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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 劉氏の冠

2009-09-19 08:50:01 | Weblog
劉氏の冠
秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。

秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。

秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。
劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。

厭当 押さえつけて防ぐこと

十八史略 大丈夫當如此矣

2009-09-17 13:49:17 | Weblog
願わくは箕帚の妾と為さん

及壯、爲泗上亭長。嘗繇役咸陽、從觀秦皇帝曰、嗟乎、大丈夫當如此矣。
單父人呂公好相人。見劉季状貌曰、吾相人多矣。無如季相。願季自愛。吾有息女願爲願季自愛。吾有息女願爲箕帚妾。卒與劉季。即呂后也。

壮なるに及び、泗上(しじょう)の亭長と為る。嘗て咸陽に繇役(ようえき)し秦の皇帝を、従観(しょうかん)して曰く、ああ大丈夫当(まさ)に此の如くあるべし、と。
單父(ぜんぽ)の人呂公、好んで人を相す。劉季の状貌(じょうぼう)を見て曰く、吾人を相すること多し。季の相に如(し)くは無し。願わくは季、自愛せよ。吾に息女有り、願わくは箕帚(きそう)の妾(しょう)と為さん、と。卒(つい)に劉季に与う。即ち呂后なり。

壮年になって泗上の宿場の長になった。かつて咸陽に夫役に出て、秦の始皇帝の様子を見物して、「ああ男子として生まれたからには、あの始皇帝のようでなくてはならん」とつぶやいた。
単父の人で呂公という者、人相を見ることを好んだが、劉季の貌を見て、「私はこれまで多くの人の相を見てきたが、あなたの人相に及ぶものはない。からだを大事にしなさいよ、ところでわしには娘がいる、どうか召使につかってくだされ」と言って、劉季に娶わせた。これがすなわち呂后である。

泗上 江蘇省の地名。 繇役 徭役に同じ 徴用。 従観 自由に見物する。
単父 山東省にある地名。 箕帚 ちりとりと箒 妾は妻を謙遜して言う

晦冥

2009-09-17 13:43:14 | Weblog
前回晦も冥も暗いと言ったが、広辞苑をひいて少し詳しく見てみよう。
晦 かい
  ①月のおわり、みそか、つごもり「-日」⇔朔 「―朔」みそかとついたち
  ②くらいこと「-冥」
  ③くらますこと「-渋」「韜-」
冥 めい(呉音はミョウ)
  ①くらいこと、くらがり、やみ「--」「-暗」
  ②道理にくらいこと「頑-」「愚―」
  ③奥深いこと「-想」
  ④神仏の働きについていう「-加」(ミョウガ)「―感」(ミョウカン)
  ⑤死後の世界「-府」「-福」 とある。

ところで旧暦で明日は7月30日つまり三み十そ日か、月隠(つごも)り、あさっては八月一日、八朔(はっさく) ついたち(月立ち) で、岸和田のだんじり

十八史略 漢の太祖劉邦

2009-09-15 17:05:15 | Weblog
西漢
漢太祖高皇帝堯之後、姓劉氏、名邦、字季。沛豐邑中陽里人也。母媼息大澤之陂、夢與神遇。時大雷雨晦冥。父太公往、見交龍其上。已而産劉季。隆準而龍顔、美鬚髯。左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。有大度、不事家人生産。

漢の太祖高皇帝は、堯の後にして、姓は劉氏、名は邦、字(あざな)は季(き)沛豊邑中陽里の人なり。母の媼、大沢之陂(つつみ)に息(いこ)うて、夢に神と遇(あ)う。時に大いに雷雨して晦冥(かいめい)なり。父の太公往(ゆ)いて交龍其の上に見る。已にして劉季を産む。隆準(りゅうせつ)にして龍顔、美鬚髯(しゅぜん)。左股に七十二の黒子有り。寛仁にして人を愛し、意豁如(かつじょ)たり。大度(たいど)ありて、家人の生産を事とせず。

 晦冥 晦も冥も暗い。 交龍 史記では蛟龍、みずち。 隆準 準は鼻すじ
鼻筋が高いこと。 鬚髯 鬚はあごひげ、髯は頬のひげ。 豁如 心が開けたさま。 大度 度量が広いこと。 家人 庶民、官につかずに家に居る人。

十八史略 子嬰、頸に繋(か)くるに組(そ)を以ってす

2009-09-12 14:38:58 | Weblog
 秦滅ぶ

張良從沛公西。
沛公大破秦軍、入關至覇上。秦王子嬰、素車白馬、繋頸以組、出降軹道旁。秦自始皇二十六年併天下、二世三世而亡。稱帝止十有五年。

張良、沛公に従って西す。
沛公大いに秦軍を破り、関に入って覇上に至る。秦王子嬰、素車白馬、頸に繋(か)くるに組(そ)を以ってし、出て軹道(しどう)に降(くだ)る。
秦は始皇の二十六年に天下を併(あわ)せてより、二世、三世にして亡びぬ。帝と稱すること止(ただ)十有五年のみ。

張良は、沛公に従って西方の秦に向った。
沛公は大いに秦の軍を破り、函谷関に入って覇水のほとりに至った。秦王の子嬰は白木の車を白馬に引かせ、これに乗って頸には組紐をかけて、軹道という駅亭のそばに来て降伏した。
始皇帝が即位して二十六年目に天下を統一し、二世三世で亡んだ。皇帝を称したのはたった十五年に過ぎなかった。

頸に繋(か)くるに組(そ)を以ってし 組は印璽を帯びる組み紐、死の覚悟を表明すること。