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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

唐宋八家文 柳宗元 箕子碑(3ノ2)

2014-08-28 10:02:06 | 唐宋八家文
箕子碑(三ノ二)
及封朝鮮、推道訓俗、惟無陋、惟人無遠。用廣殷祀、俾夷爲華。化及民也。
率是大道、藂于厥躬。天地變化。我得其正。其大人歟。
於虖當其周時未至、殷祀未殄、比干已死、微子已去。向使紂惡未稔而自斃、武庚念亂以圖存、國無其人、誰與興理。是固人事之或然者也。然則先生隠忍而爲此、其有志於斯乎。唐某年、作廟汲郡、歳時致祀。嘉先生獨列於易象、作是頌云。

朝鮮に封ぜるるに及んで、道を推(お)し、俗を訓(おし)え、惟れ徳陋(ろう)無く、惟れ人遠き無し。用(もっ)て殷の祀(し)を広め、夷(い)をして華(か)と為らしむ。化は民に及ぶなり。是の大道を率(ひき)いて厥(そ)の躬(み)に藂(あつ)む。天地変化するも、我その正を得たり。それ大人(たいじん)か。
於虖(ああ)、その周の時未だ至らず、殷の祀未だ殄(た)えざるに当たって、比干(ひかん)已(すで)に死し、微子(びし)已に去る。向(さき)に紂をして悪未だ稔(ねん)せずして自ら斃(たお)れ、武庚(ぶこう)をして乱を念(おも)うて以って存を図らしむとも、国にその人無くんば、誰と与(とも)にか理を興さん。是れ固(もと)より人事の或いは然(しか)らんものなり。然らば則ち先生の隠忍して此(これ)を為すは、それ斯(ここ)に志すこと有らんか。
唐の某年、廟を汲郡に作り、歳時に祀を致す。先生の独り易象(えきしょう)に列するを嘉(よみ)して、是の頌を作ると云う。


陋 いやしい。 於虖 感嘆符、嗚呼。 比干 紂王の諸父 紂王を強く諌めて殺された。 微子 紂王の庶兄で諌めて亡命した。 武庚 紂王の子。 易象 易経の象伝。 嘉して めでたく思って。 頌 讃えうた。

箕子が朝鮮に封ぜられるに及び、道徳を広め、風俗を正したために人徳に賤しいことが無く、民は遠近を問わず教化を受けない者は無かった。こうして殷の祀りを広め、蛮夷の風を中華の風に改めた。これが「化が民に行き渡る」ということである。箕子はこうして大道をもって民を率いて一身に集めていた。天地が変化する危難の時にも自身の正しさを保ち続けていたこれこそ大人物といえるだろう。
ああ、周がまだ天下を取らず、殷の国の祀りが絶えないうちに比干は死に、微子は国を去ってしまった。もし紂の非道がひどくならないうちに死んで子の武庚が乱を避けて国の存続を図ろうとしても、国にしかるべき人物が居なければ、だれと共に政治を正していこうというのだろうか。これは人の世の必然と言えようか。だとすれば箕子が耐え忍んで国を去らなかったのも国の存続を思ってのことか。
唐の某年、箕子の廟を汲郡に作り、季節毎のまつりを捧げることにした。箕子先生の易経象伝に挙げられていることを称えてこの頌を作った次第である。


唐宋八家文 柳宗元 箕子碑

2014-08-23 08:36:27 | 唐宋八家文
箕子碑
凡大人之道有三。一曰、正蒙難。二曰、法授聖。三曰、化及民。殷有仁人、曰箕子。實具茲道以立于世。故孔子述六經之旨、尤慇懃焉。
當紂之時、大道悖亂、天威之動不能戒、聖人之言無所用。進死以併命。誠仁矣。無吾祀。故不爲。委身以存祀。誠仁矣。與亡吾國。故不忍。
具是二道、有行之者矣。是用保其明哲、與之俯仰、晦是暮範、辱於囚奴、昏而無邪、隤而不息。故在易曰、箕子之明夷。正蒙難也。
及天命既改、生人以正、乃出大法、用爲聖師。周人得以序彝倫、而立大典。故在書曰、以箕子歸作洪範。法授聖也。

