項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。
巴・蜀も亦關中の地なり
羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。
羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり
羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。
羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり
居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。
沐猴にして冠す
居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。
居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。
居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。
居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。
唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず
須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。
使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。
須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。
沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。
10/20
間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。
一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。
須臾 しばらくして 行 ひそかに行くこと 桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり 亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う 督過 過失をとがめること 豎子 未熟者、項羽をさして言った。
須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。
使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。
須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。
沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。
10/20
間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。
一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。
須臾 しばらくして 行 ひそかに行くこと 桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり 亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う 督過 過失をとがめること 豎子 未熟者、項羽をさして言った。