ゴールデンウィークの後半3日目。今日は夕方、相方と土手をランニング。ランニングのつもりが土手をゆっくりと歩く。個人的には、土手を歩くのはとても贅沢なことだ。土手をランニングするたびに、ゆっくりと散歩している人、ベンチに座って本を読んでいる人、家族で遊んでいる人、そういう人たちを見てうらやましくなる。自分にとって土手は走る場所だからだ。でもゴールデンウィークだ。少しはゆっくりとしてもよいだろう。そう思いながら、土手をゆっくりと歩いた。
夕方の土手の雰囲気はとても心地よい。太陽の光が柔らかく、濃い色になる。少しだけ冷たい粒子を含んだ風がやさしく吹く。長く伸びた自分の影がどこまでもついてくる。緩んて少し疲れた笑顔の家族が自転車で家に帰る。汗を流しながら黙々と走る人の顔が少しオレンジ色に見える。川面は穏やかにキラキラと輝き、たっぷりと水気を含んだ緑が風に揺れる。何というのか、これでいいじゃないか、と思う。こんな感じでいいじゃないか、と。
前回は、現実が複数化していると書いた。それは1つの現実に対して多様な解釈が存在しているのではない。単一の解釈しか許さない現実が複数存在していることだ。なぜそのようなことが起っているか。それは、言葉によって現実を1つにつなぎ止めることを放棄しているからだ(と思う)と書いた。このことをもう少し考えてみる。
現実が複数化すること自体は珍しくないだろう。冷戦時代、おそらく資本主義陣営と共産主義陣営の現実は異なっていた。また異なる国家は、基本的に異なる現実に存在してるだろう。(だから国家間では、起ったことに対しての解釈の違いではなく、出来事の事実性そのものに対しての対立がおこる。)その意味では、現実の複数化はそれほど珍しいものではない。
では、なぜ日本社会で現実が複数化していることを危機に感じるのか。それは日本社会という1つの領域内で現実の複数化が起っているからだ。資本主義陣営と共産主義陣営、異なる領域国民国家のあいだには、空間的に明確な線引きが存在した。自分たちとは異なる現実が存在するかもしれないが、それは自分たちの領域の外に存在するので、基本的には現実が複数化することがなかった。つまり1つの領域は1つの現実につなぎ止められていた。もちろんそれは言葉によってだ。イデオロギーやナショナルアイデンティティーの言葉だ。
冷戦が終ったことでイデオロギーの言葉が現実を1つにつなぎ止めることは出来なくなった。また世界がグローバル化したことでネーションの言葉も以前のようには機能しなくなった。経済のグローバル化により国内格差が生じたことで、国民経済という言葉はリアリティーを失った。その反動のようにナショナリズムの言葉が強まっているが、これなどは社会の分断につながり、現実の複数化を引き起こしている。
このようにイデオロギーやナショナルなどの現実を1つにつなぎ止める言葉が機能しなくなった。誰もが自分の現実を言葉で語るだけだ。その言葉は自分の現実だけを唯一の存在とし、他者の言葉に現実を認めない。財務官僚のセクハラ疑惑のように。他者の言葉があまりに面倒くさい時は、その場を収める程度の対応はする。でも自分の現実を語る言葉は否定しない。
言葉のやり取りを通して、出来事の整合性を確保する。それが言葉を通して現実を1つにつなぎ止めることだ。しかしいま行われているのは、言葉の整合性の破壊だ。場当たり的な言葉で、その場を乗り切る。言葉と向き合うことで、自分の現実と相手の現実を1つにつなぎ止めるのではなく、相手の言葉をバカにすることで、相手の現実をバカにし、自分の現実、自分の言葉しか見ない。そのことを数の力を背景に強行する。
僕が発足当時から安倍政権に批判的だったのは、彼が言葉に対する謙虚さを欠いていたからだ。このままじゃ、言葉が機能しない社会になると思った。論理的整合性が説得力を持たず、長期的な計画や思考が簡単に反古にされる、場当たり的なパワーゲームの世界だ。それはここ数年の日本社会で現実に起っていることだ。
とにかく国会で言葉が機能しなくなった。脱原発依存と言いながら原発をベースロード電源に据えた。自分が何で起訴されたかわからないまま裁判される特定秘密保護法。これまで違憲とされた集団的自衛権を可能にした安保法。中間報告という異様な手続で通過させた共謀罪。そして裁量労働制のデータ改ざん。誰かが止めないとこのまま憲法改正とまで進む。(おそらく財政的にもかなりまずいことになる。)日本社会は底抜け感満載だ。
「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。でも、人々は平気そうだ。僕の周りには日本社会の現状を危惧している人はほとんど見かけない。そのことに不安を感じる。映画監督の相田さんは現状に「とても危険だ。ここで止めないと本当に日本は底が抜ける」と言っていた。僕もそう思う。それは杞憂であって欲しいが、たぶん無理だろう。
どんな状況になっても人は生きていける。そして、日本人はあらゆる出来事を天災のように受け止める傾向がある。何が起っても「そうなっている」から「しかたない」と自分の現実として受け入れるのかもしれない。(それを自己責任というようだ。)
一人ひとりが自己責任でそうなっている現実を受け入れる。しかたない現実が人の数だけ複数化する。複数化した現実の間では、言葉がうまく届かない。届かない気がするから、無数の孤絶した現実は何を口にすべきかわからなくなる。私たちは何を言葉にしよう。
