とんびの視点

まとはづれなことばかり

ためらいは死角から生まれる

2010年05月26日 | 雑文
ブログを書く時間を上手く確保できない。書かない日が続くとかえって書きにくくなる。ランニングをしない日が続くと走るのが辛くなるのと同じだ。少しきつくても継続して走っていた方が結果的には楽なように、少しきつくても継続して書き続けることが必要だろう。ざっと書く。

先週末は葉山に行く。土曜日は天気も良く海岸で凧揚げと水遊びをしてから、磯でカニやハゼなどを捕まえる。アオウミウシを初めて捕まえる。大きさや形はナメクジを想像してもらえばよい。とくに色がきれいだ。鮮やかな青にレモンイエローの縞模様、それに触覚としっぽの付け根のひらひらのバレンシアオレンジ。9歳と5歳の子どもが生まれて初めて目にした日に、僕も目にした。

凧揚げでは兄弟それぞれの性格が出ていた。(凧揚げにも性格が出ることにちょっと感心した)。長男は風を受ける凧に引っ張られるようにどんどんと前に進んでいく。表情もゆるい。だからちょっと風が弱くなると凧は落ちそうになる。次男は凧が受ける風の手応えと戦っている。だから少しずつ後ずさりしていく。軽く歯を食いしばっている。長男は細かいことは気にせずに何でも受け入れてしまう性格だし、次男は自分の主張を絶対にゆずらないタイプである。それぞれの性格に身を委ね、2人は少しずつ離れていく。十数年も経てば、やはりそれぞれが自分に身を委ね、それぞれの道を行くようになるのだろう。

「あなたには自分でも気がつかない決定的な死角のようなものがあるのよ」というような言葉を村上春樹の小説で読んだのはもう20年近く前のことだろうか。それ以来、死角の存在を確認しようとときどき後を振り返ったりする。振り返った瞬間、自分の後には死角が出来る。自分は常に何かを見落としている、そういった基本的な事実を忘れないようにしている。

仕事でコーチングをしているときなどは、物事を整理してきちんと話すようにアドバイスすることがある。自分が見ていること、考えていることを自信を持ってはっきりと述べるように、と。とは言え、ある種の人が自信たっぷりに話しをしているのを見たりすると、個人的にはちょっとうんざりする。対話を成り立たせるのが困難だからだ。

そういう人たちに共通しているのは、自分が見ているものがすべてである。ふつうに考えれば自分と同じような考えに誰もが至るはずであると、無反省に信じ込んでいるのだ。自分には決定的な死角があるかもしれない、などとは思ったこともないのだろう。だからそういう人たちの言葉は、すべて自分の正しさを披瀝するため(証明ではない)に使われる。そこには厳密な意味での対話はない。こちらの役割はただ相手の意見を肯定するだけである。

ひどいときなど相談があると話しを持ちかけておきながら、自分が言いたいことだけ話していく人もいる。(何を勘違いしたのか、こちらにアドバイスをしてくれる人もいる)。もちろん大抵のケースにおいて論破することはそれほど困難ではない。そう言う人は、自分の死角に気づけないことが死角を拡大し、あからさまに弱点を曝すことになるからだ。とは言え、そういうタイプの人を論破するとあとで厄介なことになるので、基本的には人間というのは不思議なものだなと感心しながらきちんと話しを聞くようにしている。

自分が見ているものが自分にとってのすべてである、というのはその通りである。しかしそのことは、自分がすべてを見ているということを意味しない。同じように、自分が知っていることは自分にとってのすべてであるが、そのことは自分がすべてを知っていることを意味しない。ましてや自分の考え方の死角を想像していなければ、考えるほどにその考えはズレていくことになる。

自分は何かを見落としている、自分には知らないことがある、自分の考え方には決定的な死角があるかもしれない、そういう思いから出てくる言葉や行動には「ためらい」が感じられる。「ためらい」があるから「対話」が生まれる。死角を持った者同士が対話することで、自分だけでは気づけなかった何かを知ったり、共有することができる。何より、自分がすべてを見て、知って、わかっていると思っている人間は、そこがゴールである。それ以上の成長はない。自分には見えていないものがあり、知らないことがあり、わからないことがあると思っている人間は、まだまだ途中であり、可能性があるのだ。

ソクラテスが知者であった理由は、自分が知らないということを知っていたからである。論語には「知ると言うことは、知っていることを知っているとし、知らないことを知らないとすることである」といった内容の言葉があったはずだ。道元は「迷に大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり」と言っている。言葉は違うが、「知らないことに自覚的でいること」の大切さを読み取ることは可能である。