
首都ハノイから一番近い中国国境ゲート「友誼関」があるランソン省のドンダン(Đồng Đăng)。ランソンに一泊した翌朝、出掛けてみました。わずか15㎞ほどの距離です。モンカイやラオカイのような賑やかさを想像していたのですが、余りにも閑散とし、しかも土埃が舞う工事中なので即退散。引き返してドンダンの町に宿を探しに行きました。
中越関係では古くは宋朝の軍が陸路この地を越えてハノイへと迫ったわけですが、ハノイへは現在道路で180㎞足らず。江戸から白河の関よりも近く、ホーチミン市とメコンデルタ諸都市ほどの距離でしかありません。今はハノイ周辺で犯罪を犯した逃亡者が国外脱出を試みる地でもあるようです。戦時には軍事道路となったわけですが、平和時には宗主国中国の使節を迎えるために道々には飾り付けがなされたとか。今回のオバマ大統領訪越時は知りませんが、以前クリントンが退任間近に来越した際は空港かららの沿道に人々が立ち並んでいたのを見た記憶があります。たぶんかつてはもっと派手に出迎えたのでしょう。
しかし、そのような歴史的な遺産を感じさせるものは見当たらず、フランス軍がかつて築いたというドンダン要塞の位置もわかりませんでした。1940年の仏印進駐時と1945年仏印処理時の2回、旧日本軍も中国からこの地を通過しました。1945年の戦闘は激戦だったようで、当時の日本兵の手記なども残されています。「サイゴンに死す-四戦犯死刑囚の遺書」は読んでいませんが、この戦闘時に日本軍が投降したフランス将兵を「キールア洞窟」で虐殺した責任を問われた裁判だったのでしょうか?
ドンダンの町は、1945年当時「美しい街」と日本兵が手記に遺したとは思えぬもので、駅前には人影も殆ど見当たらないほどの寂れようでした。外見はしっかりしたホテルと思えたドンダン・ホテルで料金を訊ねると一泊18万ドン(900円)とのこと。その安さに引かれて泊まることにしました。が、やはり安いだけの理由があって、エレベータは長いこと故障中、エアコンとホットシャワーは使えるもののトイレのタンクへの配水がありません。ベランダの鍵は壊れたままで、各部屋のベランダから投げ捨てられたゴミが地面に散乱していました。
「キールア洞窟」が何処にあったのかが気になり、調べてみると少数民族の市が開かれる「Kỳ Lừa市場」や「Kỳ Lừa橋」の名はランソンの町に残っていますが、洞窟は分かりませんでした。観光地になっている洞窟は、Tham Thanh, Nhi Thanh, Chua Tienの三つがあり、二カ所だけ訪れました。鍾乳洞で内部は色付きのライトアップがされているので、暑さ凌ぎにはなるけど・・・と感じるところでした。
Tham Thanh洞窟の近くにはカオバンに逃れて明・清朝の庇護の下1677年まで続いた莫朝の城跡があり、地形・地質的に洞窟の数も多いようです。そこでふと思うのですが、この中国による莫氏支持が二つのベトナム政策の始まりだったのではないか・・・と。もっとも当時は鄭・阮の南北対立の時代でしたから三つのベトナムでした。チャンパを含めれば四つの政権。
計画性のない旅行のため、ランソンの町やドンダン、またその周辺の田園地帯を何度か行き来しました。ランソンの町では外国人故かぼられることも多く、ガソリンスタンドで1万ドン多く請求された時はついに爆発して店員に喰って掛かりました。換算すれば僅か50円。目くじら立てるほどの金額ではない筈ですが、年令を重ねても寛容さは身に付かないものだと、後になってつくづく思います。
白壁が綺麗に見えたので家の前まで行くと、若い男性が「水でも飲んで行け」と家に入れてくれました。この周辺はNung族の人々の村だそうで、入り口には漢字の貼り紙がありました。彼の母親と一歳に満たない子供が一人。奥さんは昨日から200㎞離れた工場に出稼ぎに行っているとのこと。
今回の国会議員選挙でランソン省からの選出定員は6名。結果を見ると、Kinh族2名、Tay族1名、Nung族3名が当選していました。Kinh族の2名はゲアン省とハーティン省の出身で現住所もハノイとハーティン。
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