初めての出逢いは、2007年3月4日
沖縄県与那国島の訪問・講演のあとに沖縄本島へ行き、嘉手納にある「美容室 しき」さんでの講演会へ向かいました。
向かう車の中でした。「彼が来ています!」と電話が入りました。同乗していた主催者さんも「え!!すごい!!」と驚いている様子。
その彼が、詩集「奇跡への第一歩」に載っている宮城恵輔君です。
2005年3月、21歳の誕生日の2日後・・・バイク事故により右上肢の神経断裂により右上肢の機能全廃
左上肢も事故による脳挫傷の影響ので左麻痺により両上肢不自由。
事故から2年後の出逢いでした。
会場の美容室さんに着くと、椅子に座っていた恵輔君。今その写真を見ると、その表情からは、笑顔は見られず、まっすぐ前を見ているのみ・・。
でも、本当によく来てくれました。
講演会がすぐに始まり、講演後のサイン会でも、少し離れた場所で、須永博士の後ろ姿を見ていた恵輔君。
須永博士は、サイン会が終わってから、全身全霊で書いた言葉があります。
「負けやしない」
ただこの言葉を、60回。恵輔君へ向けての須永博士の精一杯のエールでした。
恵輔君の目が変わった!!その瞬間を私は見ることができました
その時、約束しました。
「いつか、男の2人旅をしよう 2人で、北海道宗谷岬に立とう」
うなずいた恵輔君と須永博士は、握り締めたこぶしとこぶしを合わせました。
そのあと、数人で食事会をしたのですが、美容室から歩いて数分の場所まで、なんと恵輔君は、歩いて須永博士と移動しました。
ゆっくりゆっくり。一歩一歩。
食事会でも、ベランダで2人、座って夢を語っていました。
それから1年。
2008年沖縄へ行き、ある方の家で恵輔君と再会しました。
でも、その場所は2階。階段を昇るのは無理だろう。と思っていると、「カツン、カツン・・・。」杖をつきながら、自分の足で階段を昇ってきました
すごい! その姿を、昇りきるまで見つめていた須永博士。
「すごいね! 驚いたよ!」というと、
「リハビリがんばってます」と恵輔くん。
パソコンも打てるようになったと言っていました。
そしてまた1年後の2009年。今度は、読谷中学校さんでの講演会に来て下さいました。
本当は、2008年も講演に招待したのですが、その時はまだ人がたくさんいる場所へ行くことが難しいと話していたのに・・・
来て下さいました!
須永博士は、2人で話したかったので、講演前、2人で海に行きました。
「この海の向こうには、大きな世界が広がっているよ。必ず宗谷岬に立とうな」
そんなようなことを話していたと思います。
今年7月、須永博士は宗谷岬に立ちました。もちろん恵輔君にも連絡をしましたが、お互いのタイミングがまだ今回では無いという判断でした。
でも恵輔君からも「まだ夢は持っていますよ! リハビリもがんばっています!」との嬉しい言葉がありました。
それから・・・仙台の恵美子さんからのお手紙と明日に向かっての記事にコメントをくれたように、大学の「障がい原論」の授業の講師として教壇に立ってきたそうです
以前から、「カウンセラーのような仕事をしたい」と話していたので、
ものすごい大きな一歩ですね
以下、今回話した内容を、転載の許可をもらいましたので、
ぜひ読んでください
○1幼少期・小学時代
・ 引っ込み思案な少年時代
・ 引っ込み思案な中にもウーマクーな面も
・ 例えばテレビでプロ野球が優勝した時のビールかけを見て兄と牛乳かけをして家中牛乳だらけにしてオカーに怒られるなど
・ しかし、家に客人があった時は部屋に引っ込むような感じ(極度の人見知り)
○2中高生になり
・ 中学のころに人生を楽しく過ごさせてくれるきっかけとなったスケボーに友人に誘われ出会いました。(中一の頃は陸上部だったのですが中二でスケボーに出会い退部)
・ スケボーを始めて悪いことも覚えたが(タバコや酒)良い事も学んだ(先輩との付き合い方や人の楽しませ方)
・ 高校も歩いて行ける地元の学校に通う(バス通学が面倒)
・ このころに初の彼女も(^^)v高校を卒業し専門学校へ
○3専門学校へ
・ 那覇にある専門学校へ通ったのだが動機が不純で那覇に通うから車が必要になるので車を買う口実と可愛い子が多そうな学校だったため。
・ 県内全域に友人ができる。
・ 卒業時には企業から内定をもらうがもう少し学業に励もうと内定を蹴る。(しかし結局フリーター)
○4フリーターから現在まで
・ このころから人生に風雲急を告げる
