週末、那須にキャンプに行ってきた。「キャンプに行きたい」、ここ1ヶ月ほど次男が言い続けていた。天気はほとんど曇り空でとても寒かった。土曜日の夕方から日曜日の明け方にかけては雨が降った。晴れた日の太陽の光の中の新緑を楽しみにしていたので、ちょっと残念だった。
それでも時おり都会を離れるのはよい。夜、タープの下で椅子に座っている。時おり、ザザザザッと雨が天井に落ちる。雨だ、と子どもたちが驚いたような声をあげる。雨じゃないよ、葉っぱにたまっている滴が、風が吹いて1度に落ちてきたんだよ。トトロのバス停のシーンと同じだよ。トトロが飛び跳ねて木々が揺れると雨粒が落ちるでしょ、と説明する。ザザザザッとまた天井に雨粒が落ちる。ピョーンと次男が飛び跳ねるトトロの真似をする。
今回のキャンプで面白かったのはニジマス論争だ。夜、テントの中で長男が次男を説得している。「どれにするか考えてね。1番、明日はニジマスを釣らない。2番、明日はニジマスを釣らない。3番、明日はニジマスを釣らない。……7番、明日はニジマスを釣らない。8番、明日はニジマスを釣らない。さあ、どれにする。」とてもやさしい声だ。「ぜんぶ〈つらない〉じゃないか。あしたはニジマスをつるの」と次男が大きな声で言い返す。
なぜこんな話しになっているのか。実は1年半くらい前に1度、同じキャンプ場でニジマス釣りをしている。竿とエサを借りてキャンプ場にある池でニジマスを釣る。釣ったニジマスは買い取ることになっていて、さばいて食べる。長男も次男も初めての釣りだった。意気揚々とニジマスを釣り上げたところまでは良かった。だがさばく段になって、長男は自分がニジマスを殺すという事実に打ちのめされた。帰りの車でもうなされながら「ひどいことが」などと言っていた。(次男は打ちひしがれた長男を横に、オレがさばく、とナイフを手にしていた)。
というわけで長男はニジマス釣りをどうしても阻止したいのだ。ところが次男は1度言い出したら引かない性格だ。「どうしてダメなの。ニジマスを釣って食べるんだよ。お兄ちゃんは見なければいいでしょ」と提案には乗らない。「だって殺しちゃうんだよ。ひどいじゃないか。かわいそうだよ。ねっ。やめようよ」。「オレはぜんぜんかわいそうじゃない」。「食べるの、ひどいよ」。「お兄ちゃんだって、肉とか食べるでしょっ」。「だってそれは殺すところは見えないじゃないか」。「いいの、釣って食べるの」。「やめようよ。那須の楽しいキャンプでそんなひどいことをしなくてもいいじゃないか。いやなんだよ」。
いつまでもやり続けているで、ちょっと口を挟む。「殺すところが見えないからいい、というのはちょっと違うと思うよ。殺すのがイヤだって言う気持ちは分かるけど、殺したものをきちんと食べるというのも大切なことなんだよ」と。長男は少し考えて、「わかった、じゃあ、釣るところは一緒に見に行く。そしてさばいている間はテントに隠れていて、焼けたら食べる。魚屋さんの魚だと思って食べる」と決心する。(何だ、やっぱり食べるのか)。
翌日、昼ご飯に合わせて釣りに行く。お金を払って竿とエサを借りる。長男にはバケツを持たせて池に向かう。魚が釣れたら走って逃げるから、と長男は早くも挙動不審。次男は竿を右手にどうどうとしている。直径10メートルもない小さな池だ。少し離れた所からもニジマス達が元気に泳いでいる姿が見える。僕らの足音を聞きつけるとさっと姿を隠す。
「じゃあ釣る」と次男が宣言する。「釣れたら走って逃げるからね、釣れたら走って逃げるからね」何度も確認する長男。エサをつけ、水に入れる。入れたと思ったらあっという間に食いつく。糸が定規で書いた線のようにピンとまっすぐになる。ウキが一気に水中に引き込まれる。竿がしなる。おおっ、と次男は声をあげながら、竿をコントロールしようとする。右、左に竿が揺れ、引き込まれる。長男は走って逃げようとしている。
すっ、と竿がもどる。逃げられたのだ。エサを付け直してもう1回。あっという間にウキが水中に引き込まれる。釣り堀とは言えいささか簡単に食いつきすぎる。これじゃあすぐに終わってしまう。今度は竿を立ててコントロールしている。竿を引き込む力が弱まって、ニジマスの姿が水の中から現れる。空中を舞い、地面に落ちる。「じゃあ、オレは行くから」そう言って長男は走っていってしまう。
