雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

Feminism と Postmodern 4

2006-03-09 22:13:26 | 時事
Gooから面白いランキングが発表された。

女性からみて男性の羨ましいところランキング

男性からみて女性の羨ましいところランキング

この結果をみるまでもないが、男女が社会で競争という観点に立つと、女性が不利にみえる。生物学的性差は、女性が子供を産むだけでなく、いくつかの足かせになるからだ。私見だが、女性が男性より精神的にも早熟な原因の一端がここにあるのではとも思ったりする。学生時代、僕ら男は卒業後は一生働かなければならないと決まっていたから学生生活を享受しようとしていた。

一方女性はより現実を直視していた気がする。というのも、女性の卒業後は流動的である。ずっと働くか、家庭に入るか、両方をこなすか、という選択は状況に左右される。そのため、現実を直視することが要求される。だからといって男は力がなくても競争しなくてはならないわけだから男が楽だというわけじゃない、ただいやでも働くのだから、それだけをみつめればいいという意味で腹をくくりやすいといいたい。

もちろんこういう問題の回答は結局個人の判断次第ということになる。20数年前のPostmodernismを援用したFeministsたちもそうが考えた。ある状況を解決する指標が、そのまま別の状況を解決してくれるわけではなく、ある状況を解決する行方は、各人の立場によって異なるからである。したがって判断はいつも偏ったものにしかならない、マクロはありえない、と。

すると唯一守らなければならない指標は、「個人の自由」になり、自分の自由は、自分と同程度の自由が認められる範囲内で認められなければならない、ということになる。そして、Cultural Death Wishesに示されているように、同性愛者の結婚は当然個人の自由を確保するために認めるべきだということになり、更には、当人さえ同意していれば重婚もOKになって、生殖にまつわる慣習が消滅する。

もちろん僕が良識あると考えていたFeministsたちはそうはならないと考えていた。当時遺物となっていた慣習をDeconstructして改良するところにその意図があった。しかし毛沢東がいったように、個人の自由を認めるということは、権力を主たる指標にするということでしかないのかもしれない。そこまで考えた結果かどうか知らないが、男女どちらがいいかと考えて、20数年前のアジア人たちも、女の方が不利と考えたらしい。

FPのこの記事によると、20年前、スタンフォード大学の研究者Albert Macovskiの発明品によって生まれてくる赤ん坊の性別がわかるようになった。その結果女の子は堕胎され、男を生み、そうして選ばれた連中が現在大人になっている。

当然のことながら、男女比に偏りがある。上記記事によると、女性を100とした男性比は、中国全体およびインドで120、韓国112、シンガポール118、 台湾 119といった具合である。ここに挙げた大体の国では、法律で出産前の調査は禁止されていたにもかかわらず、賄賂などによって、こういうことになってしまったらしい。

そして現在男は相手がいなくて困っている。結局家庭をつくっていく相手がいないためだ。そこで女性の拉致(1990~1年で中国で6万件報告)や人身売買が起こった(ひとり120~360ドル)。しかも中国はいわゆる一人っ子政策があったため、男が好まれ、ある試算では2020年までには4000万人の独身男性が生じる可能性があるといわれている(上海は、いずれサンフランシスコと並ぶゲイの街になると予測)。

繰り返しになるが、Feministsがこういう現象を望んでいたわけではない。僕が知っているFeministsは、FeministsによるDeconstructionは、社会がどのようになっていれば健全といえるのか、とか、生殖の意味を一から考えようというきわめて保守的な前提で論じるひともいたことを付け加えておく。


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