箕子碑(三ノ二)
及封朝鮮、推道訓俗、惟無陋、惟人無遠。用廣殷祀、俾夷爲華。化及民也。
率是大道、藂于厥躬。天地變化。我得其正。其大人歟。
於虖當其周時未至、殷祀未殄、比干已死、微子已去。向使紂惡未稔而自斃、武庚念亂以圖存、國無其人、誰與興理。是固人事之或然者也。然則先生隠忍而爲此、其有志於斯乎。唐某年、作廟汲郡、歳時致祀。嘉先生獨列於易象、作是頌云。
朝鮮に封ぜるるに及んで、道を推(お)し、俗を訓(おし)え、惟れ徳陋(ろう)無く、惟れ人遠き無し。用(もっ)て殷の祀(し)を広め、夷(い)をして華(か)と為らしむ。化は民に及ぶなり。是の大道を率(ひき)いて厥(そ)の躬(み)に藂(あつ)む。天地変化するも、我その正を得たり。それ大人(たいじん)か。
於虖(ああ)、その周の時未だ至らず、殷の祀未だ殄(た)えざるに当たって、比干(ひかん)已(すで)に死し、微子(びし)已に去る。向(さき)に紂をして悪未だ稔(ねん)せずして自ら斃(たお)れ、武庚(ぶこう)をして乱を念(おも)うて以って存を図らしむとも、国にその人無くんば、誰と与(とも)にか理を興さん。是れ固(もと)より人事の或いは然(しか)らんものなり。然らば則ち先生の隠忍して此(これ)を為すは、それ斯(ここ)に志すこと有らんか。
唐の某年、廟を汲郡に作り、歳時に祀を致す。先生の独り易象(えきしょう)に列するを嘉(よみ)して、是の頌を作ると云う。
陋 いやしい。 於虖 感嘆符、嗚呼。 比干 紂王の諸父 紂王を強く諌めて殺された。 微子 紂王の庶兄で諌めて亡命した。 武庚 紂王の子。 易象 易経の象伝。 嘉して めでたく思って。 頌 讃えうた。
箕子が朝鮮に封ぜられるに及び、道徳を広め、風俗を正したために人徳に賤しいことが無く、民は遠近を問わず教化を受けない者は無かった。こうして殷の祀りを広め、蛮夷の風を中華の風に改めた。これが「化が民に行き渡る」ということである。箕子はこうして大道をもって民を率いて一身に集めていた。天地が変化する危難の時にも自身の正しさを保ち続けていたこれこそ大人物といえるだろう。
ああ、周がまだ天下を取らず、殷の国の祀りが絶えないうちに比干は死に、微子は国を去ってしまった。もし紂の非道がひどくならないうちに死んで子の武庚が乱を避けて国の存続を図ろうとしても、国にしかるべき人物が居なければ、だれと共に政治を正していこうというのだろうか。これは人の世の必然と言えようか。だとすれば箕子が耐え忍んで国を去らなかったのも国の存続を思ってのことか。
唐の某年、箕子の廟を汲郡に作り、季節毎のまつりを捧げることにした。箕子先生の易経象伝に挙げられていることを称えてこの頌を作った次第である。
及封朝鮮、推道訓俗、惟無陋、惟人無遠。用廣殷祀、俾夷爲華。化及民也。
率是大道、藂于厥躬。天地變化。我得其正。其大人歟。
於虖當其周時未至、殷祀未殄、比干已死、微子已去。向使紂惡未稔而自斃、武庚念亂以圖存、國無其人、誰與興理。是固人事之或然者也。然則先生隠忍而爲此、其有志於斯乎。唐某年、作廟汲郡、歳時致祀。嘉先生獨列於易象、作是頌云。
朝鮮に封ぜるるに及んで、道を推(お)し、俗を訓(おし)え、惟れ徳陋(ろう)無く、惟れ人遠き無し。用(もっ)て殷の祀(し)を広め、夷(い)をして華(か)と為らしむ。化は民に及ぶなり。是の大道を率(ひき)いて厥(そ)の躬(み)に藂(あつ)む。天地変化するも、我その正を得たり。それ大人(たいじん)か。
於虖(ああ)、その周の時未だ至らず、殷の祀未だ殄(た)えざるに当たって、比干(ひかん)已(すで)に死し、微子(びし)已に去る。向(さき)に紂をして悪未だ稔(ねん)せずして自ら斃(たお)れ、武庚(ぶこう)をして乱を念(おも)うて以って存を図らしむとも、国にその人無くんば、誰と与(とも)にか理を興さん。是れ固(もと)より人事の或いは然(しか)らんものなり。然らば則ち先生の隠忍して此(これ)を為すは、それ斯(ここ)に志すこと有らんか。
唐の某年、廟を汲郡に作り、歳時に祀を致す。先生の独り易象(えきしょう)に列するを嘉(よみ)して、是の頌を作ると云う。
陋 いやしい。 於虖 感嘆符、嗚呼。 比干 紂王の諸父 紂王を強く諌めて殺された。 微子 紂王の庶兄で諌めて亡命した。 武庚 紂王の子。 易象 易経の象伝。 嘉して めでたく思って。 頌 讃えうた。
箕子が朝鮮に封ぜられるに及び、道徳を広め、風俗を正したために人徳に賤しいことが無く、民は遠近を問わず教化を受けない者は無かった。こうして殷の祀りを広め、蛮夷の風を中華の風に改めた。これが「化が民に行き渡る」ということである。箕子はこうして大道をもって民を率いて一身に集めていた。天地が変化する危難の時にも自身の正しさを保ち続けていたこれこそ大人物といえるだろう。
ああ、周がまだ天下を取らず、殷の国の祀りが絶えないうちに比干は死に、微子は国を去ってしまった。もし紂の非道がひどくならないうちに死んで子の武庚が乱を避けて国の存続を図ろうとしても、国にしかるべき人物が居なければ、だれと共に政治を正していこうというのだろうか。これは人の世の必然と言えようか。だとすれば箕子が耐え忍んで国を去らなかったのも国の存続を思ってのことか。
唐の某年、箕子の廟を汲郡に作り、季節毎のまつりを捧げることにした。箕子先生の易経象伝に挙げられていることを称えてこの頌を作った次第である。