とんびの視点

まとはづれなことばかり

風呂で眠るのは気絶です

2010年05月17日 | 雑文
まずは【受け売り】から。先日、Podcastでヴォイニッチの科学書を聞いていたら、風呂に浸かりながら眠るのは危険だという話しをしていた。本人は寝ているつもりでも、実は気絶をしているらしい。血管が拡張して血圧が下がることによる気絶だそうだ。場合によってはそのまま湯船に沈んでしまうことがあるとのこと。湯船で眠る習慣のある人は気をつけましょう。

さて、前回は不完全であることの可能性について書いた。実際、コーチングの場面などで、不完全であることをマイナスに受け取っている人に出くわすことがある。本人は出来ないことを気に病んでいる。しかし僕から見ればそれは可能性を見て取れる状態である。

何かが出来ないということは、それが出来るようになれば、1つ成長することを意味します。出来ないことにぶつかるということは、自分が成長するチャンスに出合えるということです。出来ないことにぶつかれなければ、もうこの先、なんの成長も望めないということです。だから出来ないことにぶつかるのは喜ばしいことです。自然にしていても世界のほうが成長するきっかけを与えてくれるのです。いやあ、世界も捨てたものではありません。

こんなおちゃらけた感じではないが、こういう主旨のことを伝えて相手にやる気を出させる。そんなことを自分以外の人間に仕事でやっている。しかし自分にとっては出来ない状態というのはイヤなものである。いかに可能性に満ちていようが、不完全はやはり不完全である。そんな自分の姿を見ていると気が滅入ってくる。

厄介なことに、真剣にやろうとするほど不完全さは目につく。今の自分と完全な姿を比較してしまうからだ。気が滅入らなくするためには、完全など目指さないで適当にやっていればよい。しかしそんな風にして数十年生き、そして死んでもあまり意味もなかろう。そんなわけでやはり、気が滅入りながらも不完全な自分の姿を眺め、1つずつ向上させて行くことになる。

潮の干満のように、自分の文章が度し難くひどいものに感じられる時期が周期的にやって来る。今もその時期だ。他人の文章にショックを受けて、状況を打破しようと思った。そんなわけで、アーサー・ビナードの本を図書館から2冊借りてみた。『空からきた魚』というエッセイと『釣り上げては』という詩集である。名前からも分かるように日本語を母語としない外国人である。しかし日本語でエッセイや詩を書いている。しかも講談社エッセイ賞と中原中也賞を受賞している。

外国人が日本語で詩集を出したり受賞しているという事実ほど、文章そのものにはショックは受けなかった。きちんと読み込めば学ぶ所もありそうだが、そんな時間もないので楽しく読んだ。気になったのはエッセイと詩の間にそれほどの差が感じられなかったことだ。感性も言葉を掴まえる場所も詩とエッセーでそれほど違う感じがしない。詩をもう少し膨らませればエッセーになりそうだし、エッセーを凝縮させれば詩になりそうである。

実際、和歌や俳句などの定型詩と散文では両者の違いは形式からすぐわかるが、自由詩と散文の違いは読者には区別がつきにくいときがある。そんなことを思っていたら、そもそも詩とは何か、そういう根源的な疑問が浮かんできた。個々の詩については何らかの意見を述べることは出来るが、「詩とは何か」と尋ねられたらおそらく絶句するか、適当にごまかすことになるだろう。そこで吉本隆明の『詩とはなにか』という本をめくってみた。さすがである。きちんと一言で書いてある。

《詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである。》

全世界を凍らせるかもしれないほんとのこと、というのが凄い。そういう言葉を書きたいという気持ちは言葉を使うものであれば誰でも持つだろう。ただ、そういう言葉だけを使おうとすれば、つねに絶句していることになるだろう。不完全でダメな言葉で書き続けるしかない(そしてそれは今回のテーマでもある)。しかし不完全さを自覚しながら使われる言葉には「ためらい」という良い点がある。そんなわけで次回は「不完全さとためらい」について。
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