絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

フォービズム

2009-09-08 | 美術
マチスたちが、突然行った一つの革命をフォービズムと言います。

簡単に言うと、色の自由化です。

マチスは、サロンの中の偉い人でした。そのマチスが仲間と一緒に、しめし合わせてとんでもない色の派手な絵を出品したのです。
それを見た審査員たちは、それらの絵を拒否するわけにもいかず、仕方なく一つの部屋に集めました。まあ、他の人たちにとっては、困った訳です。

すると、その部屋が異様な雰囲気に包まれました。おまけにその部屋の真ん中に、ドナテロの小さな子どもの彫刻が置かれていて、まるで、その子供が野獣に睨まれているような感じに見えたのだそうです。
そのため、これは野獣派だと言われました。

フォービズムとは、日本語に訳すと野獣派なのです。

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マチスの他には、ブラマンク、ドラン、佐伯祐三などがいました。

たとえば、マチスは、人間の顔を描いた場合、顔の真ん中に緑色があったりします。黄色や赤ならゴッホも使っていますが、緑色の派手な色が顔の中央にあるのは、どう考えても不自然です。
それをやりました。

どんな色を使っても自由だということを主張しているのです。

これが、フォービズムでした。

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ピカソは、キュービズムで形の自由を獲得しました。それに対して、マチスは色の自由を獲得したのです。


歴史的には、そのように考えてよいと思います。

フォービズムは、ゴーギャンからナビ派を経てたどりついた流れだと言われています。

ナビ派とは、ビィヤール、ボナール、セルジエなどの画家ですが、ゴーギャンからセルジエが教えを受けたことを仲間に伝えて、始めた絵画です。
ボナールは色の魔術師と言われました。

単なる明暗法を使わずに、色を自由に使って、わりと平面的に装飾的に描きました。

その教えは、

  風景を描いていた時、「君は地面は何色に見えるか」とゴーギャンから聞かれました。それに対して、「少し赤くみえます」と答えたら、ゴーギャンは「それなら、君のパレットの中の一番きれいだなと思う赤を塗りなさい」と言いました。
「空は何色に見えるか」と言われ、「青く見えます」と答えると、同じように「一番きれいだと思う青を塗りなさい」と言われたそうです。

その指導に基づいて描いた絵がこれだと仲間に見せたのです。
そして、その考えに基づいて描いたのがナビ派の絵画です。

この指導は、見える通りに描きなさいという指導ではありません。
自然な色よりも、きれいな色を並べることをしなさいと勧めたのです。

その発展形がフォービズムという訳です。





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画家のエピソード3

2009-09-08 | 美術
画家のエピソード3

1、ミケランジェロがまだ、有名にならなかったとき、友達にそそのかされて、作った彫刻があります。それは、作ってから地面に埋めました。そして、彫り出して、古代彫刻を発見したと世間に発表したのです。
  しかし、それは古代彫刻ではないと、ばれました。
  ところが、その彫刻が偽物であってもすばらしい彫刻だという評価を受けてしまい、作ったミケランジェロがすごい!と言われたのです。
  それで、ミケランジェロがローマに呼ばれて、後にピエタを作るという流れになったそうです。インチキがもたらした思わぬ幸運でした。

2、モネが庭で絵を描いていたとき、ある画家が訪ねて来て、その制作を見ていました。すると、モネがしばらく筆を止めて、描かない状態でいました。不思議に思って「どうして描かないのか?」と尋ねたら、「陽が陰っているから」と答えたそうです。

  その画家は、「陽が陰っていても、背景は描けるだろう」と言いましたが、モネは「いや、陽が射さないと描けない」と言ったそうです。
その絵は、人物がいて、人物に陽が当っているのです。だから、陽が射さないと人物は描けないというのは、わかりますが、背景の木々やその他は、陽が射さなくても描けるだろうと思って、そう言ったのです。しかし、モネはあくまでも、同じ陽差しの状態にこだわって、その状態になるのを待って描いたそうです。

