とんびの視点

まとはづれなことばかり

不完全の可能性

2010年05月16日 | 雑文
寝違えたようだ。首が上手く回らない。何となく窮屈な週末を過ごす。今日は家族で上野に行った。義父の絵が展覧会に出ているので、見に行ったのだ。どいうわけか、行きも帰りも乗った車両には異臭がした。浮浪者の放つ異臭だ。行きの電車では長男が気持ち悪いと言い出したので車両を変える。何か気になると囚われてしまう呪いにかかりやすいタイプなのだ。(帰りの電車は乗った瞬間に車両を変えた)。

上野公園は休日のにぎわいだ。太陽の光は強いが、乾いた風は少しばかりひんやりする。上野の森の新緑は太陽の光を浴びながら風に揺れる。緑の葉が白く光ったり黒く陰ったりする。そんな光と風と緑の中を子供たちは追いかけっこをしている。笑い声が透明に響く。

展覧会は思ったより面白かった。正直、展覧会には期待していなかった。おじいちゃんの絵が展覧会で飾られているという事実を子どもたちに体験させるイベントというのが狙いだった。ところが思いの他に楽しめた。会場の雰囲気が有名画家の企画展などとは違う。見に来ている人は出展者の知り合いが多いのだろう。すべての絵を見るというよりも、目指した絵を探しているような人が多い。そして絵の前に集まって記念写真を撮ったり、声をひそめることなく話しをしている。ざわついた感じが心地よく、子どもも気楽そうにしている。

絵を見ることも楽しかった。時おり、はっとさせられるものもあったが、大抵は(素人がみれば)ふつうに上手な絵というところだ。でもその分、見ていて楽しい。ふつうに上手な分、ただ描くだけではなく、何かをしようとしている。その意図や狙いが見ていて心地よいのだ。意図や狙いが大きいほど、表現もあからさまになる。絵の出来としてはアンバランスになるが、そういうチャレンジしている姿勢はとても良い。

結局のところ、完璧な作品などないのかもしれない。ある状況において全力で作品を作る。その状況ではそれがベストかもしれない。でも状況という考え方を外せば、その作品にも何か足りない所がある。それが次の作品を作る原動力になる。見方を変えれば、全力で仕上げた不完全な作品を人前に曝すことに芸術の1つの意味があるのかもしれない。そういえば、ゆらゆら帝国が解散したときに、慎太郎さんは、バンドが過去最高に充実した状態、完成度にあると感じた、だから終わりにする、と書いていた。完成を追い求めるには不完成でなければならない。

自分が「何か」になりたいと思えるのは、自分が「何か」ではないからだ。そして自分が「何か」になってしまったときには、「何か」になりたいと思っていた自分はすでに存在しない。私は何かを追い求めている。しかしその何かを手に入れたときには、私はすでに何かを追い求める私ではなくなる。何かを追い求めている人は、それを手に入れることは決して出来ない。(これは大乗仏教で空の理論を打ち立てた竜樹の言葉遣いである。ちなみに、追い求めていない人は、追い求めていないのだからそれを手に入れることはない。追い求める人も、追い求めない人も、手に入れることはないのだから、追い求めて手に入れるということは存在しない。竜樹ならこう続けるだろう)

いずれにせよ、何かを追い求めて不完全であることは出来るのだ。そして不完全であることは、まだその先があるということ、これで終わりではないことを意味している。不完全というのは可能性の別名なのだ。そう、今日の展覧会が楽しかったのは、そこに可能性を感じられたからだろう。そのことを通して、自分の不完全さにも少し可能性を感じられたのかもしれない。
コメント
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