とんびの視点

まとはづれなことばかり

雑記、ラーメン一杯食べ放題、残したら昼休みは遊べません。

2018年05月04日 | 雑文
早いもので5月、そしてゴールデンウィーク。ゆっくり過ごそうと思ったが、なんだか忙しい。気付いたら、先週はブログを書けずに終っていた。気になる出来事は山のようにあるが、時間がとれない。とりあえず、なんでもよいから書く。

ラーメン一杯食べ放題。残したら昼休みは遊べません。
日本社会での自由と責任を考えると出てくる言葉。みんな、そんな日本社会を縦に横切れ。

さて、4月のランニング。たった60km。140kmが目標だったので80kmも少ない。3月の末日に次男のバレー部卒業生追い出し試合に保護者チームのメンバーとして参加し、ぴょんぴょん飛び跳ねて腰を痛めたのだ。だいぶ良くなったが、まだ痛む。今年の目標は1500km。5月の目標は150km。最初の山場だ。

ちょっと前、ビデオニュースのマル激トークオンデマンドで、映画監督の相田和弘さんの話を聞く。彼は大学卒業後、二十数年アメリカに在住しているが、日本に住んでいるかのように、日本の政治や社会の課題に関してツイッターなどで発言をしている。しかし以前はちがった。アメリカに渡ってからそれほど日本に関心がなかったという。ひとつには社会は時間とともに良くなっていくものだと、無邪気に思っていたから、とくに気にならなかったそうだ。(これは僕も同じだ。)
その思い込みが、東日本大震災で崩れる。震災や原発事故への対応などを通して、日本がかなりまずい状態だと気付いた。だから、震災以後、日本のことをきちんと観察して、自分なりにできることをしているのだという。そのことを彼は次のように言っていた。「一億分の一の責任を果たす」と。出来る範囲で、誰もが当事者として考え、行動せざるを得ないのだろう。

だいぶ前から、言葉が変なことになっていると思っていた。「自分的にはAはBでいいと思う」とか「俺の中ではAはBということになっている」などの奇妙な言い方を、ある時期からよく耳にするようになった。そのたびに「世界はお前の中ではなく外にあるんだ。外側の世界ではどうなんだ」と思ったし、実際に口に出したこともある。

これ、自分の見たい世界と、実際の世界のズレを埋めることを最初から放棄した姿勢だ。世界は世界、自分は自分。なんかきな臭さは感じていたのだ。「本人はセクハラを認めていないのに、財務省は処分する」「記憶の限りでは面会したことはないが、面会したことを認める方向で調整する」「自衛隊の日報で使われている〈戦闘〉という言葉は、一般的な意味での〈戦闘〉とは意味が異なる」などなど。

かなりまずい事態だ。言葉によって現実を1つにつなぎ止めることを放棄している。1つの現実にさまざまな解釈があるのは当然だ。しかしいま行われているのは、言葉を蔑ろにすることで、現実を複数化することだ。過去と現在の現実が複数化しているから、整合性がとれなくても構わない。立場を異にする人たちとは現実が異なっているので、相手の言葉が自分に届かず、矛盾を引き起こさない。

論理的な整合性とか、出来事の一貫性とか、そういうものが重要視されない社会になりつつある。「いま・ここ」という狭い時処での自己利益を追求することが当たり前になる。このあたり、真剣に考えねばならないと思う。でもその考えは、複数化された現実においては、届けねばならない相手には届かない。やれやれ、それが現状だとすれば、そこから考えるしかない。足りない頭でがんばれ自分。



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