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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略拾い読み 刺客

2009-02-04 14:56:17 | Weblog
 知伯の臣、予譲は仇を取ろうとして囚人になりすまし、あいくちをしのばせて、厠の壁塗りをしていた。襄子が厠に行くと、殺気を感じたので調べさせたところ予譲がとらえられた。襄子が「おまえは以前范氏にも中行氏にも仕えたではないか、知伯が范氏も中行氏も滅ぼしたのに、仇を討とうとしないで、その知伯に礼物まで差し出して臣となった。そして知伯が死ぬと一人でわしをつけねらう。どうしてそこまで執念深いのだ」と。
予譲が答えて言うには「范氏も中行氏も私を普通の人間として遇した。だから私は普通の人間として報いた。知伯様は国士として私を待遇してくれた、だから国士として報いた」これを聞いて襄子は、「義に篤い漢だ赦してやれ、こちらが避けるだけだ」といった。

質(し)進物のこと、委は置くこと。君臣を約すとき進物を差し出して君の前に置くことを礼儀とした。
なお予譲はこの後も襄子をねらい、橋の下に潜んで馬上の襄子を襲わんとしたが、ついに捕らえられて死ぬ。史記の刺客列伝には、捕らえられた後に襄子に上着を請うてこれを仇に見立てて、三度躍り上がって剣を突き刺して曰く「吾、以て下(しも)智伯に報ずべし」と。遂に剣に伏して自殺す。とある(史記では智伯となっている)

十八史略拾い読み 刺客

2009-02-03 10:25:18 | Weblog
 国士もて之に報ず。
知伯の臣、豫譲、之が為に仇をを報ぜんと欲す。乃ち詐(いつわ)って刑人と為り、匕首(ひしゅ)を挟(さしはさ)み、襄子の宮中に入って厠(かわや)を塗る。襄子、厠に如(ゆ)き、心動く。之を索(もと)めて譲を得たり。問うて曰く、子嘗て范・中行氏に事(つか)えざりしか。知伯之を滅ぼせり。子為に讐(あだ)を報ぜず、反って質(し)を知伯に委(い)す。知伯死す。子独り何為れぞ仇を報ずるの深きや、と。曰く、范・中行氏は、衆人もて我を遇す。我、故に衆人もて之に報ず。知伯は国士もて我を遇す。我、故に国士もて之に報ず、と。襄子曰く、義士なり。之を舎(ゆる)せ。謹んで避けんのみ、と。ー解説は次回にー

十八史略拾い読み つづき

2009-02-01 08:58:56 | Weblog
昨日の記事に多少の説明を加えさせて下さい。

簡子は尹鐸に晋陽を治めるよう命じた。尹鐸は繭から糸をとる様に厳しく臨むか、垣根が家を守るように仁政を敷くべきか指図をもとめた。簡子は、仁政に限ると答えた。よって尹鐸は税を軽くして善政をとった。
簡子は無恤に、わが国に危難がある時は必ず晋陽を拠り所とせよと言い残して死んだ。
無恤が立って襄子となる。そのころ晋の家老の知伯が韓と魏に土地の割譲を迫り、韓・魏は譲った。次に知伯は趙にも迫ったが趙は拒絶した。知伯は韓・魏の兵を糾合して趙を攻めた。襄子は晋陽に逃げて立てこもる。知伯と韓・魏の兵は晋陽を囲んで水攻めにした。城は六尺を余して水没し、かまどからは蛙がかえるほどであったが、晋陽の民は寝返る者も無く耐えた。襄子は密かに韓と謀って知伯を破り、領地を分け取った。知伯の頭蓋骨に漆を塗って盃にした。

趙はもともと韓・魏と共に晋を分割して諸侯となったので、自国でも晋国難あらばといった。
前出の火牛の計は木曾義仲、今回の酒盃は織田信長と、中国に倣ったのでしょうか、