憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り
元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。
ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。
右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。 蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。
元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。
ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。
右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。 蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。