3、モジリアニがルノアールを訪ねた時、ルノアールは女性の裸を描くなら、そのモデルのお尻をなでるように、やさしく描くのだと教えたそうです。肌の柔らかさの表現をそのように考えて描いたらいいと言ったのですが、モジリアニは、それをいやらしく感じて、「先生、僕はお尻なんか好きではありません」と言って、立ち去ったそうです。

4、レオナルドは、万能の天才と言われていますが、現在のヘリコプターに近いようなデザインの飛行機を設計しました。それを実際に飛ばしてみようということで、近所の人がそれを着けて、崖から飛び降りました。それが失敗におわり、その人は怪我をしたそうです。

5、レオナルドとミケランジェロは、フィレンツェの市庁舎の500人広間で、競作をさせられました。レオナルドはアンギアリの戦いを描きましたが、絵具を乾かす方法に失敗して絵を諦めました。そのとき、代金を受け取りましたが、そのまま返しませんでした。
 怒ったフィレンツェは絵を完成させるか、代金を返せと要求しましたが、レオナルドは返さなかったそうです。

因みに、ミケランジェロは下絵だけ作って、絵を描かない内に、ローマに呼ばれて行ってしまったので、この競作はそれで終わってしまいました。

6、ジャコメッティは、矢内原伊作をモデルに絵を描きました。矢内原は日本人の哲学者です。ちょっと描かせてくれないかということで、始まったそうですが、それが延々と続きました。一日10時間にも及ぶことがありました。しかも、矢内原がヨーロッパ滞在のほとんどの時間をそのモデルとして使ったほどでした。
これは、ジャコメッティとともにという本に書かれています。
 いま、私のデッサン会の人たちに回し読みしてもらっています。

  ジャコメッティは、夜寝てしまうのがもったいないと言っています。なぜなら、朝起きると、夕べどこまでいけたかを忘れてしまうからだといいました。
  そして、できればせめて500年生きたいと言ったそうです。このペースで500年描いたなら、自分が考えるある領域まで辿りつけるかもしれないというのです。果たして、どんな領域なんでしょうね。

  一日が終わると、跡形もなく削り取ってしまって、何を描いたのか分からない状態になっているんですよ。しかし、昨日よりはるかに良くなったというのです。
  まるで、素人が聞いたら禅問答のようです。
  矢内原も、まるで達磨さんのように、ジャコメッティの前に座り続けました。
  矢内原にとっては、そうすることが哲学をするということだったようです。ジャコメッティを通して哲学をしていたのです。

  この「ジャコメッティとともに」は一度機会があったら読んでいただきたい本です。私は読み始めたら止まらなくなりました。ほとんど一日で読んでしまいました。ジャコメッティと同じような気持ちになって読んでしまいました。

7、フィレンツェのドーモの一番上にある、球と十字架はレオナルドの先生のベロキョ先生が作りました。それが完成して取り付けるとき、丁度レオナルドとボッチチェリーがいました。だから、その時には、二人ともそれに関わっていただろうと言われています。

8、ボッチチェリーは、ローマのシスティーナ礼拝堂の側面の壁画を頼まれて、仲間13人と共にローマに来ましたが、そのメンバーにはレオナルドは選ばれませんでした。その理由は、レオナルドは、描くのが遅いのと、完璧主義なので、仕上げない内に投げだすか、完成がいつになるかわからないということがあったからだと言われています。こういうのを協調性がないというのです。

9、ボッチチェリーは、人柄が明るく人付き合いが上手で、気難しがりやのミケランジェロとも仲が良かったと言われています。

10、ボッチチェリーは、いただいた絵の代金をかごに入れておいて、使いたい人が勝手に持ち出せるようにしていたと言われます。お金にむとんちゃくだったのか、弟子たちを大事にしていたのか、解釈はいろいろです。





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