・ 専門学校時代からやっていたバイト先の居酒屋に中学時代の同級生の女の子が来店、仲良くなる→お付き合い→結婚\(^o^)/※今はもう離婚している
・ 21歳の誕生日を友人に祝ってもらったときにバイクで帰宅しようとした時事故を起こし脳挫傷による左半身マヒと右上腕の神経断裂で両腕使えないという障害を負ってしまう。
○5障害者になって
・ 障害者になって不自由は増えたし失った事は大きいが、その事で普通であるという事がいかに幸せかを気づく事ができたし失ったものばかりではない。
・ 手が使えないので自分じゃ何もできないので人の世話にならないといけません、はっきり言って面倒だと思うのですがそれでも支えてくれる親兄弟・友人達などに支えられ人の温かさ、優しさがが身にしみています。
・ 障害の重さは個人差がありますが、自分も友達に言われた事あるのですがちょっと手伝うだけで普通の人と変わりません、皆も周りに不自由してたり困ってる人がいればちょっと手伝ってあげてほしいです。
・ 障害を負って視線が怖いと思いました。特に子供ですね、大人は気を使う事をしますが、子供は無垢がゆえに自分と違う事に不思議に思って異同弁別するので子供は苦手ですね。
○6心のリハビリ
・ 自分は先天性の障害じゃないのでもちろん、健常だったころの自分を知っているがゆえに障害を負って初期の頃は周囲の人の目がとても痛くてコンビニに行くのも怖かったです。
それを乗り越えさせてくれたのが当時付き合っていた彼女の存在でした。
たしかに障害者と言う弱い立場の人間ですがこれでも一応、男ですので、献身的に支えてくれる彼女に少しでも楽しい思いをしてほしいという気持ちから一緒にいる時にコンビニに立ち寄ったら一緒に行くようにする、ということを実施していました。
その事が功をそうして徐々にコンビニ、スーパーなど人がいる場所へ行くことも平気になっていました。
今思うとそれが心のリハビリになっていたと思います。今ではこのように人前に出る事もだいぶ平気になりました(^^)v
・ あと自分に課題を課すということが重要だと思います。
○7自分の考える共生
・ できるできない、強い弱い関係なく分け隔てない世界。
・ 当たり前ではないが強い者が弱い者を、できる者ができない者を助ける社会が理想。
○8今後の課題
・やはり私は手が使えないのでその事をどう、克服するかと言う事と残された機能や経験をフルに使って自立する事が今後の一番の課題です。
○9信念
・信念と言うほど大げさなものではありませんが、私は大きな事故を起こしても助かったこの命ただただ生きているのはもったいないので人生を楽しんで生きる、楽しむために進んで行動するということをモットーにしています。
○10今に至るまで
・ 20年間何不自由なく生きてきたのに急に自分じゃ何もできなくなったのは凄くストレスでした、21歳にもなってまるで大きい赤ちゃんのように人の手を借りないとご飯も食べれないし、お風呂はもちろん下の世話まで、情けないやら悔しいやらでやるせなかったです。でもある日、高校時代の友人と外出した時に、トイレ(小)に行きたくなったので勇気を出してトイレを手伝ってくれないか?と頼んだら、引き受けてくれました。
このことで何か吹っ切れより人生を楽しむために人に頼るという事を覚えました。
o+⌒+∞⌒o+⌒+∞⌒o+⌒+∞⌒o+⌒+∞⌒o+⌒+o+⌒+∞⌒o+⌒
大体こんな感じの事をもう少し砕けてしゃべったんだけどさ、俺が帰った後に受講者で振り返りやったらみたいなんだけどこんな意見があったって
『中途障害だしいろいろ辛いこともあると思うし、ちゃんと本音で話してくれたのかな』
世の中自分の障害をそこまで深刻に捉えてない障害者もいっるってことなんでわからんかなぁ┐('д')┌
まーでもそこの部分を伝えきれなかったのは俺の落ち度ですね…
次になんかある時はもっと伝わるように話さなきゃですね。
皆のところにも呼んでねー
つまらない話しを聞きに来てくれた皆さんありがとうございましたm(__)m
ちなみに今回のお金は俺がこの体になって自分の力だけで稼いだお金です
俺が障害者の話しをして障害者とはってものを教えるつもりが逆に、お金を稼ぐ事の大切さを教えられた感じです
フツーに仕事をしてる人にはたった5000円かもしれないけど俺の中では重みのある5000円です
いい勉強をさせてもらいましたありがとうございました。
大きな大きな、一歩ですね
次に会える日まで、私も恵輔君に会って恥ずかしくないようにがんばります