ニジマスは地面で跳ねている。そう言えばバケツを用意していなかった。バケツを持ってニジマスをつかみに行くが、あっという間に池の中に飛び込んでしまう。残念だねと口では言ったものの、もう一度釣りが楽しめる。今度はバケツを用意して、エサをつけて放り込む。三度目、入れた瞬間にニジマスが食いつく。次男はしっかりと釣り上げる。ニジマスをつかみ、針を外す。掌の中のニジマスが凄い力で逃げ出そうとしている。ニジマスからすれば本能的な動きなのだろう。でも僕には、捕まったら殺され、塩焼きになるのだから、命がけで逃げようとするのも当然だと思えてくる。自分の思いをニジマスに投影しているのだ。
次男は嬉しそうにバケツの中をのぞき込んでいる。ニジマスは元気そうに泳いでいる。今回はキャンプ場の人にニジマスをさばいてもらう。手にしたバケツの中でニジマスが跳ねる。その力が手に伝わる。バケツを手渡す。5分ほど待ってビニール袋に入ったニジマスを手渡される。右手で受け取る。拍子抜けするくらい軽い。命がなくなったのだ。重さというか、手応えとして命(の欠落)を感じたのは久しぶりだ。
ついさっきまであったニジマスの命はどこに行ったのだろう。どこも思いつけずに、ニジマスの池に思いを向ける。あそこには同じような運命を待っているニジマスがたくさんいる。誰かに釣られ、さばかれることを待っているニジマス達だ。釣られ、さばかれ、食べられるために存在しているニジマス達。そう思うと、ちょっとやるせない気分になる。
でもそれも僕の投影にすぎない。ニジマス達にとってはそこが釣り堀であることも、キャンプ場のアトラクションであることも関係はない。水の中を泳ぎ、エサがあれば食いつき、命が終わるまで生きるだけである。自分たちが「何のために」存在しているのかは問題ではない。それは人間が勝手に考えることだ。
それは私たち人間にとっても同じである。「人間が他の生き物に対してやっていることは、すでに人間に対してやったことだ」という格言がある。(嘘です。いま思いついたものです)。私たちも釣り堀のニジマスのような存在なのかもしれない。私たちの生きる枠組みは誰かに決められているのかもしれない。その存在理由さえも決定済みなのかもしれない。でもそれは誰かが勝手に考えることで、私たちの問題ではない。ニジマスが水の中を泳ぎ、エサがあれば食いつき、命が終わるまで生きるように、私たちも出来事と巡り合い、トラブルを乗り越え、命が終わるまで生きるのである。
それでも時おり都会を離れるのはよい。夜、タープの下で椅子に座っている。時おり、ザザザザッと雨が天井に落ちる。雨だ、と子どもたちが驚いたような声をあげる。雨じゃないよ、葉っぱにたまっている滴が、風が吹いて1度に落ちてきたんだよ。トトロのバス停のシーンと同じだよ。トトロが飛び跳ねて木々が揺れると雨粒が落ちるでしょ、と説明する。ザザザザッとまた天井に雨粒が落ちる。ピョーンと次男が飛び跳ねるトトロの真似をする。
今回のキャンプで面白かったのはニジマス論争だ。夜、テントの中で長男が次男を説得している。「どれにするか考えてね。1番、明日はニジマスを釣らない。2番、明日はニジマスを釣らない。3番、明日はニジマスを釣らない。……7番、明日はニジマスを釣らない。8番、明日はニジマスを釣らない。さあ、どれにする。」とてもやさしい声だ。「ぜんぶ〈つらない〉じゃないか。あしたはニジマスをつるの」と次男が大きな声で言い返す。
なぜこんな話しになっているのか。実は1年半くらい前に1度、同じキャンプ場でニジマス釣りをしている。竿とエサを借りてキャンプ場にある池でニジマスを釣る。釣ったニジマスは買い取ることになっていて、さばいて食べる。長男も次男も初めての釣りだった。意気揚々とニジマスを釣り上げたところまでは良かった。だがさばく段になって、長男は自分がニジマスを殺すという事実に打ちのめされた。帰りの車でもうなされながら「ひどいことが」などと言っていた。(次男は打ちひしがれた長男を横に、オレがさばく、とナイフを手にしていた)。
というわけで長男はニジマス釣りをどうしても阻止したいのだ。ところが次男は1度言い出したら引かない性格だ。「どうしてダメなの。ニジマスを釣って食べるんだよ。お兄ちゃんは見なければいいでしょ」と提案には乗らない。「だって殺しちゃうんだよ。ひどいじゃないか。かわいそうだよ。ねっ。やめようよ」。「オレはぜんぜんかわいそうじゃない」。「食べるの、ひどいよ」。「お兄ちゃんだって、肉とか食べるでしょっ」。「だってそれは殺すところは見えないじゃないか」。「いいの、釣って食べるの」。「やめようよ。那須の楽しいキャンプでそんなひどいことをしなくてもいいじゃないか。いやなんだよ」。