凡そ人の道に三有り。一に曰く「正にして難を蒙(こおむ)る」。二に曰く「法を聖に授く」。三に曰く「化は民に及ぶ」。殷に仁人有り、箕子(きし)と曰う。実(まこと)に茲(こ)の道を具(そな)え以って世に立つ。故に孔子六経(りくけい)の旨(し)を述ぶるに、尤も慇懃(いんぎん)なり。紂の時に当たり、大道悖乱(はいらん)し、天威の動も戒むる能わず、聖人の言も用うる所無し。死に進んで以って命を併(す)つ。誠に仁なり。吾が祀(し)に益なし。故に為さず。身を委(す)てて以って祀を存す。誠に仁なり。吾が国を亡ぼすに与(あず)かる。故に忍びず。
是(こ)の二道を具(そな)え之を行う者有り。是(ここ)を用(もっ)てその明哲を保ち、これと俯仰(ふぎょう)し、是の暮範(ぼはん)を晦(くら)まして、囚奴に辱(はずか)しめられ、昏(こん)にして邪無く、隤(たい)にして息(や)まず。故に易に在りては曰く「箕子の明夷(やぶ)る」と。正にして難を蒙(こうむ)るなり。
天命既に改まり、生人以って正しきに及んで、乃ち大法を出し、用(もっ)て聖師と為る。周人(しゅうひと)以って彝倫(いりん)を序して、大典を立つるを得たり。故に書に在りては曰く「箕子を以(ひき)いて帰り、洪範(こうはん)を作る」と。法を聖に授くるなり。


箕子 殷の紂王の叔父或いは庶兄とも、紂王を諌めたが聞き入れられず、奴隷となり殷が周に滅ぼされたのち、周の武王に「洪範」をつくったとされる。六経 詩経・書経・礼記・楽記・易経・春秋。 悖乱 行いが道に外れている。 祀 先祖をまつること。 明哲 聡明で道理に通じていること。 これと俯仰し 他人と心と行動を合わせ。 暮範 模範。 昏 道理にくらい。 隤 隤然 従順。 明夷る 明徳を隠す。 生人 人民。 彝倫 人として守るべき道。 

およそ君子の生き方に三つの道がある。第一は正を貫いて困難な目に遭う。第二は道理を聖王に伝授すること。第三に徳化が民衆にゆき及ぶことである。殷に仁者がいた。箕子という。この三つの道を兼ね備えていた。だから孔子は六経の中で特に丁寧に書いている。
殷三十一代紂王に至って道を外し、天の威光をもってしても紂王の暴虐も戒めることができず、聖人の言葉も聴かず、比干は死を以って諌めた。仁者と言えるが、国の存続、先祖の祀りには役立たなかった。微子は身分を棄てて国外に逃れて宗祀を絶やさぬようにした、それも仁には違いないがやはり国を亡ぼすのに力を貸したと同じことだ。だから箕子はそうしなかった。
この二つの道を兼ね備え行った者が箕子であった。そのために道理を知って身の安全を保ち、他人と同じふりをして模範となるべき資質を隠して奴隷の身となる恥辱を受けて愚かなふりをしながらなお邪悪な行いをせず、従順でしかも怠らなかった。だから易経で「箕子は明を隠す」と言っている。これが「正にして難をこうむる」である。
天命が殷から周に変わり、人民も正しい生活を送るようになったので、箕子は大法を示して聖王の師となった。これによって周の人民は守るべき道が示され、儀式や制度を確立することができた。
故に書経では「周の武王は箕子を連れて帰り、洪範をつくった」と言っている。これが法則を聖王に授けるということである。


唐宋八家文 柳宗元 韓愈に与えて史官を論ずる書(五ノ五)

2014-08-19 08:48:51 | 唐宋八家文
與韓愈論史官書

又凡鬼神事眇茫荒惑無可准。明者所不道。退之之智而猶懼於此。今學如退之、辭如退之、好議論如退之、慷慨自謂正直行行焉如退之、猶所云若是、則唐之史述其卒無可託乎。明天子賢、得史才如此、而又不果。甚可痛哉。退之宜更思。可爲速爲。果卒以爲恐懼不敢、則一日可引去。又何以云行且謀也。今人當爲而不爲。又誘中他人及後生者。此大惑已。不勉己而欲勉人、難矣哉。

また凡そ鬼神の事は眇茫荒惑(びょうぼうこうわく) 准(じゅん)ずべき無し。明者の道(い)わざる所なり。退之の智にして猶此(ここ)に懼るるか。
今学は退之の如く、辞は退之の如く、議論を好むこと退之の如く、慷慨(こうがい)自ら正直(せいちょく)と謂(おも)いて行行焉(こうこうえん)たること退之の如くにして、猶云う所是(かく)の若くんば、則ち唐の史述それ卒(つい)に託すべき無からんか。明天子賢宰相、史才を得ること此の如くにして、而もまた果さず。甚だ痛むべきかな。
退之宜しく更に思うべし。為すべくんば速やかに為せ。果たして卒に以って恐懼(きょうく)して敢てせずと為さば、則ち一日に引き去るべし。また何を以ってか行く行く且つ謀(はか)ると云わんや。今人当(まさ)に為すべくして為さず。また館中の他人及び後生の者を誘う。此れ大いに惑えるのみ。己を勉めずして人を勉めんと欲するは、難きかな。


