とんびの視点

まとはづれなことばかり

ゴールデンウィーク、雑記

2010年05月03日 | 雑文
今日は調子を整えるための雑記である。何となく書く、ということはあまりやりたくないのだが、適当なサイクルで文章を書いていると日常も良い感じで回っていく。書きながら何かが整理されていくのだろう。そういうわけで、雑記である。付け加えるなら、適当なサイクルで文章が書けているときは、うまくランニングができているときでもある。

というわけで4月のランニング。4月の走行距離は112km。突発性難聴以来、ランニングの負荷を下げたとはいえ少なすぎる数字である。4月はブログの本数も少なかったし、日常も少しだれていたような気がする。実際、走力も落ちている。ちょうど1年前には、サロマ湖ウルトラマラソンの準備のために、自宅から葉山まで一人で走った。72kmを8時間ちょっとかけて。そんな走力も気力も今はない。

ゴールデンウィークの始まりで次男(五歳)が体調を崩す。そのため予定が少しばかり狂う。狂ったことを利用して、長男(八歳)と2日続けて岩淵水門までランニングに行く。自宅から荒川の土手に出て上流に向かう。岩淵水門で折り返し家に帰ると11~12kmくらいになる。長男は途中まで自転車。水門の一つ手前の橋から水門までランニングをする。往復で2.5km程度。

長男は走るのが苦手だ。体はグニャグニャでフォームもめちゃくちゃだ。走り出せば、頭は左右に揺れているし、背筋も伸びずタコのようだ。脚も上がらずドタバタと足音がする。つま先が地面から離れないので、ときどき躓きそうになる。上半身と下半身がバラバラでお互いの力を殺しあっている。ちょっと走ると息が上がり、苦しそうな表情だ。

自分の子どものころとまったく同じだ。長い距離を走るのがとにかく嫌いだった。苦手と言いたいところだが、そう言えるほど走らなかった。ちょっと走って楽じゃないので、そのまま逃げていたのだ。スポーツは嫌いではなかったが、長距離で苦しむのは大嫌いだった。小学校、中学校、高校とずっと避けていた。だから長男の苦しさはよくわかる。無理にスピードを上げさせるより、ゆっくりでも良いから、あきらめずに最後まで走れるように励ます。

晴れていて暖かく、風も穏やかに吹いている。遠くのグランドでは少年野球をやっている。時折、金属バットにボールが当たる音が聞こえる。サイクリングの集団が注意深くスピードを落として横を抜けていく。長男は苦しそうな表情で足下を見ながら走っている。足下には昼近くの太陽が作った短い影がランニングに合わせて動く。僕の影はほとんど動かないが、長男の影は踊っているかのようだ。影の髪の毛も飛び跳ねている。

影をよく見てごらん、僕の影はほとんど揺れてないけど、君の影はすごく動いている。もう少し体をしっかりさせ、あまり影が揺れないように走ってごらん。声を出さずにうなずく。そして少しだけしっかり走る。

水門で折り返すと向かい風だ。苦しそうなのに、なんでだー、と元気な声を上げる。そして遠くのゴールを見て、まだあんなにある、と言う。あまり前を見ずに一歩、一歩走ろう、そうすればいずれ終わるから。そう言ってスピードを落とす。残り700mあたりで突然、足音が聞こえなくなる。そしてスピードが上がる。表情も苦しくなさそうだ。体が調整し始めたのだ。自分にとって合理的な動きを始めたのだ。フォームも整ってきた。その感じだよ、そのまま最後まで走ろう、あまりスピードは上げずに。最後までいいペースで走り終わる。本人も満足そうだ。彼より走れる四年生はいくらでもいるだろうが、四年生のときの僕よりもよい。十分である。

翌日も同じような感じだ。最初はどたばたして苦しむが、最後の方でフォームができて良い走りになる。本人も満足している。走り終わった後、水道で水を飲む。そして自転車で僕のランニングの併走をする。風を受け、髪の毛が流れる。目を細めながら自転車をこぐ。とても良い顔をしている。僕はその表情を何度も思い出すのだろう、とくに春に土手をランニングしたときなどには。長男も大人になったら父親のランニングに自転車で併走したことを思い出すのだろう。そして今度は長男が自分の息子とランニングをするのかもしれない。そうやって、あたりまえのような出来事が、受け渡されていくのだろう。何かを受け渡すために、僕たちは時間を共有しているのかもしれない。そんなことを考えながら走る。ランニングをしていると、頭がいい感じでゆるんでいくものだ。

先日、舟について書いたら、舟についての言葉にぶつかった。道元の言葉だ。相変わらず、道元の言葉はすばらしい。こんな言葉だ。「生というは、たとへば、人のふねにのれるときのごとし。このふねは、われ帆をつかい、われかじをとれり。われさおをさすといえども、ふねわれをのせて、ふねのほかにわれなし。われふねにのりて、このふねをもふねならしむ。この正当恁麼時を功夫参学すべし」

生きていることは、人が舟に乗るときのようなものだ。この舟は、私が帆を使い、舵をとり、竿をさしている。だが、舟が私を乗せているのだ。舟に乗っている時のほかに私は成り立たない。私が舟に乗っていることで、この舟は舟としてあるのだ。このようにしていままさに生きている。そのことを大切に大切に考えねばならない。

さてさて、ゴールデンウィークも後半、とりあえずランニングは好調である。
コメント
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