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寡黙堂ひとりごと

詩吟と漢詩・漢文が趣味です。火曜日と木曜日が詩吟の日です花も酒も好きな無口な男です。

十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り

2011-01-15 13:38:26 | 十八史略
憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り
元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。
ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。

右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。  蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。

十八史略 此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり

2011-01-13 17:50:58 | 十八史略
二年、上欲因匈奴衰弱、出兵撃其右地、使不復擾西域。魏相諌曰、救亂誅暴、謂之義兵。兵義者王。敵加於己不得已而起者、謂之應兵。兵應者勝。爭恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵。兵忿者敗。利人土地・貨寶者、謂之貪兵。兵貪者破。恃國家之大、矜人民之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵。兵驕者滅。匈奴未有犯於邊境。今欲興兵入其地。臣愚不知此兵何名者也。
今年計、子弟殺父兄、妻殺夫者、二百二十二人。此非小變。左右不憂、乃欲發兵報纎芥之忿於遠夷。殆孔子所謂、吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内。上從相言。

二年、上、匈奴の衰弱に因って、兵を出だして其の右地(ゆうち)を撃ち、復(また)西域を擾(みだ)さざらしめんと欲す。魏相、諌めて曰く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵、義なる者は王たり。敵、己に加え、已むを得ずして起こる者、之を応兵と謂う。兵応なる者は勝つ。小故(しょうこ)を争恨(そうこん)し、憤怒に忍びざる者、之を忿兵(ふんぺい)と謂う。兵、忿なる者は敗る。人の土地・貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵、貪なる者は破る。国家の大を恃み、人民の衆を矜(ほこ)り、威を敵に見(しめ)さんと欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵、驕なる者は滅ぶ。匈奴未だ辺境を犯すこと有らず。今、兵を興して其の地に入らんと欲す。臣愚、此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり。
今年計るに、子弟の父兄を殺し、妻の夫を殺す者、二百二十二人あり。此れ小変に非ず。左右憂えず、乃ち兵を発して繊芥(せんかい)の忿(いか)りを遠夷(えんい)に報ぜんと欲す。殆んど孔子のいわゆる、吾季孫の憂えは顓臾(せんゆ)に在らずして、蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり、と。上、相の言に従う。

十八史略 干(もと)むるに私を以ってすべからず

2011-01-11 08:31:51 | 十八史略
以尹翁歸、爲右扶風。翁歸初爲東海太守、過辭廷尉于定國。定國欲託邑子。語終日、竟不敢見曰、此賢將。汝不任事也。又不可干以私。以治郡高第、遂入。治常爲三輔最。

尹翁帰(いんおうき)を以って、右扶風(ゆうふふう)と為す。翁帰初め東海の太守と為り、過(よぎ)って廷尉于定国に辞す。定国、邑子(ゆうし)を託せんと欲す。語ること終日、竟(つい)に敢えて見(まみ)えしめずして曰く、此れ賢将なり。汝、事に任(た)えざるなり。又、干(もと)むるに私を以ってすべからず、と。治郡の高第を以って、遂に入る。治(ち)、常に三輔の最たり。

尹翁帰という者を右扶風の長官に任命した。翁帰は初め東海郡の長官となった時、廷尉の于定国のもとにいとま乞いに立ち寄った。定国は後輩の就職について翁帰に依頼しようと思い終日対談したが、ついにその後輩を引き合わせることができなかった。そして「あの方は大将軍である、とてもそなたでは任務に堪えられぬだろう。またあのような高潔な人物に私情をもって職を求めるべきではなかろう」と後輩に諭した。翁帰はやがて郡の治績第一として召されて右扶風の長官になったのである。ここでも治績は三輔の中で第一であった。

右扶風 都の周辺を警護するため置かれた行政区画の名、またその長官。
邑子 同郷の子弟。 高第 優等。 三輔 長安を中心とした三行政区画、長安以北の京兆、長陵以北の左馮翊、渭城以西を右扶風として都の治安を守った。

