絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

美術の必要性2

2009-09-19 | 美術
世の中、美術だらけである。言い換えると、デザインだらけである。
およそ、人が作るもので、デザインのないものはないだろう。

部屋を見渡して、みてもらいたい。今、私は自分の部屋に居る。ベッドがある。セミダブルである。寝像が悪いので、ベッドから落ちるといけないから、この大きさにしている。買うときは、それを考えたが、やはりベッドの高さとマットの凹み具合など考えたが、一番に気になったのは、デザインである。大抵は、誰もが見かけのデザインを見て判断し、値段や機能面はその次にくるのではないだろうか。まあ、機能面もデザインには違いない。

このようにベッド一つとっても、作る人は使う人のことを考えている。それがデザインなのである。
見渡してみれば、家具も照明器具も、壁紙も絨毯も天井板まで、全て作る人のデザインが入っている。そう考えたら、デザインのないものはない。それは、美術の分野である。

もちろん我々は、そのどれをとっても作る側ではない。買う側、すなわち見て選ぶ側である。良いものを選ぶには、良いものを見る目が必要とされるだろう。
だから、美術を学ぶ意味があるとまでは、結論つけないが、少なくとも、自分をとりまく環境として、デザインだらけであることは、お分かり頂けると思う。

まず、そのことを踏まえておこう。とにかく、我々は美術に取り巻かれているのである。だから、美術なんて関係ないと言うことはできない。

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作る側に回ることは、あまりないと言ったが、果たしてそうだろうか?自分で言っておきながら、はたと考えてみると、そうではないことに気づく。
 
それは、今こうして書いていても、書きながら一行空かした方が読みやすいだろうかとか、読点の打ち方はどうしようかとか、写真を入れるならどの辺りがいいかななどと考えている。これもデザインでないか?

美術の教員だったから、学校のパンフレット作りなどの広報の仕事を任されたこともあったが、ポスターなどの直接のデザインでなくとも、会議の資料を作るにしても、文化祭などの行事で必要なものを作る場合でも、常に美術は必要とされている。

いろいろな企業のイベントでも、看板関係、パンフレット、マスコット人形、会場レイアウトなどなど、いろいろなところで、デザインが必要とされているように思う。
そのときに、センスが問われたりする。今回の企画は誰がやったの?などと、話題になることがある。少し、今までと違ってセンスが良かったりすると、それがその人の出世の糸口にならないとも限らない。どこにチャンスが転がっているかは、わからないのだ。そのセンスがきっかけになって、商談がまとまる場合だってあり得る。そういうことは、数学が少し得意だとか、学生時代は学業成績が良かったなどということでは、得られないことだろう。

自分の作る側としてのデザインが、そのように生かされることがあるということも知っておいてよいのではないだろうか。

そう考えたら、他の教科より美術は重要な科目ではないだろうか。

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商談ということで、思いついたが、釣りバカ日誌という映画がある。あれは、釣りが好きなために、意気投合し、それがきっかけで商談がまとまるというケースがかなりある。それと同じで、美術が好きでつながる人間関係がある。それが、商談を成功させることもあると思う。やはり、他の教科よりも美術は重要である。








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寄居水彩画会作品展

2009-09-19 | 美術
寄居水彩画会作品展を見てきました。

素晴らしい作品がたくさんありました。
ご覧ください。

    
 寄居駅前の公民館です。明日、9月20日までです。
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美術の必要性

2009-09-19 | 美術
美術の必要性について、書こうと思う。

しかし、先ほど一回チャレンジしたら、ものすごい量になってしまった。それで、全てを語ると、書いている私も嫌になるし、聞く方も大変な気がしたので、やめて、思いつくままに、書こうと思う。

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中学二年の時に、学校の廊下に有名な画家の写真が張り出された。なぜ、張り出されたのかは、わからない。美術の先生がみんなに見せたくて教科書会社の人からもらったものを、張ったのかもしれない。


それを、何気なく見ていたら、ある友達が、「これはモネで、これはセザンヌだ」と言った。その写真には画家の名前が書いてなかった。それで、へえすごいな、何で知ってるんだ?と思った。
そんなことは、美術の授業では教えてもらってなかったので、どうして知っているんだろうと不思議に思った。それと同時に、そういうことを知っていることは、大人だと思ったのと、ある意味で博学だと感じた。そのときは博学などという言葉はしらなかったが、そういう意味のことを感じた。

今、大人になってみると、モネ、セザンヌは結構知っている人は多い。しかし、クリムト、シーレとなると、なかなかいない。美術に携わる我々には、当たり前のように知られている画家でも、一般の人はなかなか知らないのである。

だから、そういうことを知っている人は、今でも、割と少ないのではないだろうか。

そうすると、これは何という画家が描いた絵だとわかるということは、教養人の証のような気がする。言いかえると文化人でもある。

知っていることの喜びという気がする。

どうだろうか。文化的教養人ということで、喜べないだろうか。

有名な画家の展覧会が開かれて、それを見に行く。これは、国が平和であり、もちろん文明国であり、なんとなく心に余裕があって、人間に生まれてよかったという気持ちの一つの現れとして考えられないだろうか。

そんな気がする。

美術の必要性の一つにあげたい項目として、お話しました。

まだまだ、この話は、延々と続きます。また機会をみて。
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数学検定

2009-09-19 | 日記
先日、本屋で、数学検定2級という本を買ってきた。
久しぶりに数学を勉強してみたくなった。検定試験があることを知らなかった。
この本は、U-CANから出ている。

私は、美術の教員であったが、初めの内は数学も教えていた。美術だけでは、時間数が少ないので、英語か数学が教えられないかと言われたので、英語は発音が心配だから数学ならいいですよと言って、教えていた。

数学と言っても、その当時は、算数に毛の生えたようなもので、それこそ九九からやり直そうという内容で、高校とは言い難い内容だったから、私でも教えられた。
しかし、二次関数や三角関数までは、やったので、まあまあ高校の数学までは行けたのだが。

しかし、こんな数学なんか何で勉強するの?という問いは常に自問自答していた。
それに、きちんと答えられないと、いけないと思った。

文部省で、勉強するように決められているからと答えたのでは、生徒が満足しない。これを勉強することによって、その先、発展していくとロケットが月に行けるんだよと答えると、そういう専門家だけが勉強すればいいんじゃないかと言われてしまう。
読み書きそろばんという言葉があるように、生活に必要な範囲で良いのではないかと思ってしまう。

ーーー
そこで、私は、これができたらすごいなという例を示す授業を行なった。
例えば、グランドに居ながら特別教室棟(8階建て)の高さを測った。三角関数を使って、計算させた。そして、答え合わせは、私が屋上から巻き尺を下して、正解を言った。
そして、これと同じようにやって、送電線の高さも、山の高さも測れるんだよと教えた。

また、利根川のこちら側に居て、川の幅が測れたらすごいと思わないかい?と言って、その測り方を教えた。

三角関数というのは、便利だねと。

また、学習の転化ということも話した。ここで学んだことが、頭の中で神経の回路になって、作られると、別のところで学んだこととつながって、他のことが理解しやすくなるということがある。

例えば、数学で集合論を学んだ後、私は国語の文章がどこまでが、どのことを言っているなどと、集合で捕らえられるようになったことがある。集合の感覚で文章を読んだら、とてもわかりやすく、頭の中で内容が整理できるようになったのである。

そんな体験を生徒に話した。

数学なんか何で勉強するの?という問いに対する答えは、いろいろあるように思った。

実は、私の専門は美術である。美術なんか何で?という問いに対する答えをいろいろ考えていたからでもある。

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