眇茫 はるかにとおい。 荒惑 みだれまよう。 准 なぞらえる。 慷慨 意気盛んなこと。 行行焉 気の強いこと。 一日 すぐに。 館中 史館の中。 

また鬼神のたたりを恐れることが書かれてありましたが、とらえどころが無いもので、根拠にはなりません。賢明な人の言わないところです。あなたほどの智者でもなお鬼神を恐れるのでしょうか。
今、あなたほど学問があり、あなたほど文章にすぐれ、あなたほど議論が好きで、あなたほど気概があって正しいと信じて強い信念を持ち続けておられながら、なおこのようなことを言われるのでしたら、唐史の記述を託す人が居ないことになります。明天子・賢宰相が、有能な史官を得ながらしかも唐史の編纂を果たせないでいるとは、何とも悲しむべき事です。
あなたは考えなおすべきです。出来ることならすぐに取り掛かってください。どうしても怖くてできないというなら、すぐにも辞職すべきです。またどうして「そのうち考えてみる」などと仰るのでしょうか、いま為すべくして為さず史館の他の人、後輩をも誘導するのは大きな心得違いです。自分は努力しないで他人に努力を強いることはむつかしい事ですよ。


元和九年(814年)42歳の作。韓愈が比部郎中(尚書省刑部に属し罰俸、罰金を司る責任者、従五位あるいは正六位)兼史館修撰(中書省史館で史書の編集をした)であったとき、この仕事がいかにつまらない仕事であるかを劉軻に手紙に書いた写しを柳宗元にも送り、それに対する痛烈な批判反論である。韓愈は「まことに吾が病(へい)にあたれり」と言ったという。

唐宋八家文 柳宗元 韓愈に与えて史官を論ずる書(五ノ四)

2014-08-14 10:25:15 | 唐宋八家文
韓愈に与えて史官を論ずる書(五ノ四)
凡言二百年文武士多。有誠如此者。今退之曰、我一人也、何能明。則同職者又所云是、後來繼今者又所云若是、人人皆曰我一人、則卒誰能紀傳之耶。如退之但以所聞知、孜孜不敢怠。則庶幾不墜使卒有明也。不然徒信人口語、毎毎異辭、日以滋久、則所云磊磊軒天地者、決必沈没。且亂雜無可考。非有志者所忍恣也。果有志、豈當待人督責迫蹙、然後爲官守耶。

凡そ二百年、文武の士多しと言う。誠に此(かく)の如きもの有り。今退之曰く「我一人(いちにん)なり、何ぞ能く明らかにせん」と。則ち同職の者また云う所是(かく)の若(ごと)く、後来の今に継ぐ者また云う所是の若く人々皆我一人なりと曰わば、則ち卒(つい)に誰か能くこれを紀伝せんや。
如(も)し退之但だ聞知(ぶんち)する所を以って、孜孜(しし)として敢て怠らずんば、同職の者も後来今に継ぐ者も、亦た各々聞知する所を以って、孜孜として敢て怠らざらん。則ち堕ちずして卒に明らかなること有らしむるに庶幾(ちか)からん。
然らずして徒(いたずら)に人の口語(こうご)を信じ、毎々(つねづね)辞を異にし、日に以って慈々(ますます)久しからば、則ち云う所の磊磊(らいらい)として天地に軒(あが)るものも、決して必ず沈没せん。且つ乱雑して考うべき無からん。志有る者の忍んで恣(ほしいまま)にする所に非ざるなり。果して志有らば豈当(まさ)に人の督責迫蹙(とくせきはくしゅく)を待ち、然る後に官守(かんしゅ)を為すべけんや。


孜孜 つとめはげむ。 磊磊 壮大なさま、磊落。 軒 上がる。 督責 責めなじること。 迫蹙 せきたてること。 官守 職責、官吏としてその職を守ること。

およそ二百年の間に文武の士は多いとあります。確かにその通りですが、今あなたは「私一人きりでどうして二百年間のことを明らかにできようか」と言っておられます。それでもし、同僚も同じことを言い、後に継ぐ者も同じことを言い、人々が皆自分一人きりだと言ったら、一体だれが歴史の記述をするのでしょうか。
もしあなたが聞いたことを、努め励んで記録して怠らなければ、同僚も後継者もそれぞれ聞き知ったことをこつこつと記録して怠らないでしょう。そうなれば史官として堕落せずついには歴史を明らかにする目的に近づくでしょう。
それをせずにただ人の言うことを鵜呑みにして、言葉の食い違いを見逃して引き伸ばしていたならば、あなたの言う「壮大で天地の間にそびえる事跡」は沈んでしまい、混乱してしまってもはや調べることさえできなくなるでしょう。これは歴史に志がある者の放置しておけることではないのです。本当に志があれば、人から責め急かされて、それでやっと職責を遂行するなどということをいたしましょうか。