とんびの視点

まとはづれなことばかり

火事だ、みんなで助けに行くぞ

2010年05月21日 | 雑文
小さな羽虫が集団で飛んでいる。といっても移動しているわけではない。1ヶ所に集まって上下しながら浮かんでいるという感じだ。春のやわらかい西日の中を心地よく走っていると、気がつかないうちにそんな中に突っ込んでいくことがある。小さなものが口の中に入る。ちょっと柔らかい。吐き出そう、吐き出そうと思うが何も出てこない。イヤな気分を払拭するために「1粒200メートル」とグリコキャラメルのことを思うが、口の中にはイヤな感触が残る。毎年5月のランニングとはこんなものである。

小学校4年生の長男のテストが僕の机の上に置いてあった。社会科のテストで、範囲は「火事の時は119番」というものだ。得点は90点。教育熱心な家庭ならもう少しで100点なのにと残念がるだろう。僕にとっては点数の良し悪しはそれほど問題ではない。それよりもどんなところを間違えたのかが気になる。間違えたのはこんな問題だ。

「4、東京都の区部で火事が起きたときのことについて、正しいものを2つ選んで○をつけましょう」
選択肢は4つだ。長男は1つ選択肢を誤った。何を間違えて選んだのか見てみた。「火事が起きると、区内の全部の消防自動車がいっせいに出動する」というところに○をつけていた。これが間違いだった。

なるほど長男らしいと思った。これを選んだとき、彼の頭の中では「火事が起きた大変だ、みんなで助けに行くぞ」という物語が展開されていたのだろう。誰かが困っていたらみんなで助けよう、そんな真っ当な気持ちの表れだ。心持ちとしては悪くない。君は間違っている、と面と向かって言おうという気にはなれない。

とは言え、社会のテストという意味ではこの解答は間違いだ。1つの火事にすべての消防車が出ていってしまったら、他の場所で火事が起きたときにそちらが手付かずになってしまう。ものごとを全体的に見て、もっとも効率のよいやり方を考えねばならない。そういうやり方こそ、結果的にはより多くの利益を人々にもたらすものだからだ。だから、1つの火事にすべての消防車が出ていくなどというのは子どもの考えであり、そんな子どもに正しいことを教えるのが学校教育である。

なるほど。では、大人たちは結果的により多くの利益を人々にもたらす社会を作り上げているだろうか。どうもそのようには見えない。確かに大人たちは、子どもに比べて日々何かを考えている。考えというのは、どんな内容であれ当人にとっては合理的なものだ。とすれば誰もが合理的に正しく考えている。

社内で誰かが困っていたらみんなで助けに行きたい、という思いがある。その一方で、困っている人を助けるよりも明日の自分の仕事の準備をすることの方が会社にとっての利益が大きいはずだ、という考えもある。消防車の話と同じ型である。あるいは、非正規労働者の所得が上がるようにみんなで何とかしたい、という思いがある。その一方で、自分や家族の将来の不安をなくすためには取り分は確保したい、という考え方がある。これも消防車の話と同型である。

とりあえずみんなで助けよう。そう思うよりも、まず自分を守ることを考えてしまう。おそらく人を助けることが自分を守ることにつながる、という実感が持てないのだろう。何故だろう。困ったときに助けてもらった経験がないからかもしれない。誰も自分を助けてくれないから、自分も誰も助けない。そういう気持ちの動きは理解できなくはない。

でも、その考え方にはすでに合理的な思考が入り込んでいる。「助ける」と「助けられる」が損得勘定の対象になっている。「助ける」という行為は、損得勘定を突き抜けているものだ。少なくとも助けた相手からの見返りを期待したら、それは「助ける」という行為ではない。「助ける」ということは大人の合理的な思考より、火事が起きたらすべての消防車が集まってしまうという愚かな子どもの気持ちに近いのかもしれない。大人とは愚かなことはしないものである。そう言えば、僕が私淑する親鸞という人物は自らを「愚禿」と名乗っていた。