與(とも)に帰り、昭襄王に薦めて、以て客卿と為す。教うるに遠交近攻の策を以てす。時に穣侯魏冉、事を用う。睢、王に説いて之を廃せしめ、而して代って丞相と為り、應侯と号す。
魏、須賈をして秦に聘(へい)せしむ。睢、弊衣間歩し、往いて之を見る。賈驚いて曰く范叔、固(まこと)につつが無きか、と。留まり坐して飲食せしめ、曰く、范叔、一寒此くの如きか、と。一綈袍(ていほう)を取って之に贈る。
 やがて范睢は須賈のために申し出て、私が宰相に取り次いで来ますと、屋敷に入った。須賈はいつまで経っても出て来ないので、不審に思い門番に尋ねたところ、先ほどお入りになった方は宰相の張禄さまですよ、と。はっと気づいて范睢は膝でにじり歩いて邸内に入って罪を詫びた。睢は坐ったまま須賈を責めて「お前が殺されずにすんでいる訳は、あの綿入れを贈ってくれたことが、なつかしく昔馴染みの心もちが残っていたからだ」と。やがて、他の使者をも招待してご馳走の用意をしたが須賈の前には飼い葉桶が置いてあるだけであった。その上「帰って魏王に告げよ、速やかに魏齊の頭を斬り来たれ」と。魏齊逃げてのち死す。
睢既に志を秦に得、一飯の徳も必ず償い、睚眦(がいさい)の怨みも必ず報いたり。