常識について思うこと

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個人信用の経済システム

2011年11月28日 | 社会

私にはお金がありません。けっして、貧乏だとは言いませんが、お金に余裕がある生活をしているわけではありません。ただし、精神的に追い込まれているかというと、まったく違います。それは、常に私には、社会に対して果たす役割があり、それを正当に評価してくれている人々が、必ず周りにいるであろうと信じているからです。つまり、そういう人々に支えられ、何だかんだ言いながら、私はきちんとあるべき生活水準を保つことができるだろうと思うのです。したがって私は、今後も私のすべき事をきちんとしてさえいれば、生活に苦労するようなことはないだろうと思っています。

人々は、実に多様なかたちで、社会に対して貢献をしています。それを分かりやすく数値化して、交換できるようにしたのが、貨幣制度でしょう。つまり、私が社会に役立つことをしていると思う人が周りにいてくれれば、それが貨幣制度に基づいて数値化され、何らかの報酬をいただくことになり、結果として私の生活は成り立つわけです。

しかし一方で、私は、その評価してくれる人にお金がなくても構わないと思っています。つまり、今の貨幣制度における「お金」というかたちでいただけなくても、いいだろうと思うわけです。例えば、「竹内はとてもよくやってくれているので、何かしてやろう」と思ってくれる人がいて、たとえその人にお金がないとしても、食べ物があればそれをいただくことができます。それが食べ物に限らず、権利だったり、作品だったり、便益だったり、知恵だったり・・・そうしたものが寄り集まることで、最終的に私の生活は成り立ち得ると思うのです。

つまり、私の生活は(サービスなどを含む)多様な財によって成り立つわけですが、それらの財を、貨幣を介して頂戴するのではなく、直接、そのままの財として提供してもらえる人々の協力によって、成立することも可能だろうということです。このことは、実は至極当たり前の話です。何故なら、価値交換の基本は物々交換だからです。多様な財を扱っている無数の人々と直接結びつくことができれば、究極的に物々交換でも生活が成り立つというのは、それほど不思議な話ではありません。

現代社会では、それらの価値を数値化し、分かりやすく取引できるように各国家の信用に基づいた貨幣制度があります。しかし、これはツールに過ぎず、取引の本質は、「その人に対価を払う」という行為自体にあるとも言えます。そう考えた場合、必ずしも、国家の信用に基づいた貨幣制度を介す必要はないかもしれません。あるいは、価値交換の利便性を考慮し、たとえそれらを数値化するにしても、国家の信用に基づいた貨幣制度によって数値化させる必要性は消え失せる可能性があります。

極論すれば、無数の人々を直接結びつけるネットワークシステムを構築し、各人の社会貢献の結果を可視化させ、それを独自に数値化させるシステムでまとめあげることができれば、国家の信用に基づいた貨幣制度は要らなくなると言えるわけです。そしてその場合、数値は(国家など)ある特定の組織の信用というよりも、各人の信用の集積の結果、成り立つものであると言えるでしょう。

国家の信用に基づいた貨幣制度が、役に立たないと言っているわけではありません。これはこれで、長い人類の歴史の中で生み出された知恵の結晶であり、非常に便利なものだと思っています。しかし一方で、世界中で国家財政の危機が叫ばれるようになるなか、国家の信用に基づいた貨幣経済の仕組みにばかり頼るのではいけないとも思うのです。そう考えたとき、経済の本質とは何かを見極め、各人の価値や信用を可視化させるネットワークの構築こそが、次の時代に求められるのではないかと思うのでした。

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