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2011-01-08 09:25:52 | 十八史略
12月1日、風邪の症状で通院したところ心不全との診断で即刻入院。年末に退院、本日より復帰しました。突然だったので記事も中断して申し訳ありません。心を新たにして無理せずに長くお付き合いをしたいと思っています。それでは前回のつづきから。

元康元年(前65年)に都の長官、趙広漢が殺された。初め趙広漢は潁川の太守となったが、潁川郡の風俗は土着の勢力が徒党を組んで跳梁していた。広漢は投書箱を設けて、役人や人民からの投書を受け、悪事を互いにあばかせた。悪党どもは散り散りになって、悪事を働くことができず、鳴りを潜めてしまった。それで召しだされて京兆の長官になったのである。
広漢は隠された内情を探り出すのがたくみで、よく内情を探って、村里の些細な隠し事も知悉して、悪事をあばくこと神業のようであった。都の政治もすっかり清潔になり、長老たちは口々に「漢の代になって京兆を治めた長官の中で、広漢に及ぶ者はいない」とたたえた。ところがこの年、「広漢は私怨のために罪の無いものを論断して死刑にしている」と上書したものがあり、宣帝は廷尉に引き渡して、調べさせた。小役人から市民まで無実を訴えて泣き叫ぶものが数万にも及んだが、遂に腰斬の刑に処せられた。趙広漢は清廉公明で豪族や権力者をも制圧したので、何びとも安心して仕事にはげむことができた。ひとびとは広漢の徳を追慕して歌に託してその死を悼んだ。

十八史略 闕(けつ)を守って号泣する者数万人

2010-11-30 17:06:11 | 十八史略
趙廣漢腰斬さる
元康元年、殺京兆尹趙廣漢。初廣漢爲潁川太守。潁川俗、豪傑相朋黨。廣漢爲缿項筩、受吏民投書、使相告訐。姦黨散落、盗賊不得發。由是入爲京兆尹。尤善爲鉤距、以得其情、閭里銖兩之姦皆知、發姦擿伏如神。京兆政清。長老傳、自漢興、治京兆者、莫能及。至是人上書言、廣漢以私怨論殺人。下廷尉。吏民守闕號泣者數萬人、竟坐要斬。廣漢廉明、威制豪強、小民得職。百姓追思歌之。

元康元年、京兆の尹(いん)趙廣漢を殺す。初め廣漢、潁川(えいせん)の太守と為る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、缿項筩(こうこうとう)を為(つく)り、吏民の投書を受け、相告訐(こくけつ)せしむ。姦盗散落し、盗賊発するを得ず。是に由(よ)って入って京兆の尹と為る。尤も善く鉤距(こうきょ)を為して、以って其の情を得、閭里(りょり)銖両(しゅりょう)の姦も皆知り、姦を発し、伏を擿(てき)すること神(しん)の如し。京兆政(まつりごと)清し、長老伝う、漢興ってより、京兆を治むる者、能く及ぶ莫(な)しと。
是(ここ)に至って、人上書して言う、廣漢、私怨を以って人を論殺(ろんさつ)す、と。廷尉に下す。吏民、闕(けつ)を守って号泣する者数万人、竟(つい)に坐して要斬(ようざん)せらる。廣漢、廉明にして、豪強を威制(いせい)し、小民職を得たり。百姓(ひゃくせい) 追思(ついし)して之を歌う。

京兆の尹 京兆は首都のこと、兆は衆と同じ人が多い所、長安、尹は長官。 潁川 河南省の郡名。 缿項筩 缿筩で目安箱、項は誤って入った文字か。 告訐 訐はあばく、そしる。 鉤距 かぎで引っ掛けて引き出す、内情を探り出す。 銖両 わずかな目方、軽微なもののたとえ。 発も擿もあばくこと。姦は悪事伏は隠し事。 論殺 罪を調べ論じて死刑にすること。 闕を守って 宮門を囲んで。 要斬 腰斬りの刑。  
以下次回に