絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

画家のエピソード2

2009-09-01 | 美術
画家のエピソード2を書きます。

1、ジャコメッティは、見える通りそっくりに彫刻を作ろうと思って、夢中でやっていたら、作品がどんどん小さくなってしまった。そっくりに作ろうとすると、小さくなる傾向があることは、彫刻をやった人なら幾らか分かるかもしれません。
しかしジャコメッティは、どんどん追究して行ったら、最後は粘土が無くなってしまったそうです。そんな馬鹿な??ですよね。

それで、仕方がないので、彫刻の高さは変えないように、きちんと決めて作りだしたら、今度はどんどん細くなってしまったのだそうです。それで、あのような針金で作ったような細い彫刻になったのだそうです。

2、ジャコメッティは、絵を描くときも、現実を捕まえようとします。空間を掴むために、人物の顔の一番近い部分をまず描きます、それは、鼻の頭です。鼻の頭さえ捕まえられれば、後は自然とついてくると言って、鼻の頭ばかり描いているのです。それを延々と描き続けるのだそうです。

3、ギリシャ時代の誰かが描いた果物の絵が、あまりに上手に描けているので、鳥が本物と間違えて突っついたという話があります。本当かな?

4、これもギリシャ時代の話ですが、ある画家が友達の画家を訪ねて行ったら留守だったので、壁に落書きで一本の線を描いて帰りました。帰宅した友達がそれを見て、ああ、あいつが来たかと分かったそうです。こんな線はあいつにしか描けないと分かったということです。画家のすござを物語るエピソードですね。

5、古代の話ですが、恋人と永遠の別れになるかもしれないというときに、どうしてもその人の面影を残しておきたいと思った時、写真なんてあるわけないですから、壁に絵を描きました。もちろんそっくりに描ける技術を持っていれば別ですが、画家でもない自分にはその力はありません。そんなとき、どうしたかというと、太陽の光で壁に影を落として、その影の形を写し取ったといいます。そのときは横顔のシルエットでした。正面では、その人が分かりません。横顔だとその人の特徴が出ます。

6、1910年代にパリに集まった画家たちをエコールドパリの画家たちと呼びますが、その人たちはユダヤ人が多かったそうです。シャガール、スーチン、バンドンゲン、モジリアニなどです。
その中で、一番まじめだったのが、シャガールでほとんど一日中絵を描いていたそうです。そのまじめさに腹を立てて、スーチンなどが住んでいるアパートの窓ガラスを石でたたき割ったそうです。

7、エコールドパリの画家たちが住んでいたアパートは、8角形の中央にらせん階段のあるアパートだったので、ハチの巣と言われたそうです。因みに、ピカソが住んでいたアパートもぼろアパートで、まるでセーヌ川の洗濯船みたいだと言われたそうです。

8、ユトリロもエコールドパリの画家と言われますが、ユトリロは8歳からアルコール中毒になっていて、18歳のときには、酔って何度も警察に捕まっています。
ショウウインドーをたたき壊し、火災報知機のベルをならし、飲んだくれて暴れて、つかまりました。
そのユトリロが、晩年は、名誉市民賞を受けます。おかしいですね。
レジョンドヌール勲章といいます。

9、ユトリロのお母さんは、シュザンヌバラドンという画家でした。
初めはサーカスのブランコ乗りでしたが、ブランコから落ちて画家のモデルになりました。そのうち自分でも絵を描くようになりました。ユトリロは小さい時からモデルをやらされたそうです。
その内、バラドンはロートレックの愛人になりました。
その後、もっとすごいのは、ユトリロが20歳になったときに、バラドンは18歳の男の子と結婚しました。息子のユトリロが20歳で父親が18歳。こんなおかしなことはありませんね。

10、モジリアニは、女性にもてましたが、ユトリロはもてませんでした。
モジリアニが結核で死んだ時、奥さんのジャンヌはアパートの8階から身を投げました。後追い自殺です。天国に行ってモジリアニのモデルをするのだと言っていたそうです。お腹には二人目の子供が宿っていたそうです。


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恩師

2009-09-01 | 日記
同級生にお知らせです。
小学校5年生の担任だった金井先生が亡くなりました。

私は、5日くらい過ぎてから知ったので、告別式には行けませんでした。
それで、8月30日にお線香をあげるためご自宅まで行ってきました。

亡くなったのは、25日だったそうです。

二ヶ月くらい入院していて、最後は肺炎というお話でした。
お医者さんもまだ亡くなるとは思わずに、家族に知らせるかどうかと思っていたそうです。食べられなくなって、点滴で過ごしていましたが、最後は苦しむこともなく眠るようにというお話でした。

私は、昨年の秋にお会いしたのが最後でしたが、その時は悪いところがすっかりなくなって、いい調子なんだよとおっしゃっていて、この10月に88歳になるんだと元気でお話されていました。

あれから、一年経ち、また豊水という梨ができる季節なので、先生に届けようと思っていたところで、この訃報に接しました。

もう5日が過ぎていたので、他の弔問の方もなく、奥さんとゆっくりお話しすることができました。

ーーーーーーー
金井先生は、我々教員になった教え子は、本当に衝撃を与えてくれた先生でした。
いま、先生になっている同級生は、みんな金井先生をお手本にしていると思います。

小学校の先生としては考えられないような取り組みをしました。

その第一は、毎日日記を書いて提出させたことです。
それを、先生は帰りまでに見て、優、良上、良、良下などの判を押して、返してくれるのですが、それを一年間続けました。

作文の苦手な私はとても大変でしたが、嫌々ながらもやらされました。
6年生になって、担任が変わって、ほっとしたことを覚えています。もう日記を書かなくていいんだと。しかし、なんということでしょう。ほっとしてしばらくしたら、また日記が書きたくなり、その後、ずっと書いているのです。

