夢職で 高貴高齢者の 叫び

          

若葉の作曲家 平岡均之

2017年05月08日 | まじめなブログ

「若葉」の作曲家 平岡均之

 

 さつき晴れ、木々の緑が映える。小学校の音楽で習った「若葉」の歌が思い出される。まさに ♪あざやかなみどりよ あかるいみどりよ♪ の光景だ。

「若葉」の作曲者は平岡均之(ひらおかきんし)である。意外なことに、栃木県の学校には彼の作曲した校歌が数多くある。私が収集したものでも、大田原高校、塩原小学校、上塩原小学校、三島小学校、槻沢小学校、西那須野中学校、三島中学校、東陽中学校などがある。

いずれも、塩原温泉に生まれた文人、泉漾太郎(いずみようたろう)の作詞と組まれている。

 平岡均之は明治34年旧田沢湖町(現仙北市)で生まれた。大正7年に両親が相次いで亡くなったため、埼玉県立熊谷中学校を5年生の中半に中退した。彼は小学校の代用教員を務めながら、独学で小学校音楽科専用教員の免許状を取得し、訓導となる。訓導とは現在の教諭に当たる。

 昭和3年、文部省は大礼奉祝唱歌の作詞作曲並びに明治節唱歌楽譜を全国に公募した。当時、足利尋常小学相生校訓導の平岡均之はこの二つの作曲に応募した。その結果、大礼奉祝唱歌楽譜(作曲の部)に一位入選し、賞金壱千園を授与され、また、明治節唱歌楽譜では二位入選し、弐百円を授与されると言う栄誉を受けた。

 突然、音楽の世界に頭角を現した平岡均之に会いたいと願った泉漾太郎は、彼が宇都宮市に来ることを知って面会に出かけた。そこから二人の交流が始まったのである。

 詩人の泉漾太郎は校歌の作詞を依頼されると、作曲者に平岡均之を推薦していた。このことから、二人が組んで作成した校歌が県内に多数ある。小学校だけでも30を数えた。

 泉漾太郎が上塩原小学校校歌の作曲者として平岡均之を推薦した校長への手紙には、「山田耕筰先生が『式歌校歌の作曲では平岡の右に出る者なし』と折紙をつけました。現在は文部省委託で、音楽教科書の検定審議委員です。」と書かれてあった。山田耕筰も多くの校歌作曲に携わっていた。栃木県では小山市立豊田中学校の校歌は彼の作曲である。

 私は平成12年頃、田沢湖町の教育長から電話を受けた。それは、平岡均之の音楽碑が田沢湖町にあり、音楽碑の前で町のバイオリニストと声楽家が「若葉」を披露したとのことであった。町制100周年の記念行事の一環としておこなったとのことであった。私は彼に福島県三春町でふとしたことで出会ってから、平岡均之研究のことで連絡を取り合っていたのだった。

 私は翌年の5月、栃木から新緑の田沢湖町までクルマで出かけ、教育長にお会いしてから音楽碑を見た。

 《作曲家 平岡均之 音楽碑》とあり、「若葉」の歌詞と楽譜が刻まれてあった。「若葉」は大好きな歌である。私は碑の前で歌った。

 

         若 葉    

      松永みやお作詞  平岡均之作曲

 (一)あざやかなみどりよ あかるいみどりよ

    鳥居をつつみ わら屋をかくし

    かをる かをる 若葉がかをる

  (二)さわやかなみどりよ ゆたかなみどりよ

    田はたをうづめ 野山をおほひ

    そよぐ そよぐ 若葉がそよぐ

 

参考資料 

*泉漾太郎から上塩原小学校長にあてた手紙(昭和42年2月13日)   

*塩原小学校学校概要(平成12年)

*秋田県仙北郡田沢湖町生保内田沢湖町教育委員会編集発行 

 作曲家平岡均之先生記念誌「若葉」(昭和63年発行)


2017-05-08記