沖縄県与那国島の訪問・講演のあとに沖縄本島へ行き、嘉手納にある「美容室 しき」さんでの講演会へ向かいました。
向かう車の中でした。「彼が来ています!」と電話が入りました。同乗していた主催者さんも「え!!すごい!!」と驚いている様子。
その彼が、詩集「奇跡への第一歩」に載っている宮城恵輔君です。
2005年3月、21歳の誕生日の2日後・・・バイク事故により右上肢の神経断裂により右上肢の機能全廃
左上肢も事故による脳挫傷の影響ので左麻痺により両上肢不自由。
事故から2年後の出逢いでした。
会場の美容室さんに着くと、椅子に座っていた恵輔君。今その写真を見ると、その表情からは、笑顔は見られず、まっすぐ前を見ているのみ・・。
でも、本当によく来てくれました。
講演会がすぐに始まり、講演後のサイン会でも、少し離れた場所で、須永博士の後ろ姿を見ていた恵輔君。
須永博士は、サイン会が終わってから、全身全霊で書いた言葉があります。
「負けやしない」
ただこの言葉を、60回。恵輔君へ向けての須永博士の精一杯のエールでした。
恵輔君の目が変わった!!その瞬間を私は見ることができました
その時、約束しました。
「いつか、男の2人旅をしよう 2人で、北海道宗谷岬に立とう」
うなずいた恵輔君と須永博士は、握り締めたこぶしとこぶしを合わせました。
そのあと、数人で食事会をしたのですが、美容室から歩いて数分の場所まで、なんと恵輔君は、歩いて須永博士と移動しました。
ゆっくりゆっくり。一歩一歩。
食事会でも、ベランダで2人、座って夢を語っていました。
それから1年。
2008年沖縄へ行き、ある方の家で恵輔君と再会しました。
でも、その場所は2階。階段を昇るのは無理だろう。と思っていると、「カツン、カツン・・・。」杖をつきながら、自分の足で階段を昇ってきました
すごい! その姿を、昇りきるまで見つめていた須永博士。
「すごいね! 驚いたよ!」というと、
「リハビリがんばってます」と恵輔くん。
パソコンも打てるようになったと言っていました。
そしてまた1年後の2009年。今度は、読谷中学校さんでの講演会に来て下さいました。
本当は、2008年も講演に招待したのですが、その時はまだ人がたくさんいる場所へ行くことが難しいと話していたのに・・・
来て下さいました!
須永博士は、2人で話したかったので、講演前、2人で海に行きました。
「この海の向こうには、大きな世界が広がっているよ。必ず宗谷岬に立とうな」
そんなようなことを話していたと思います。
今年7月、須永博士は宗谷岬に立ちました。もちろん恵輔君にも連絡をしましたが、お互いのタイミングがまだ今回では無いという判断でした。
でも恵輔君からも「まだ夢は持っていますよ! リハビリもがんばっています!」との嬉しい言葉がありました。
それから・・・仙台の恵美子さんからのお手紙と明日に向かっての記事にコメントをくれたように、大学の「障がい原論」の授業の講師として教壇に立ってきたそうです
以前から、「カウンセラーのような仕事をしたい」と話していたので、
ものすごい大きな一歩ですね
以下、今回話した内容を、転載の許可をもらいましたので、
ぜひ読んでください
○1幼少期・小学時代
・ 引っ込み思案な少年時代
・ 引っ込み思案な中にもウーマクーな面も
・ 例えばテレビでプロ野球が優勝した時のビールかけを見て兄と牛乳かけをして家中牛乳だらけにしてオカーに怒られるなど
・ しかし、家に客人があった時は部屋に引っ込むような感じ(極度の人見知り)
○2中高生になり
・ 中学のころに人生を楽しく過ごさせてくれるきっかけとなったスケボーに友人に誘われ出会いました。(中一の頃は陸上部だったのですが中二でスケボーに出会い退部)
・ スケボーを始めて悪いことも覚えたが(タバコや酒)良い事も学んだ(先輩との付き合い方や人の楽しませ方)
・ 高校も歩いて行ける地元の学校に通う(バス通学が面倒)
・ このころに初の彼女も(^^)v高校を卒業し専門学校へ
○3専門学校へ
・ 那覇にある専門学校へ通ったのだが動機が不純で那覇に通うから車が必要になるので車を買う口実と可愛い子が多そうな学校だったため。
・ 県内全域に友人ができる。
・ 卒業時には企業から内定をもらうがもう少し学業に励もうと内定を蹴る。(しかし結局フリーター)
○4フリーターから現在まで
・ このころから人生に風雲急を告げる
・ 専門学校時代からやっていたバイト先の居酒屋に中学時代の同級生の女の子が来店、仲良くなる→お付き合い→結婚\(^o^)/※今はもう離婚している