55歳の今は、二カ月で一冊書くようになりました。ここ7年で40冊ほど書いています。

私は、国語力が弱いです。どちらかというと数学の方が好きでした。
だから、自分が本を書くなんて考えられないことでした。
その私が、本を書くなんて、同級生が知ったらみんな驚くと思います。
だから、私が本を書けたのは、日記のお陰かもしれません。その切っ掛けを与えてくれたのは、元をたどれば金井先生なのです。

また、音楽と言えば、荒城の月でした。これ以外やった記憶がありません。
実は、野ばらはやったと思います。しかし、他の曲はやったのでしょうか。

とにかく、荒城の月しか記憶にないのです。
それは、全員で合奏をしたからです。このときに、音楽には第一楽章、第二楽章というものがあることを教えてもらいました。最後は第三楽章まで覚えました。そして、他のクラスの前で、その合奏を披露しました。
各クラスで出し物をする企画だったのかどうか忘れましたが、とにかく、他のクラスの前で、演奏をしました。

その合奏の練習では、ハーモニカがメインなのですが、そのハーモニカに検定試験のような形を作って、何級という審査をしてもらうのです。なんとかして上の級になるように、放課後試験を受け続けたことを覚えています。

二学期になると、今度は毎朝詩を提出させました。そして、三重丸以上の詩は、先生がみんなの前で紹介してくれました。私も一回だけ読まれたことがあります。

優秀な子は、何度も読まれていました。

金井先生は、いろんな取り組みをして、みんなの良いところを引き出そうとしていたなあと思います。

実は、この先生は、義足でした。戦争で足を切断したのです。ビルマまで行ってそのような負傷をして帰りました。

だから、体育の授業はできません。そのため、他の先生が代わりにやってくれました。
ーーーーーーー
一学期が終わると、日記の優の数を数えさせて、その数で成績をつけたかなと思います。専門が国語だったためか、優秀な児童には、作文コンクールにも挑戦させて、優秀な成績をあげたようです。

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音楽の苦手な、私のような人間でも、未だに荒城の月の第1楽章から第3楽章までピアノで弾くことができます。これは、大変なことですよね。
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小学校では、ここまではやらないということをやってくれたと思います。
先生はこの取り組みをどうして、本にして残してくれないのかなと思いました。

そのように言ったことがありましたが、先生は笑っていました。国語の先生なんだから書いておいてくださいよ。後の先生たちの参考になるんですからと。

とにかく、私も教員になりましたが、小学校時代に金井先生に出会ったことは、私の教員生活に大きな影響を与えてくれたと思います。

感謝、感謝の先生です。
謹んで、ご冥福をお祈りいたします。



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ルーベンスの部屋

2009-09-01 | 美術
ルーブル美術館には、ルーベンスの部屋と呼ばれるところがあります。

この部屋には、マリードメディシスの生涯が描かれた絵があります。
大きな絵ですが、それが、24枚だったかな?絵によって大きさが違いますが、一枚が幅3メートル、高さ4メートルくらいあるものです。

その大きさの絵が、一部屋グルッと並べられています。見事ですよ。

これは、一般の観光ツアーではなかなか見られません。なぜなら、大抵はモナリザコースを行って、一時間半くらいで終わってしまうからです。
ですから、見たい人は、希望を言って、ツアーから外れなければなりません。
私も、何回か行ったときに、モナリザコースは何度も見たのでと断って、団体から外れて、見に行きました。これは、一見する価値ありです。

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このテーマは、イタリアのメヂチ家からフランスのアンリ4世のところにお嫁に行ったマリードメディシスの生涯が描かれています。

メディシスとは、メヂチ家という意味ですね。

アンリ4世は、ルイ13世の父です。ですからマリーはルイ13世の母ですね。

ーー  この辺の歴史  ---

ルイ13世は、ベルサイユ宮殿を作り始めた人で、ルイ14世は太陽王と言われた絶対王政を行なった人ですね。ルイ15世は、プレーボーイで政治をまじめに行わなかった人で、ルイ16世はフランス革命でギロチンにかけられました。

私はこの辺の歴史をこのように把握しています。
ーーーーーー
マリードメディシスの生涯は、まず、マリーがフランスに到着したところから、始まり、ルイ13世を生み、アンリ4世から戴冠を受け、アンリ4世が暗殺されると、その後の政治を行い、ルイ13世が成長すると、追い出されてしまうという流れで描かれています。
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ルーベンスはバロック絵画の代表的な人ですから、17世紀です。

私は、バロックの代表的な画家を三人挙げて、バロックの三角形と名付けました。

その一人がルーベンスです。フランドル地方にいた人で、今のベルギーに当たります。二人目は、スペインのベラスケス、三人目はイタリアのカラバッジオです。

ベラスケスの絵です。

この三人の居た場所を考えると、大きな三角形が描けます。それで、そのように名付けました。そうすると把握しやすいと思いました。
ーーーーーーー
ルーベンスは、キリストの十字架降下という絵が有名ですね。


バロックは、このほかに、フランドルの方ではレンブラントがいます。スペインにはグレコがいます。イタリアにはカラッチがいます。二人づつ覚えるならこの画家も入れてください。


レンブラントの絵です。

まずは、三人を覚えて、その後で加えていくとよいと思います。
ルーベンスの弟子に、バンダイクがいますね。そうやって加えて行ってください。

画家のエピソードとして、覚えておくといいのは、カラバッヂオはテニスの試合で喧嘩をして相手を殺してしまい、その後殺人犯として逃げ回った人です。
有名な画家では、唯一の殺人犯です。




コメント (2)
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