つなぎ止めるための言葉を口にすべきなのだ。複数の現実を1つにつなぎ止めるような言葉を。それがどんな言葉なのかはわからない。時代が大きく変わるというのは、それまでの言葉が現実をつなぎ止められなくなることなのだろう。現実をつなぎ止める新たな言葉が求められている。それが善い言葉であれば、きっと現実も善いものとなるだろう。考えるに値しそうだ。足りない頭で、頑張れ自分。
夕方の土手の雰囲気はとても心地よい。太陽の光が柔らかく、濃い色になる。少しだけ冷たい粒子を含んだ風がやさしく吹く。長く伸びた自分の影がどこまでもついてくる。緩んて少し疲れた笑顔の家族が自転車で家に帰る。汗を流しながら黙々と走る人の顔が少しオレンジ色に見える。川面は穏やかにキラキラと輝き、たっぷりと水気を含んだ緑が風に揺れる。何というのか、これでいいじゃないか、と思う。こんな感じでいいじゃないか、と。
前回は、現実が複数化していると書いた。それは1つの現実に対して多様な解釈が存在しているのではない。単一の解釈しか許さない現実が複数存在していることだ。なぜそのようなことが起っているか。それは、言葉によって現実を1つにつなぎ止めることを放棄しているからだ(と思う)と書いた。このことをもう少し考えてみる。
現実が複数化すること自体は珍しくないだろう。冷戦時代、おそらく資本主義陣営と共産主義陣営の現実は異なっていた。また異なる国家は、基本的に異なる現実に存在してるだろう。(だから国家間では、起ったことに対しての解釈の違いではなく、出来事の事実性そのものに対しての対立がおこる。)その意味では、現実の複数化はそれほど珍しいものではない。
では、なぜ日本社会で現実が複数化していることを危機に感じるのか。それは日本社会という1つの領域内で現実の複数化が起っているからだ。資本主義陣営と共産主義陣営、異なる領域国民国家のあいだには、空間的に明確な線引きが存在した。自分たちとは異なる現実が存在するかもしれないが、それは自分たちの領域の外に存在するので、基本的には現実が複数化することがなかった。つまり1つの領域は1つの現実につなぎ止められていた。もちろんそれは言葉によってだ。イデオロギーやナショナルアイデンティティーの言葉だ。
冷戦が終ったことでイデオロギーの言葉が現実を1つにつなぎ止めることは出来なくなった。また世界がグローバル化したことでネーションの言葉も以前のようには機能しなくなった。経済のグローバル化により国内格差が生じたことで、国民経済という言葉はリアリティーを失った。その反動のようにナショナリズムの言葉が強まっているが、これなどは社会の分断につながり、現実の複数化を引き起こしている。
このようにイデオロギーやナショナルなどの現実を1つにつなぎ止める言葉が機能しなくなった。誰もが自分の現実を言葉で語るだけだ。その言葉は自分の現実だけを唯一の存在とし、他者の言葉に現実を認めない。財務官僚のセクハラ疑惑のように。他者の言葉があまりに面倒くさい時は、その場を収める程度の対応はする。でも自分の現実を語る言葉は否定しない。
言葉のやり取りを通して、出来事の整合性を確保する。それが言葉を通して現実を1つにつなぎ止めることだ。しかしいま行われているのは、言葉の整合性の破壊だ。場当たり的な言葉で、その場を乗り切る。言葉と向き合うことで、自分の現実と相手の現実を1つにつなぎ止めるのではなく、相手の言葉をバカにすることで、相手の現実をバカにし、自分の現実、自分の言葉しか見ない。そのことを数の力を背景に強行する。
僕が発足当時から安倍政権に批判的だったのは、彼が言葉に対する謙虚さを欠いていたからだ。このままじゃ、言葉が機能しない社会になると思った。論理的整合性が説得力を持たず、長期的な計画や思考が簡単に反古にされる、場当たり的なパワーゲームの世界だ。それはここ数年の日本社会で現実に起っていることだ。
とにかく国会で言葉が機能しなくなった。脱原発依存と言いながら原発をベースロード電源に据えた。自分が何で起訴されたかわからないまま裁判される特定秘密保護法。これまで違憲とされた集団的自衛権を可能にした安保法。中間報告という異様な手続で通過させた共謀罪。そして裁量労働制のデータ改ざん。誰かが止めないとこのまま憲法改正とまで進む。(おそらく財政的にもかなりまずいことになる。)日本社会は底抜け感満載だ。
「あとは国民の判断」と安倍首相は言った。でも、人々は平気そうだ。僕の周りには日本社会の現状を危惧している人はほとんど見かけない。そのことに不安を感じる。映画監督の相田さんは現状に「とても危険だ。ここで止めないと本当に日本は底が抜ける」と言っていた。僕もそう思う。それは杞憂であって欲しいが、たぶん無理だろう。
どんな状況になっても人は生きていける。そして、日本人はあらゆる出来事を天災のように受け止める傾向がある。何が起っても「そうなっている」から「しかたない」と自分の現実として受け入れるのかもしれない。(それを自己責任というようだ。)
一人ひとりが自己責任でそうなっている現実を受け入れる。しかたない現実が人の数だけ複数化する。複数化した現実の間では、言葉がうまく届かない。届かない気がするから、無数の孤絶した現実は何を口にすべきかわからなくなる。私たちは何を言葉にしよう。
つなぎ止めるための言葉を口にすべきなのだ。複数の現実を1つにつなぎ止めるような言葉を。それがどんな言葉なのかはわからない。時代が大きく変わるというのは、それまでの言葉が現実をつなぎ止められなくなることなのだろう。現実をつなぎ止める新たな言葉が求められている。それが善い言葉であれば、きっと現実も善いものとなるだろう。考えるに値しそうだ。足りない頭で、頑張れ自分。
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