・ 21歳の誕生日を友人に祝ってもらったときにバイクで帰宅しようとした時事故を起こし脳挫傷による左半身マヒと右上腕の神経断裂で両腕使えないという障害を負ってしまう。
○5障害者になって
・ 障害者になって不自由は増えたし失った事は大きいが、その事で普通であるという事がいかに幸せかを気づく事ができたし失ったものばかりではない。
・ 手が使えないので自分じゃ何もできないので人の世話にならないといけません、はっきり言って面倒だと思うのですがそれでも支えてくれる親兄弟・友人達などに支えられ人の温かさ、優しさがが身にしみています。
・ 障害の重さは個人差がありますが、自分も友達に言われた事あるのですがちょっと手伝うだけで普通の人と変わりません、皆も周りに不自由してたり困ってる人がいればちょっと手伝ってあげてほしいです。
・ 障害を負って視線が怖いと思いました。特に子供ですね、大人は気を使う事をしますが、子供は無垢がゆえに自分と違う事に不思議に思って異同弁別するので子供は苦手ですね。
○6心のリハビリ
・ 自分は先天性の障害じゃないのでもちろん、健常だったころの自分を知っているがゆえに障害を負って初期の頃は周囲の人の目がとても痛くてコンビニに行くのも怖かったです。
それを乗り越えさせてくれたのが当時付き合っていた彼女の存在でした。
たしかに障害者と言う弱い立場の人間ですがこれでも一応、男ですので、献身的に支えてくれる彼女に少しでも楽しい思いをしてほしいという気持ちから一緒にいる時にコンビニに立ち寄ったら一緒に行くようにする、ということを実施していました。
その事が功をそうして徐々にコンビニ、スーパーなど人がいる場所へ行くことも平気になっていました。
今思うとそれが心のリハビリになっていたと思います。今ではこのように人前に出る事もだいぶ平気になりました(^^)v
・ あと自分に課題を課すということが重要だと思います。
○7自分の考える共生
・ できるできない、強い弱い関係なく分け隔てない世界。
・ 当たり前ではないが強い者が弱い者を、できる者ができない者を助ける社会が理想。
○8今後の課題
・やはり私は手が使えないのでその事をどう、克服するかと言う事と残された機能や経験をフルに使って自立する事が今後の一番の課題です。
○9信念
・信念と言うほど大げさなものではありませんが、私は大きな事故を起こしても助かったこの命ただただ生きているのはもったいないので人生を楽しんで生きる、楽しむために進んで行動するということをモットーにしています。
○10今に至るまで
・ 20年間何不自由なく生きてきたのに急に自分じゃ何もできなくなったのは凄くストレスでした、21歳にもなってまるで大きい赤ちゃんのように人の手を借りないとご飯も食べれないし、お風呂はもちろん下の世話まで、情けないやら悔しいやらでやるせなかったです。でもある日、高校時代の友人と外出した時に、トイレ(小)に行きたくなったので勇気を出してトイレを手伝ってくれないか?と頼んだら、引き受けてくれました。
このことで何か吹っ切れより人生を楽しむために人に頼るという事を覚えました。
o+⌒+∞⌒o+⌒+∞⌒o+⌒+∞⌒o+⌒+∞⌒o+⌒+o+⌒+∞⌒o+⌒
大体こんな感じの事をもう少し砕けてしゃべったんだけどさ、俺が帰った後に受講者で振り返りやったらみたいなんだけどこんな意見があったって
『中途障害だしいろいろ辛いこともあると思うし、ちゃんと本音で話してくれたのかな』
世の中自分の障害をそこまで深刻に捉えてない障害者もいっるってことなんでわからんかなぁ┐('д')┌
まーでもそこの部分を伝えきれなかったのは俺の落ち度ですね…
次になんかある時はもっと伝わるように話さなきゃですね。
皆のところにも呼んでねー
つまらない話しを聞きに来てくれた皆さんありがとうございましたm(__)m
ちなみに今回のお金は俺がこの体になって自分の力だけで稼いだお金です
俺が障害者の話しをして障害者とはってものを教えるつもりが逆に、お金を稼ぐ事の大切さを教えられた感じです
フツーに仕事をしてる人にはたった5000円かもしれないけど俺の中では重みのある5000円です
いい勉強をさせてもらいましたありがとうございました。
大きな大きな、一歩ですね
次に会える日まで、私も恵輔君に会って恥ずかしくないようにがんばります
次の一歩はどんなかなぁ~~(^-^) いつもありがとう(*^_^*)
また次の一歩を踏み出せるよう日々精進です。