いつまでもやり続けているで、ちょっと口を挟む。「殺すところが見えないからいい、というのはちょっと違うと思うよ。殺すのがイヤだって言う気持ちは分かるけど、殺したものをきちんと食べるというのも大切なことなんだよ」と。長男は少し考えて、「わかった、じゃあ、釣るところは一緒に見に行く。そしてさばいている間はテントに隠れていて、焼けたら食べる。魚屋さんの魚だと思って食べる」と決心する。(何だ、やっぱり食べるのか)。
翌日、昼ご飯に合わせて釣りに行く。お金を払って竿とエサを借りる。長男にはバケツを持たせて池に向かう。魚が釣れたら走って逃げるから、と長男は早くも挙動不審。次男は竿を右手にどうどうとしている。直径10メートルもない小さな池だ。少し離れた所からもニジマス達が元気に泳いでいる姿が見える。僕らの足音を聞きつけるとさっと姿を隠す。
「じゃあ釣る」と次男が宣言する。「釣れたら走って逃げるからね、釣れたら走って逃げるからね」何度も確認する長男。エサをつけ、水に入れる。入れたと思ったらあっという間に食いつく。糸が定規で書いた線のようにピンとまっすぐになる。ウキが一気に水中に引き込まれる。竿がしなる。おおっ、と次男は声をあげながら、竿をコントロールしようとする。右、左に竿が揺れ、引き込まれる。長男は走って逃げようとしている。
すっ、と竿がもどる。逃げられたのだ。エサを付け直してもう1回。あっという間にウキが水中に引き込まれる。釣り堀とは言えいささか簡単に食いつきすぎる。これじゃあすぐに終わってしまう。今度は竿を立ててコントロールしている。竿を引き込む力が弱まって、ニジマスの姿が水の中から現れる。空中を舞い、地面に落ちる。「じゃあ、オレは行くから」そう言って長男は走っていってしまう。
ニジマスは地面で跳ねている。そう言えばバケツを用意していなかった。バケツを持ってニジマスをつかみに行くが、あっという間に池の中に飛び込んでしまう。残念だねと口では言ったものの、もう一度釣りが楽しめる。今度はバケツを用意して、エサをつけて放り込む。三度目、入れた瞬間にニジマスが食いつく。次男はしっかりと釣り上げる。ニジマスをつかみ、針を外す。掌の中のニジマスが凄い力で逃げ出そうとしている。ニジマスからすれば本能的な動きなのだろう。でも僕には、捕まったら殺され、塩焼きになるのだから、命がけで逃げようとするのも当然だと思えてくる。自分の思いをニジマスに投影しているのだ。
次男は嬉しそうにバケツの中をのぞき込んでいる。ニジマスは元気そうに泳いでいる。今回はキャンプ場の人にニジマスをさばいてもらう。手にしたバケツの中でニジマスが跳ねる。その力が手に伝わる。バケツを手渡す。5分ほど待ってビニール袋に入ったニジマスを手渡される。右手で受け取る。拍子抜けするくらい軽い。命がなくなったのだ。重さというか、手応えとして命(の欠落)を感じたのは久しぶりだ。
ついさっきまであったニジマスの命はどこに行ったのだろう。どこも思いつけずに、ニジマスの池に思いを向ける。あそこには同じような運命を待っているニジマスがたくさんいる。誰かに釣られ、さばかれることを待っているニジマス達だ。釣られ、さばかれ、食べられるために存在しているニジマス達。そう思うと、ちょっとやるせない気分になる。
でもそれも僕の投影にすぎない。ニジマス達にとってはそこが釣り堀であることも、キャンプ場のアトラクションであることも関係はない。水の中を泳ぎ、エサがあれば食いつき、命が終わるまで生きるだけである。自分たちが「何のために」存在しているのかは問題ではない。それは人間が勝手に考えることだ。
それは私たち人間にとっても同じである。「人間が他の生き物に対してやっていることは、すでに人間に対してやったことだ」という格言がある。(嘘です。いま思いついたものです)。私たちも釣り堀のニジマスのような存在なのかもしれない。私たちの生きる枠組みは誰かに決められているのかもしれない。その存在理由さえも決定済みなのかもしれない。でもそれは誰かが勝手に考えることで、私たちの問題ではない。ニジマスが水の中を泳ぎ、エサがあれば食いつき、命が終わるまで生きるように、私たちも出来事と巡り合い、トラブルを乗り越え、命が終わるまで生きるのである。