絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

ピエタ

2009-09-06 | 美術
ピエタとは、マリアの悲しみという意味だとみなさんご存知でしたか。

私は、知りませんでした。

死せるキリストを抱きかかえるマリアの姿や、ベッドの傍で泣いているマリアの姿が思い浮かびます。

一番有名なのは、ミケランジェロのピエタでしょう。
ミケランジェロは、このピエタを4体作っていますね。有名なのは、なんと言ってもサンピエトロ大聖堂の中にあるピエタでしょう。

サンピエトロ大聖堂に入ってすぐ、右奥の方にあります。

大理石で完璧に磨きあげられて、非の打ちどころがありません。

ミケランジェロが25歳の時の作品だと言われています。

生意気なミケランジェロがやらされた最初の作品と言ってもいいでしょうか。

他にもいろいろ作ってはいますが、一躍有名になったきっかけの作品はこのピエタでした。

この作品には、皮肉を込められた批評がありますが、ご存知ですか。

ちょっと考えるとおかしいと思われる点が二つあります。それは何でしょうか?

よく、クイズに出されそうなことなので、覚えておくといいですよ。

それは、一つは、マリアの顔が若過ぎるということでした。
30歳を超えるキリストですから、マリアは若く見ても、50歳前後でしょう。
それにしては、まるで少女のような顔です。だから、そのように言われました。

また、もう一つは、30歳の息子を母がこのように抱くことができるでしょうか。
マリアの体が巨大に感じませんか?もし、キリストが170センチくらいだとしたら、その体をこのように抱えられるのは、2メートルの巨人じゃないでしょうか。というのです。
確かに、そう言われると、そうかもしれません。

だから、ミケランジェロをよく思わない人たちはこのように、批判しました。

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また、エピソードとしては、この彫刻は、この彫刻だけに施したことがあるそうです。それは、なんでしょうか。これも問題になりやすいものですね。

それは、マリアの体の斜めにシートベルトのようになっている帯にミケランジェロのサインが入っていることです。

他の彫刻には、ミケランジェロというサインはありません。これだけが、特別にサインがあるのです。不思議ですね。どういう意味があったのでしょうね。それとも、それ以後サインを入れなかったのはなぜなんでしょうね。調べてみたいことですよね。

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しかし、このサインを確認するのは、簡単ではありません。私は、写真に撮ったり、ビデオで撮影したりしましたが、肉眼ではそばに行っても見えませんでした。
そのため、撮影しましたが、どうもはっきりとは分かりません。
かなり、アップで撮影された写真でないと分からないでしょう。
そのような写真で確認してください。

現場に行ってもよく見えなかったのには、がっかりしました。

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しかし、見事な彫刻ですよ。古代から現代までのすべての彫刻と比べても、これが一番じゃないかなと思える作品です。

ダビデ像は、そういう意味では、初めが石がゆがんでいたことを考えると、やはり、見る角度によって、すこし見ごたえのない部分があります。
正面の下から見上げた時が一番よく見えて、それ以外の位置からみると、本当にミケランジェロの作品かなと疑問に思えるような、形に見える部分もあるのです。

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ミケランジェロのピエタは、4体あると言いましたが、次に有名なのは、ロンダニーニのピエタです。これは、ミケランジェロの絶筆と言われています。
彫刻の場合は、言い方が違うかな?遺作というべきでしょうか。


このピエタは、ミラノのスフォルツァー城にあります。私は、行ったのに、見ませんでした。失敗しました。今度行くときは、絶対に見たいです。

最後の作品ですが、未完成ですが、なかなか味わいがある彫刻です。

89歳のミケランジェロがどんな思いで、これを作っていたのか、見てみたいです。

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ピエタは、マリアの悲しみだといいましたが、関連で、思い出すのは、マンテーニャの足の裏が見える角度から描いた絵です。遠近法が確立したからこそ、このような絵が出てきたのですが、印象に強く残る絵です。ミラノのブレラ美術館にあります。


これも、ピエタだといいます。題名は違うかな?

また、アンゲランカルトンの弓なりになったキリストの絵も覚えておくといいでしょう。やはり、ピエタです。

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そう考えると、多くの画家がピエタを描いていますね。

ミケランジェロのピエタで、もう一つ覚えておくといいのは、ミケランジェロが自分のお墓として作ったピエタです。これは、実際にはお墓として使われていません。たしか、美術館にあると思います。調べます。

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このピエタは、「ドーモのピエタ」と言われています。
ということは、大聖堂付属博物館にあるということですね。

ドーモというのは、大聖堂という意味です。だからこの場合は、フィレンツェですから、サンタマリア デル フィオーレ大聖堂のことですね。


ミケランジェロは生前、サンタマリア マジョーレ教会にこれを置き、その足元に自分を埋葬してほしいと言っていたそうです。

ミケランジェロのお墓は、サンタクローチェ教会ですから、その願いは叶いませんでしたね。

しかし、晩年はサンタクローチェ教会に埋葬してほしいと言っていたみたいなので、それは、叶いましたね。
因みに、この教会には、マキャベリーとガリレオのお墓もあるそうです。


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古代雑感

2009-09-06 | 美術
メソポタミアを振り返ってみましたが、世界史の教科書を見ても、西洋美術史を見ても、なかなか詳しく触れているものがありません。
だから、今回私が書いたことは、かなり簡単に書いたつもりでも、他の本よりも詳しい内容になっているのではないかと思います。

何年か前に、四大文明というのがNHKで取り上げられて、ブームになりました。その時に、テレビで放送されたことや、その関連の本が出版されたものを見ると、今回の私の書いた内容に近いものが掴めると思います。

そのように、専門的な本を見ないと、なかなかメソポタミアが分かりません。
だから、簡単に捕まえてくれている本がないなあと思って、書いてみました。
いかがですか?

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私は、この知識をベースにして、エジプトやエーゲ海文明との関係を調べて行ったら、結構楽しい勉強になるんじゃないかなと思っています。

いま、私がなんとなく掴んでいるのは、メソポタミアのジッグラトがエジプトのピラミッドにつながったということ。それは、イムホテプがジェシェル王に階段式ピラミッドをつくるように勧めたのは、イムホテプがメソポタミアの出身で、ジッグラトを知っていたからだという話からです。

これを聞くと、ピラミッドより、ジッグラトが古いということが分かりますよね。

また、モーゼの時代は、ラムセス二世の時代らしいということも、モーゼがエジプトを脱出して、40年間さまよって、その後、カナンの地に落ち付いて、ペリシテ人と戦って、ダビデが出て、ソロモンが国を大きくして、その後、国が分裂してユダ王国とイスラエルに分裂して、それぞれが滅ぼされてという歴史が、四国分立の時代の前だということがわかりますから、そういうことから、前後関係が考えられます。
要するに、その歴史は、アッシリアから新バビロニアへの移行期ですよね。

ユダ王国の人々が新バビロニアの囚人になって、50年間いて、それを解放したのが、アケメネス朝ペルシャだからと考えると、その辺の時代が掴めます。

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また、トロイの戦いの時期も、戦いが終わってから、アガメムノンはエジプトに立ち寄ったという話があります。これは、少し不思議な話ではありますが、とりあえず信じてみると、その立ち寄った時に、ラムセス二世が子供だったということになっています。
父王(セティ1世)に聞いてみないと、何とも言えないと答えて、アガメムノンが
そんなことを言っていると、攻め滅ぼすぞと脅しをかけたことになっています。
あの話はどこまで信じられるのかな???

しかし、もしそうならトロイ戦争とラムセス二世の時代的関係が分かって面白いですよね。

こんな風に、エーゲ海の歴史とエジプトとメソポタミアの関係などがつながってくると、面白いと思うのです。私が情報として、掴んでいるのはこのくらいです。

知っている知識を材料にして、新しい情報が入ってきたら、その関係を調べてみるという形で、勉強していくと楽しいと思います。
私は、歴史の専門家ではないですから、楽しめたらいいのです。

歴史の真実は、本来は誰にもわかりません。事実は一つでも、後の時代の人が想像してあれやこれやと言っているにすぎませんからね。

頼朝の絵も、今では頼朝じゃないことがわかったらしいですよ。
でも、頼朝の絵は、頼朝だと思って見ていますよね。

レオナルドの先生のベロッキョ先生と言われている肖像画も、実はラファエロの先生のペルジーノらしいです。

いろいろ調べると、いままで、こうだと言われていることがどんどん変わっていってしまいますね。

思いつくまま、雑感を書いてみました。






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